立場
増田朋美
立場
寒い日であった。まあ、これで当たり前ということなのかもしれないが、それでもなんだか寒いなあと思ってしまうのは、なぜだろう。
その日、杉ちゃんとジョチさんが管理している、製鉄所と呼ばれている福祉施設に新しい利用者がやってきた。名前を増村彩子というその利用者は、確かに可愛らしい人ではあるが、なんだか世の中から弾き飛ばされてしまったような、そんな印象がある女性であった。始まったのは、学校の成績が悪いということだったらしいが、それゆえに、居場所がなくなってしまったらしい。学校の成績が悪いせいで部活動などに参加できなかったことから、もう自分はこの世に必要ないと思ってしまったようなのだ。
そんなわけで、彼女を製鉄所で預かるというのは非常に難しいものでもあった。彩子さんは、まず初めに、あまり人と関わるのが得意ではないというか、人はどうせ自分のことを成績が悪くてだめな人間としか見ていないと思い込んでいるらしかった。本当はそうではないと、他の利用者たちも彼女に伝えたつもりであったが、彼女はそう信じ込んでいるようであった。誰でも、格の高い人と低い人がいて、その条件を飲んでいなければ愛されない。そんな思い込みを信じていて、そこから脱出することができないようであった。
ある日、製鉄所に客が二人やってきた。そのとき杉ちゃんたちは、水穂さんにご飯を食べさせようと躍起になっていたところだったが、
「こんにちはあ。みんな元気?ちょっとご相談があって今日はこさせてもらったんだけど、いまいいかしら?」
そう、明るい声で言うのは前田恵子さんだった。以前、製鉄所の食事係としてはたらいていた女性であったが、結婚のため退職したのだった。
「こんにちは。突然来てしまってすみません。ちょっと畑のことで相談させていただきたいことがありましてね。本来ならお断りの電話を入れようかと思いましたが、恵子さんがしなくていいというので、新幹線にのって、こさせてもらいました。」
そういいながら、前田秀明さんが入ってきた。恵子さんの二番目の夫になった人物だ。二人の間に子供はないが、おしどり夫婦として、仲良く暮らしている。確か、りんご畑を二人でやっているということだった。
「相談させてって、なんの相談だよ?」
と、杉ちゃんがいうと、
「実はですね。家の親戚が水田をやっているのですが、それでトラクターを動かしてくれる人員を探しています。大規模なトラクターではありませんので、普通免許さえあれば大丈夫です。男性でも女性でも構いません。だれか一人、トラクターを動かしてくれる方はいらっしゃいませんか。」
と、秀明は、単刀直入にいった。
「つまり、暇人募集というわけか。」
杉ちゃんがいうと、
「本来なら、僕がやれば良いんですけどね。腕がないので、トラクターは動かせません。」
秀明は、左腕がなかった。それは確かなのであるが、それでは車を運転できないのも、確かなのた。
「わかりました。その水田はどこにあるんですか?郡山ではちょっと遠すぎますし。」
と、ジョチさんが言うと、
「はい。御殿場なんですよ。だから、すぐ行けるんじゃないかなと思いまして。どうでしょう?普通免許を持っている方で、手伝えそうな方はいらっしゃいませんか?」
と、秀明は言った。
「御殿場では近いですね。それならだれか一人そちらへよこしましょう。もちろん、普通免許しか持っていない女性ですが、それでもよろしければ。」
ジョチさんがそういうと、
「ええ、もちろんかまいません。トラクターの操作だけしてくれれば良いのですし、そんなに操作が難しいトラクターではありませんので。」
と、秀明が言った。
「最近のトラクターは操作しやすくなっていますから、そんなに難しいことではないでしょう。増村彩子さんという女性をそちらへよこしますから、よろしくお願い致します。」
ジョチさんがそういうと、秀明も恵子さんもとても嬉しそうな顔をした。秀明は、先方には、伝えておきますから、と言って、早速メールをうち始めた。そういうわけで話は決まった。増村彩子さんは、御殿場にある、鈴木という家の田んぼを、トラクターで耕すことを手伝うことになった。
彩子さんは、御殿場線に乗って御殿場駅にいった。車の免許は持っているから、車で行こうかなと思ったのであるが、他所の家に車をとめるのもどうかなと思って電車でいくことにした。
