第2話 猫下さん新田次郎氏を語る

ジリリリリリとベルの音が鳴り、反射的に目覚まし時計を五つ破壊した後に、もう一度寝る態勢に入り目を閉じる。頭が程よく痺れていて、意識が途切れ途切れになってゆく。まるでマッサージをされているかのような深い眠りに誘ってゆく。暫くしてキーンというような耳鳴りのような音が脳内に響いて、何事だろうかと思いつつ、目を開けてみると、そこは暗闇の中であった。黒いカーテンに黒い敷毛布、真っ白な壁紙。全てが白黒で統一されたモノトーンの部屋は無機質であり緊張感を与え、程よい眠りを与えてくれるが、時としてそれは約束された時間を大いに裏切る行為となる。『わわわわわわ』声にならない奇声を発し、身体中に汗が噴き出てベッドから転がり落ちて、懸命に目覚まし時計を探すも、買ったばかりの真新しい時計たちは残念ながら冥土めいどへと誘われた。一瞬にしてパニックになり、心臓が縮こまる。瞬間、映画『地獄の黙示録』のワルキューレの騎行が頭の中に鳴り響きだす。ハッとなり、近くにあったスマホに手を伸ばすと鬼のように着信履歴が入っていた。廊下の薄明かりでかろうじて寝室の中が確認できた環は、のそのそと起き上がり、床にへたりこんだ。『すみません、今日、体調不良で、休ませて…ください』発信履歴に折り返すと図書館の館長が出てくれ、声を振り絞り、荒い息を吐きながら休む旨を連絡する。電話を切った後に環は寝室の電気をつけたが、まだ心臓が鳴り止まない。破裂しそうなくらいの鼓動の音が脳内に響き渡る。部屋中あちこちを駆け回りつつ薬を探す。連日の残業続きで、精神科に通うことが疎かになっていた環は、薬箱の中の精神安定剤デパスが空になっているのを確認し、天を仰いだ。『はあ…』と声にならないため息をついて白いテーブルに置いてあるラッキーストライクに手を伸ばし、口先でくわえながらジッポで火をつける。環は紫煙を吐いたあと、再び大きなため息をついて盛大な舌打ちをくれた。わちゃ〜と頭を掻きむしる。元来パニック障害持ちの環は、まめに市内の精神科に通い、安定剤のデパスと睡眠導入薬を処方してもらっていたが、このところの残業続きで通院が全く疎かになっていた。起き抜けのタバコがキツかったのか一瞬視界が真っ白になり、今度はめまいがした。思わずソファに腰を落としたが、ずんずんと血の気が引いていき、焦点が定まらない。救急車を呼ぼうとするとまた脳内からワルキューレの騎行が響き渡る。胸部を締め付けるような痛みで声も出ない。環は歯を食いしばり、噴き出る汗を拭いながら必死で耐えた。遮光カーテンを開けると網膜を刺すような眩い光が飛び込んできた。一人で部屋に佇んでいると、ざわざわと胸騒ぎがして、じっとしていられないほどに心細くなる。いっそのこと地球の裏側のブラジルにでも行って、陽気にサンバでも踊ればこの症状も緩和されたりするのだろうか。環は一人でいると落ち着かないので、再度、図書館に電話し、症状がましになったので遅刻して出勤していく旨を伝えた。鈴木に本を貸す約束をしていたし、出歩くことで逆にパニック障害の襲来にも耐えられそうな気がしたからだ。図書館に着いて朦朧としながら館内に入ると、白髪混じりの館長が心配そうに出迎えてくれた。鉛のように重い身体を椅子に支えさせつつ業務をこなしてゆくも、頭痛と息苦しさでじっとしていられなくなり、時間も分からなくなってきた。一分経ったのかそれとも一時間なのか全然分からない。これが永遠に続くのかと思わず叫び出してしまいそうになる。ポンと肩を叩かれて環は驚きのあまり声をあげてしまいそうになった。後ろにいたのは館長で、顔色がすぐれないので帰りなさいと諭された。環は肩を落として、地下の駐車場へと向かうと、喫煙室から大きな背中が見えた。喫煙室の引き戸を開けて中を覗くと、そこにはくたびれたスーツにネクタイを緩めた鈴木がダルそうにタバコをふかしていた。『あ、猫下さん、こんばんは』鈴木はぱあっと明るい表情で環に声をかけてきた。鈴木は相好をくずし、身を乗り出してきた。『この本、全部読みました。もう感動でしたよ〜いや〜新田次郎さんは凄いな〜』鈴木は以前、環が貸した新田次郎の『強力伝・孤島』を環の目の前に差し出してきた。環は久しぶりに見た鈴木の姿に安堵したのか、不思議と胸の痛みや息苦しさなどが和らいできた。『で?本の感想は?』環は本を受け取ると取り付く島もない勢いで、ずいと身を乗り出しで鈴木に尋ねた。『いや、もう、凄いの何の。今も昔も何かに取り憑かれた人たちは魅力的だなと思いましたよ』鼻息荒く語る鈴木を前に、環はくわえたタバコに火をつけた。『うすっ!』環の声に鈴木は思わず腰が引けた。『ペラッペラに薄い感想、すずピッピ、まさかそれそのまんまTwitterに書いてないでしょうね』環は睨めつけるように鈴木の瞳を見た。刺すような強い紫色の瞳に睨まれ、鈴木の腰はさらに引けていた。