第3話 『湾岸リベンジャー』

環は叔父から譲り受けた初代L880Kコペンをフルレストアしてもらう為に、F井県の中でもかなり有能な整備士のいるディーラー元へと足を運んでいた。20年、20万キロのコペンは見た目は綺麗でも、中身はボロボロ状態。アルコール依存で入退院を繰り返す叔父と同じく、人間もクルマも同じく、壊れてからでは相当な時間とお金がかかる。鮮やかなグリーンマイカメタリック、丸いヘッドライトに前か後ろか分からないほどのラウンディッシュなボディ。曲線で構成されている味のあるデザインは、初代ミニクーパーのような古き良きレトロっぽさも親近感があっていい。何よりも大好きな叔父から譲り受けた賜物だ。動く限りは出来るだけ大切に乗ってあげたい。しかし最近はギアの入りが悪く、高速では問題ないが、渋滞したりするとすぐにノッキングを起こす。近辺の田舎道ではガリガリと音をあげ、クラッチを何回も踏んでギアを入れ直ししないといけない。一度坂道でのノッキングした時は、背中に、冷や汗をかいたものだった。正直今の経済状況ではクルマにあまりお金をかけられる余裕はないが、このコペンだけは絶対に手放したくは無かった。周囲には雑草が生えていて刈られることもなく、潰れた工場のような場所に修理待ちのスポーツカーが数台停められていて、中からぬっと油で汚れたツナギを着た男性が出てきた。『よお、タマちゃん、予定よりだいぶ早かったな』一級整備士の資格を取得している鵜澤うざわ悠馬ゆうまさんは、鈴木の高校時代からの同級生で、元走り屋でもあり、ことスポーツカーに関してはかなり精通していた。一昨年雪の降り頻る朝方、中々エンジンがかからず、ハザードを点滅させて、ボンネットを開けて中を確認していた環に、たまたま通勤していた鈴木が見かけて声をかけてくれた。鈴木とは図書館の喫煙室で知り合ったばかりであったが、野暮ったい背広姿の男が昔は走り屋だったと聞いて驚きが隠せなかった。環は鈴木にいきなりエンジンがかからなくなったという旨を伝えると、自宅に戻り、工具箱からプライヤーとドライバーを取り出し、ボンネットの中を確認して、環から急にブレーキやステアリングが重くなった旨を聞くと、近くの工場で働く鵜澤に連絡をとってもらい、オルタネーターを交換してもらって事無きを得た。鵜澤と鈴木は、過去の走り屋時代の話に花を咲かせている中、環は何度も何度も頭を下げて御礼を言った。以来の仲である。そして今日、鵜澤にフルレストアを依頼すると、新車のアルティメットエディションの頭金が余裕で払えるほどの整備費が見積もりであがり、環は目が飛び出る思いだった。『たまちゃん、どうする?この額だと、経済的にも新車を買ったほうが断然お得だけど?』鵜澤はやや様子を伺うような上目遣いで、環に尋ねてきたに。『でも、とりあえず今回の整備で、基本は新車同然になるんだよね?』もちろん、と自信を持って鵜澤は答えた。『速さで言えば、現行の400コペンよりも880コペンの方が圧倒的に速い。現行の軽自動車じゃ最速でもあるよね。乗り心地も旋回性もブレーキ系統も、エンジンのレスポンスも限りなくギリギリに近い状態まで制御をあげることを約束する』それを聞いて環は即決で修理をお願いすることにした。入院中の叔父の喜ぶ顔が浮かんだ。ようやく安堵した環は、胸ポケットからラッキーストライクを取り出し、工場横のプレハブの休憩所でタバコを勢いよくふかした。環はアルコール依存で糖尿病を併発した為に片足を切ることになってしまった叔父のことを思い出していた。叔父はそれまではクルマの運転が好きで、サーキットなどにもよく顔を出したりしていたらしい。環に愛車を譲るときも少し寂しそうな笑みを見せていた。進学をわざわざF井県の国立大学にしたのも、叔父が住んでいて病院からも近いというのが主だった理由であった。独身である叔父は姪である環のことを本当に可愛がってくれ、幼い頃からよく遊びに連れて行ってくれた。晩年、祖父母の故郷であるF井県に住むと決めて、空港で別れる際に環はあり得ないほど号泣した。そして大学進学と共に叔父の近辺に来たときには、アルコールでだいぶ肝臓がやられて顔色もだいぶ悪かったし、白髪も増えてすっかり年老いていた。