御殿場駅に行くと、鈴木家の田んぼをずっと管理している、まあ言ってみれば鈴木家のおんな城主というべきなのだろうか、鈴木重子さんという女性が待っていた。
「こんにちは。今日手伝ってくれる、増村彩子さんですね。」
重子さんはにこやかに笑っていった。でもその顔は、やはりきちんとしすぎているほどきちんとしている人だと思われる感じで、ただの農家とはちょっと違う気がした。
「今日は、来てくれてどうもありがとう。本来なら、私がトラクターをするべきだったんでしょうけど、ご覧の通り、足をけがしてしまってできなかったのよ。それで、前田秀明くんに相談したら、それなら、誰か代理人を呼んだらどうかと提案してくださって。」
「そうなんですか。ありがとうございます。」
と、彩子さんは申し訳無さそうな顔をした。
「ええ、今日は手伝ってくれるということで、期待していますから、しっかりやってくださいね。」
重子さんに言われて、彩子さんは、はい、わかりましたとだけ言った。二人は、駅近くの駐車場に行き、とりあえず重子さんの運転する車に乗った。車は、軽トラックであった。多分、トラクターを乗せて運んだりするためのものだと思う。それにしても、こんな女性が運転するとは、随分釣り合わない感じだった。
「えーと田んぼはここよ。これを今日のうちにトラクターで耕してもらいたいの。トラクターは昨日近所の人に頼んで、中に入れてもらったわ。その人は、今日でかけてしまう用事があって、出られなかったんだけどね。」
と、重子さんはそう言った。そして、彩子さんに、車から降りるように言った。確かに田んぼの隅に小さなトラクターがおいてあった。
「操作はとても簡単だから、すぐに慣れると思うわ。普通免許があれば操作できるから。それでは、お願いしますね。」
重子さんは、足を引きずりながら、トラックに乗り込んで行ってしまった。その後には、小さなトラクターと、小さな田んぼだけが残った。操作はとても簡単だというので、彩子さんはそれに乗って、トラクターをとりあえず動かしてみた。確かに昔のトラクターと違い、簡単に動かすことができるようになっていた。動かすのもさほど難しくなかった。それなら女城主の様な鈴木重子さんが乗って操作してもおかしくなかった。とりあえず動かすのは簡単にできたし、田んぼを耕すのなんて、トラクターがやってくれることだから、彩子さんはそれを操作すればいいだけの話し。耕す作業は比較的短時間で終わった。
「どうかしら?順調にやっているんでしょうか?」
と、重子さんが、一人の男性を連れて戻ってきた。その人は、足が不自由なのだろうか?彼は、車椅子に乗っていた。なんとなく顔つきが似ているようなところがあるので、重子さんの息子さんだとすぐわかった。なるほど、こういう事情であれば、自分が呼び出されたのも不思議はないなと、彩子さんは思った。彩子さんがとりあえずトラクターを止めると、
「まあ、もう少し、きれいに耕してもらわないと。これはきっとかんたんモードでやったのね。田んぼはよく水が入るように、繊細モードでやるものよ!」
重子さんがいった。彩子さんがもう一度操作盤を見てみると、たしかにモード切替のボタンがあって、それはかんたんモードを示していた。
「そんな事、知りませんでした。そういうことなら、教えてくださればいいではないですか。」
彩子さんがそう言うと、
「あなたは、田んぼを耕した経験は無いの?」
と重子さんが言う。彩子さんは正直に、はいありませんと答えようとしたが、こういう人はなかなか頑固で人の言うことを聞かないところがあると言うのは、なんとなくわかっていたから、それでは黙っているしかなかった。
「お母さん無理ですよ。この人は富士市から来たんだし、トラクターだって同じ機種ではなかったかもしれないじゃないですか。そういう事をもっと考慮して彼女にやってもらわなくちゃ。他人にやってもらうというのは、近所の人に手伝ってもらうわけでは無いんだし。知っていて当たり前というわけでは無いんですよ。」
と車椅子の男性が言った。
「でも、龍之介は実際に経験したことは無いでしょう?彼女は、普通に車を運転したことがあると言ってたわよ。だから、トラクターの操作だってできるはずよ。」
重子さんが言うと、
「そうですけど、お母さん。トラクターだっていろんなメーカーが有るではありませんか。クボタとか、井関とか色々あるでしょう。昔のトラクターと同じ様に、全部のトラクターが同じ操作でできるわけじゃないんですよ。そのあたりを考慮して、教えてやることはしなかったんですか?」
