第4話 猫下さん山本文緒作品を語る

早朝の真冬のF井県の寒さは中々の手ごわさで、アウトドア派の環も慣れるまでは、なかなかスッと外に出ていこうという気にならなかった。会社のそばにあるカラオケボックスで友人と二時間ほど歌って外にでたら、歩けない程に雪が積もっていたこともあった。日本海から吹きつける寒波は、全身を針で刺された感覚で、寒いを通り越し、痛くて皮膚が破裂しそうな強烈な感覚であった。環は一眼レフと焦点距離四百ミリの超望遠レンズ、三脚を愛車コペンをオープンにして、ラゲッジスペースにカメラの機材を詰め込んだ。環は防寒具を着込み、待ち合わせ場所に指定していた図書館にクルマを走らせた。フルレストアされたコペンは以前とは見違えるほどに軽快な乗り心地で、愛車のあまりにも素晴らしい仕上がり具合に環は思わず苦笑した。メカニックの鵜澤うざわから仕上げて頂いたコペンで、工場周りを周回し、走行面の仕上がりをチェックしていた環は、素直に感動していた。コペンから降りた直後に、鵜澤に駆け寄り、両手を握って感謝の言葉を述べた。油に塗れたツナギの鵜澤は照れくさそうに頭をかいていた。まだ開いてもいないサンドーム図書館に到着し、空を見上げて見ると雲一つない青空が冬の日に広がっていた。鈴木はだいぶ厚着をして、文庫本を読みながら環の到着を待っていた。『すずピッピ、おはよー、絶好の写真日和だね。今日は宜しくお願いします』環は喜びに満ちた声で寒そうに待つ鈴木に笑みを見せた。『おはようございます。てか、猫下さん、なんでこんな寒いのにオープンにしてるんですか?』鈴木はコペンのルーフが開いているのを見て、ため息をついた。『何ば言いよーと。オープンにしぇな、ラゲッジスペースに荷物が入らんやろうもん』環は博多弁で鈴木にまくし立てた。あまりの勢いに鈴木は気圧され、黙り込んだまま助手席に乗り込んだ。心の中では、そういうことなら自分のクルマであるジムニーを出したのにとボヤいた。『何読んでたん?』環は鈴木の持っていた文庫本に視線を移して尋ねた。『ああ、あの、山本文緒さんの作品です』鈴木は目の前の風景を眺めながら、環に答えた。『もしかして、「自転しながら公転する」?』『そう!それです!この本の装丁ホントかっこいいですよね』環はハンドルに手を乗せたまま器用にタバコを咥えて火をつけた。『傑作の多い山本文緒さんの作品の中でもダントツに最高傑作かもね。ちょっとしたミステリを仕組んでるのも、凄くいい味付け、主人公である都が、恋愛・結婚・仕事・親の介護・人間関係…様々な事に悩み、もがきながら幸せを求めるような人生に共感必死。映画化もされたよね』鈴木は詳しく解説する環を呆然と見つめた。『てか猫下さんって年に何冊くらい本読んでるんですか?』『図書館にいるときは常に読んだりしてるから千冊くらいかな?』『せ、千冊?』『うん』年間千冊の読書を事もなく語る環を鈴木は呆然と見ていた。『猫下さん、やっぱオープンカーのルーフ閉めません?めちゃくちゃ寒くて指が痛い…』鈴木は寒そうに両の手を擦っていた。『だからあ、閉めたらラゲッジスペースが狭くなってカメラの機材が入らないんだって』環は運転しながら声を荒げた。鈴木はマフラーを付け直し、押し黙った。『しかし、猫下さんが写真撮影趣味だとは知らりませんでしたよ』オープンカーからの冬の冷気を顔面に浴び、やや紅潮させながら、鈴木は環に話しかけた。『ごめんね、趣味の写真撮影の機材を運ぶ助手がどうしても欲しかったんだ』環は助手席に座る鈴木に悪びれずに答えた。鈴木は荷物持ちとして選ばれたことに少しだけショックを受けた。『今日は何を撮るんです?』鈴木の問いかけに、環は少し間をおいて、タバコに火をつけた。『ハクセキレイ』と環は答えた。『ハクセキレイ?』初めて聞く単語を鈴木は繰り返した。『そう、F井県にもいるじゃん、人懐っこくててくてく歩く小鳥』環にそう言われても鈴木はピンとこなかった。『体長20cmぐらいで細身な体をしていて名前の通り白っぽいんだけど頭や肩、背中は黒か灰色で胸は黒いかな?夏の時は細身なんだけど、冬はぷっくら膨らんでるの』『人間のこぼしたパンくずを食べたり、人間に餌をねだったりするのが可愛いんだ』『地元のF岡県でも結構見かけたんだけどさ、足を交互に出して素早く歩くあの姿は見たら忘れられないんだなあ。可愛くて』『人の側にも平気で来たりするからね。人に対する恐怖心とか警戒心が無いんだろうね。だから撮影しやすいんだけど…』うー寒い、と環はボヤキ節で運転に集中していた。サングラスをかけていた環は白い息を吐いた。北陸の冬場独特の風の冷たさは、十分な睡眠を取れなかった鈴木にとっていい眠気覚ましとなっていた。国道305号線をシーサイドラインで北上し、目的地である鉾島ほこじま園地に到着した。越前海岸にある鉾島ほこじまは柱状の岩がほこを並べたように見えるので鉾島と呼ばれるようになった。鉾島には荒波に浸食されたいろんな形状の安山岩が見られ、鉾島には駐車場や遊歩道も整備されていて、遊歩道では高さ50mの島の上のほうにあるほこらのところまで登っていけた。鈴木自身もドライブでよく立ち寄る大崎海岸遊歩道は、F井県の穴場観光地域である。今回のような写真撮影やインスタグラム投稿の記事には地元の人たちも推したい絶景である。