『いやいや、まだSNSには投稿してないんだけど、う、薄い?』鈴木に問われて環は全力で頷いた。『うん、宿題として原稿用紙10枚にまとめて私に提出!分かった?』環が冗談で言ったにもかかわらず、鈴木は首が折れる勢いで何度も頷いた。『新田次郎さんは元々、小説もろくに読んだことない気象庁の職員だったんだけど、懸賞金目当てに小説に応募したのが始まりだったんだよね。ちなみにすずピッピに貸した「強力伝・孤島」は彼のデビュー作ね』鈴木はあの硬質な完成された文体がデビュー作品と知り驚きを隠せなかった。『恐らくだけど、小説家としてヒットした奥さんの藤原ていさんが影響したんじゃないかしら。』鈴木はタバコをくわえたまま火もつけずに、真剣な眼差しで環に話の続きを促していた。『山岳小説家って言われてるんだけど、歴史小説の「武田三代」や「新田義貞」とエスキモーを題材にした「アラスカ物語」はかなりの名作でオススメよ』著者の作品を読むと実際に山の寒さやアラスカの冷たい風が肌で感じられると環は語った。『雪と人の描写が数倍の迫力を持って迫ってくる「八甲田山死の彷徨」は私が毎年必ず一回は読み直すほどの超名作』熱く語る環の頬はやや紅潮していた。『でも、新田次郎さん最大のヒット作で傑作はダントツで「孤高の人」ね。漫画にもなっているし、今でも売れ続けている怪作』環は紫煙を吐きながら少し間を開けて話を続けた『臆病で利己的な加藤文太郎を見ていると、どうしても今の自分と重なるところがあるねよね~』猫下さんは虚空を見つめ物思いにふけるように語った後に、盛大に紫煙を気持ちよさそうに吐いた。『今風に言うと主人公の加藤文太郎ってコミュ障だって叩かれてたのかも知れないけどさ、そもそもこの国は忘年会やら飲み会やらコンペやコンパで人を無理くり繋げようとする意識が強すぎ!』環は興奮してまくし立てたせいか頬の紅潮はさらに増していた。実際に私も飲みニケーションとかめっちゃ苦手だし…とそばにいる鈴木に聞こえるか聞こえないかくらいのボリュームで呟いた。『それでもこの小説は加藤文太郎の人間らしさや不器用さがこれでもかって言うくらい溢れていて興味深いし、何で人間関係が苦手だからって、こんな険しい山を単独で登ろうとするのか考えさせられるところもある…そんな加藤文太郎も終盤にかけて、妻への愛情が深まるにつれ、他者への関心が高まっていく過程の描写が本当に美して素晴らしい。孤独と群れに揺れる自己矛盾の最高傑作なんじゃないかしら』時間を忘れるほどに語り尽くした後、ふと気がつくと環の持病であるパニック障害はまるでどこかのブラックホールに吸い込まれたようにすっかり収まっていた。『新田次郎さんの著書に「小説に書けなかった自伝」という本があるんだけど、これほど作家の内情を書かれた本は他にないくらいに赤裸々に書かれていて、安月給の生活苦。妻の本に触発された訳ではないが、初めて小説に挑戦するも、何をどう書けばいいのかまるでわからない…なくされた原稿、冷たい編集者との軋轢、山岳小説というレッテル、職場での皮肉。フルタイムで働きながら、書くことの艱難辛苦……作家を目指したい人にはまずこの本をオススメしたいわね。巻末に息子さんの解説があるんだけど、数学者なのに凄く卓越した文章力で、遺伝だなあって、沁み沁み思うよ』喋り疲れたのか環は大きく息をした。『父親の未完の大作を息子さんが引き継いで、32年越しに完成させた「孤愁 サウダーデ」(新田次郎 著/藤原正彦 著)も未完のままで終わらせるべきだったという声もあったけど、素晴らしい作品だと思う』言い終わると環はタバコを灰皿に押し付けてもみ消した。『ねえ、スピはさあ、オーロラの美しい景色を文章にして伝えるとしたら、どう書く?』環の思いもかけない唐突な課題に、鈴木は慌てふためき、飲んでいた缶コーヒーを落としそうになった。『な、え、え?ええ? オーロラですか? ええと?虹色のカーテン? 波打ち際を漂う発光したホタルイカ?とか?』言い終えたとたんに環の眉間にシワが寄る。『はい!文才ゼーロー!なにそれホタルイカって』環は肩をすくめて苦笑し、呆れたような表情を浮かべた。『え?ホタルイカ綺麗でないですか?』環は冷たく笑うとタバコに火を付け、天井に向けて煙を吐いた。天井の白い壁はタバコのヤニで黄ばみ始めている。『新田次郎さんの北極光オーロラは、空で光彩の爆発が起っていた。赤と緑がからまり合って渦を巻き、その中心から緑の矢があらゆる空間に向かって放射されていた。どう?この表現力』『カッコ良!カッコ良すぎる!』鈴木は大声を張り上げた。あまりにも意外な言葉に自分が驚いて、空の缶コーヒーを口にしたまま泣き笑いの表情になった。

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