龍之介と呼ばれた男性は、そう彩子さんに言った。
「そうね。まあ、私も、誰かを呼び出してやってもらったのは初めての経験だし。それでは、こういうこともあると思って、今日は許してあげます。」
重子さんは、ちょっとため息をついて言った。彩子も、またやり直しと言われるのかと思っていたが、それは逃れたようでホッとした。
「まあ、出来栄えはいいとして、今日は耕してくれてどうもありがとう。農業は、人間の意志に関わらず季節が来たらしなければならないことがあるから、大変よ。だから、こうして代理の人を頼まなければならないこともあるのかもしれないわね。じゃあ、今日はありがとうございました。てつだってくださって。」
ということはもう帰ってもいいのかなと彩子さんは思ったのであるが、
「僕が彩子さんを送って行きます。僕は車に乗れないのでタクシーを使わなければ移動できませんが、お母さんは先にお戻りください。」
と、龍之介さんがにこやかに笑って言った。
「そうなのね。じゃあ、それでは行きましょう。」
重子さんはトラックに乗って別の方向に走っていった。龍之介さんがスマートフォンでタクシーを呼び出した。ワンボックス型の介護タクシーで、龍之介さんが先に乗り、彩子さんはその隣の席に座った。
「今日は、母が失礼な事をして申し訳ありません。母は、たしかに農業一筋でやっていましたが、非常に頑固なところがありまして、農業をしているものは皆同じと考えているようなんです。まあ、たしかに愛用する機械とか、人気のあるメーカーはありますけど、最近の機械は、仕様が違いますからね。違って当然ですよ。」
龍之介さんが明るく彩子さんに言った。
「いえ。私もお母様に質問しないでやってしまって申し訳ないことをしました。」
彩子さんは申し訳無さそうにそう言うと、
「そんな事ありません。母にはもう少し、頭を柔らかくしてくれるように言っておきます。また、耕しに来てくれるんでしょう?田んぼを耕すのは一度ではできませんからね。それから田植えとか、くさとりとか、稲刈りとかやる作業は色々ありますし。」
龍之介さんは、にこやかに笑っていった。彩子さんはそんな事私はと言おうとしたが、龍之介さんがにこやかにしているので、何故か彼が可哀想になった。多分、農業の後継者になるつもりだったのがそれができないで悲しい気持ちを持っているのかもしれない。
「ええ、また来ます。あたし、ろくな人間じゃないけれど、それでは、来られるようにします。」
とりあえずそれだけ言っておく。
「どうしてろくな人間ではないんですかね?体だってまるきり健康じゃないですか。僕みたいに、足が悪くて何もできないわけじゃないでしょ。それなら、何でもできるじゃないですか。それなら、体さえ健康であれば何でもできますよ。」
龍之介さんはにこやかに言った。
「だって私は、成績も悪かったし、学校で失敗したら、もう二度と人生だめだって、それはいろんな人が言うじゃないですか。高校なんて、なんか社会的身分みたいだし。だって、藤高校に行っていたら、すごいねって誰でもいうのに、吉永高校に行った人は、冷たい目で睨みつけられるじゃないですか。」
彩子さんがそう言うと、
「僕は、レベルの高い学校へ行きましたが、それでも母にいままでもこれからも面倒を見てもらわなければ行けないので、ずっと睨まれっぱなしですよ。」
と、龍之介さんは言った。
「そうなんですか?」
彩子さんが聞くと、
「はい。僕は沼津東高校だったんですが、その後で、この体になりましたので、そのようなことは過去のものです。もういつまで親のそばに居るんだって、いろんな人から言われています。まあ、お母さんは、自分だけが、僕のことを見てあげられるんだってよく主張してましたけど、僕もなにかサービスを利用してもいいと思いますけどね。そんな人間から見たら、あなたは幸せじゃないですか。ちゃんと自分の足で立てるんです。それだって幸せなことですよ。」
龍之介さんはにこやかに言った。
「そうか、、、私は、確かにそういうところは恵まれているのかな。」
彩子さんがそう考えると、
「お客さん着きましたよ!」
とタクシーの運転手の声がした。彩子さんがそれでは帰りますねというと、龍之介さんが、車椅子のポケットから、それでは、持っていってくださいと、彼女に縮緬の布で包んだお菓子を渡した。彩子さんはありがとうございましたと言ってそれを受け取り、30分に一本しか無い電車に飛び乗った。