その岩はとてつもなく巨大なザクザクとした形の柱状節理で大海原を望む港町を見下ろしながら、ぬっとそびえ立っていた。その巨大な岩こそが鉾島である。そばにある遊歩道の駐車場にクルマを停めて、環はラゲッジスペースからカメラ機材を取り出した。鈴木も機材運びを手伝う。バッグの中のたくさんのレンズは動くたびにカチャカチャと忙しい音を鳴らし、小柄な環が持つと一眼レフカメラはより大きく見えた。早朝のせいか幸い観光客は誰もいなくて、下の岩場で釣り人が賑わっているだけで、まるで海の中に自分がいるのかと錯覚するほどに静かで波音しか聴こえない。『どうしてここなんです?』鈴木は両手でリュックのベルトを抱え、遊歩道を歩きながら環に聞いた。『此処でハクセキレイを結構見たことあるの。他にもオオルリやキビタキ、カワセミとかも見たり、穴場の絶好スポット』環は三脚にカメラを据えて鳥が出てきてくれるのを待った。野鳥は人の大きな動作に敏感なので、三脚を使うことで撮影までの動作が静寂に行える。『ところで猫下さん、山本文緒さんの作品でどれがオススメとかってありますか?』隣りにいた鈴木は、寒さに震えながら、野鳥に注意してか細い声で聞いた。『え?今それ聞く?』環は眉間にしわを寄せて鈴木を見た。『いや、すみません、待つのに寒くて…なんか会話でもしてないと落ち着かなくて…』忍びない様子で右手で手刀を作り詫びの姿勢をみせた。環は白い息を吐きながら望遠レンズを眺め、シャッターチャンスを待ち続けた。『山本文緒さんって、すい臓がんで亡くなられるまで、30以上の小説とエッセイを綴られてるんだよね。中でも私が超オススメしたいのは、「シュガーレス・ラヴ」かな』環はレンズを確認しつつ、隣で缶コーヒーを飲む鈴木に話しかけた。『シ、シュガーレス・ラヴですか?聞いたこと無いな』『20年以上も前の作品なんだけどさ、今読んでも全く色褪せないし、十分共感出来る傑作で10人の女性が、それぞれ身体の不調を抱えていてそれとどう向き合って生きるかっていう短編集。なかでもオススメは肥満をテーマにした「秤の上の小さな子供」って話がかなり刺さった。エッセイでは断然、遺作となった闘病日記の「無人島のふたり」余命120日を宣告されてから抗がん剤を服用せず、在宅緩和ケアを始めてから書き綴った134日間の日記は、小説の新しいアイデア、夫への愛などが書かれて、ページ数が少なくなるに従って切なくなり、最後まで読み切るのが勿体なく思えるほどに尊いノンフィクション。私が一番感動したノンフィクションかも…』環はファインダーを覗きこみながら、白い息を吐いた。眼前に隆起する黒みを帯びた神々しいばかりの巨大な岩は、日本海の荒海に削られて、鋭い槍のように粗く尖っていて、底しれぬ深みを讃えていた。「ヒリョヒリョヒュルル」という低い鳴き声が、岩の頂上の祠のほうから聴こえた。『あ、いた!』と環は頂上を指で差して、一眼レフを持ち合わせて狭い遊歩道を駆け出した。『ちょっ 猫下さーん』鈴木は大声で呼びかけるも波音でかき消され、環はずんずんと鉾島へと歩みを進めていた。日本海に浮かんでそびえる鉾島の姿はさながらゲームの世界に入ったかのように幻想的で、鈴木の視線からは、環がそのゲームの主人公のように映った。『え、マジでこれ、登るの?』三脚やらレンズの替えを入れた大荷物を持つ鈴木はため息をついた。『猫下さーん』と再び叫ぶも、環はだいぶ先の方まで進んでいるようで、鈴木はまぶたを何度も瞬かせていた。『頑張りますよ、僕は助手ですから』鈴木は自分に言い聞かせて、肩で息をしながらリュックを両手で抱えて鉾島を登ってゆく。一歩一歩と人的に造り込まれた狭い遊歩道を慎重に進んでいく。小鳥の囀りはまだ続いていた。ようやく登り終えて、小さな鳥居の前に立つと、古ぼけた無人の祠があり、不動明王坐像が祀られていた。その横で、環はカメラを構えて、ハクセキレイを探していた。息を切らした二人が、賽銭箱の縁に立つハクセキレイを発見すると、お互いに顔を見合わせて、音を立てないようにゆっくり接近した。環はピントを調節し、乱暴にも思えるリズムで、シャッターを連射した。『やった!』と環が叫んだ後、ハクセキレイは若狭湾の大海原へと羽ばたいていった。『ふう、ベストショットが撮れた。すずピッピありがとう』環は息を切らしながらうっすらかいていた汗をぬぐった。急に走り込んだ為に顔はほんのり紅潮していた。地元民ではあるが、鈴木は鉾島の頂上から見る美しさに改めて感動していた。『せっかくだから、お参りしていこう』環は財布から小銭を出して、賽銭箱に入れた。鈴木も続いて財布から出した五円玉を賽銭箱に放り込んだ。二人は手を叩いて祈願した後に、元来た遊歩道を並んで歩いていた。加齢による筋のりのせいか鈴木は足を少し引きずりながら歩いた。『すずピッピは何をお祈りしたの?』環は少し遅れて歩く鈴木に尋ねた。『これからも、素晴らしい本と御縁がありますように…あ、五円玉と御縁はかけてます』はにかみながら笑みを浮かべた。二人は顔を見合わせて、お互いに笑った。鈴木は環の朝日に照らされた笑顔がとても眩しく感じた。

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