『なあ、環、俺のコペン、お前に譲るわ』と右脚の切断手術の前に、泣きそうな声で頼んできたが、バイク派の環としては型落ちのコペンを渡されたところで満足に乗りこなせる自信は無かった。譲り受けてから初めての乗車でエンジンをかけた瞬間、ヴォヴォヴォ〜という感じの重低音のエキゾーストサウンドが響いて、ハンドルから小刻みな振動を感じる。まさにじゃじゃ馬のスポーツカーなんだなと環はすっかり虜になり感動してしまった。以来、環はこの初代コペンを大事に乗り継いでいる。『あ、猫下さん、コペンのフルレストアの見積もり終わりました?』図書館の地下の喫煙室で鈴木は片手に単行本を持ってタバコの煙をゆらゆらとふかしていた。鈴木が手にしていた本、黒い表紙に蛍光緑でタイトルを浮かび上がらせ更に箔押しされたポップで美しいデザインの装丁は人気ブックデザイナーの松昭教氏によるものだ。『「湾岸リベンジャー」じゃん!懐かしい』環は鈴木の持っていた単行本に笑みを見せた。『あ、さすが猫下さん、これ、読んだことあります?』『もちろん、走り屋の小説だし、当時人気のスポーツカーもバシバシ出てくるし、ストーリーはクールだし、漫画にもなっているし』戸梶圭太作品の「湾岸リベンジャー」は初期の戸梶節の荒ぶる破茶目茶展開がほどよく詰め込まれ、人気の作品であった。『世のタブーや不条理をエグくコミカルに綴っているのがトカジ作品の味付けだよね。落ち込んでいる時、ストレスが溜まった時、あれこれ悩んでしまう時、あの毒のあるバカミステイストな作品を読むと不思議と何もかもどうでも良くなってハイになっちゃう浮遊感に酔いしれて、もう出版されているものは全て読みつくしちゃった。「溺れる魚」に「牛乳アンタッチャブル」「トカジノフ」「トカジャンゴ」「トカジャングル」バカミスでグロくて誰一人感情移入出来ないエグい作品のオンパレード!白井智之さんや平山夢明さんらの先駆者的な存在』環はほとんど一方的にもまくし立てた後にカバンからタバコを取り出して口にくわえ火をつけた。『頭文字Dとか、湾岸ミッドナイト、ナニワトモアレ、オーバーレブ、カウンタック、走り屋系の漫画は、山ほどあるけど、走り屋を題材にした小説は無かったから、新鮮だったなあ』環はうっとりとした表情を浮かべた。 『物語は実にハリウッド映画顔負けのスピード感溢れる展開で、登場する車については随所に写真入りとなっているなど、細かな配慮もされていて走り屋による事故で妻を亡くした主人公の野島と、同じ事故で孫を亡くした資産家の美濃部が「走り屋」をターゲットに大掛かりな計画で、犯人を追い詰めていくんだけど、その展開も中盤から一気にヒートアップし、後半は走り屋への復讐が、テロ計画にまで発展しと、予想もしない展開が待ち受けていて、先の展開が予想できず、次はどうなっていくのかと読みながらワクワクさせられて、高速道路でのスピード溢れる描写など、迫力ある臨場感が著者独特の文体からも伝わってるし、読む者の胸のエンジンに火をつけてくれて、心のアクセルもベタ踏み、交通ルールも人としてのルールもガン無視の戸梶節全開!爽やかには終わらないワイルド・スピードやトランスポーター それでいて伏線回収はしっかりしているのが良いよね』よく覚えてますねえ、と鈴木は感心した表情を環に向けた。『ところでさあ、すずピッピは当時は何のクルマに乗ってたの?』『トヨタ・レビンです…』鈴木は照れくさそうに頭を掻きながら言った。『てかAE85かよ!今でこそ頭文字Dの影響でとんでもない高額で売られてるけどさ』『全く…売って損しましたよ』鈴木は虚空を見上げ、大きくため息をついた。『当たり前じゃん!今や200万前後で売られているマニアックカーなんだから…』環は呆れて肩をすくめた。 『てかさあ、すずさん、戸梶圭太の「湾岸リベンジャー」はよう読みんさいね』『は、はいい』鈴木は恐る恐る頷いてタバコをもみ消して、失礼しますと、そそくさと喫煙室を後にした。

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