電車は空いていたので、彩子さんは座席に座った。ちょっと疲れたのでお菓子をもらおうかなと思って、包を開くと、包装紙のうらに鈴木龍之介という名前と、メールアドレスが書いてあった。つまり、友達になりたいなという気持ちだったのだろう。歩けなくてなかなか外へも出られないから、友だちになる切っ掛けもなかったのだろう。そこで彩子さんはそのアドレスをスマートフォンで打ち込んで、今日はありがとうございましたと打ち込むと、すぐに返信があった。それで電車から出るまで彩子さんは、龍之介さんと話をしたのであるが、龍之介さんは、とても明るくて、いつも楽しそうに生活しているんだなと思われた。
それから彩子さんは、しばらく製鉄所に通ったのであるが、床掃除とか、そういう事をしているまにまに、龍之介さんのメールが届いてきた。今日何があったとか、ただそういう事をやり取りするだけであったが、それでも随分楽しいものだった。ときには、過去のことですごい大変なことがあったことも話した。彩子さんが学校の先生から言われてきた、学校には順位があって進学率をあげることだけが全てだという主張は、龍之介さんの主張で、全て取り消された。彩子さんは、そういう話をしてくれる龍之介さんの事をいつの間にか好きになっていた。そうして何回か龍之介さんとお会いしたいと思った。
彩子さんがメールで龍之介さんと一緒に楽しそうに話しているのを、彩子さんの両親は嫌そうな顔をしていた。ある日、彩子さんは、母親に呼び出された。
「それでは、彩子。ちょっと聞きたいことがあるんだけど。」
お母さんが彩子さんに言った。
「あんた、足の悪い人と付き合っているようだけど。」
お母さんはそういう。
「結婚するのはやめなさいね。だって彩子はこれまでも、大変な目にあってきたんだし、それ以上つらい思いをしたら、あんたが壊れるわよ。」
「そんな事無いわ。あの人はあたしの事を、初めて成績のこと以外のことで見てくれた。だから、あの人はとても大事な人なのよ。」
彩子さんはお母さんにそういったのであるが、
「でもね彩子。お母さんは、彩子に幸せになって欲しいの。彩子は、大変な人生だったんだし。彩子は、学校の先生にも酷いことされて、今の今まで、幸せにできなかったんだし。それなら、ちゃんとした学校を出て、ちゃんとした生活を送っている人でないと、結婚はできないわよ。幸せになるってね、いつも一緒にいられればいいのかっていう問題じゃないから。」
お母さんはそう言っている。
「そうかも知れないけど。それ以外の人は、私のことを、だめな人間としか言わないわ。」
彩子さんがそう言うと、
「せめてお母さんやお父さんを安心させて頂戴。彩子は、ちゃんとした人と一緒になって幸せになることが大事なのよ。足の悪い人は、誰かに頼らなければならない。だから彩子を幸せにすることはできないわよ。」
お母さんはそういうのだった。彩子はお母さんに反抗しようと思ったのであるが、それ以上のことは言えなかった。
一方、龍之介さんのほうは、彩子さんとやり取りしていることを、お母さんの重子さんに話していた。重子さんの方は、彩子さんと楽しくメールができて嬉しいなと言っていたのだった。重子さんは、龍之介にそういう女性の友だちができて、なんだか力が抜けたような感じになったと言った。重子さんは、怪我が治ったら、農作業に戻るつもりであったが、そのときには彩子さんも一緒に手伝わせようと、考えていた。
その日も、彩子さんのパソコンに、メールが届いた。多分、龍之介さんからに間違いなかった。でも彩子さんは、それに返事を送ることがためらわれた。なんだかお母さんが龍之介さんと話しているのを止めてしまうような気がしてしまうのだ。彩子さんは、辛かった。だけど、自分が今まで平穏な生活をしてくることができなかったのもまた事実だった。なんだか龍之介さんと出会ってしまって、彩子さんはなんだか悪いことをしたなと思ってしまったのだった。
なんだか、寒い日だった。もう雨が降ってきた。本当に雨が降って、すべての人の悩みを表して居るようなそんな雨であった。それは、そのうち雪になって、更に寒くなるのだと思われる季節だ。日が短くなり夜が長い。そんな季節でもあった。
立場 増田朋美 @masubuchi4996
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