守宮 靄

『亜?』

「亜、でしょうな」

「ア?」


 老いた医者が勿体ぶった口調で知らない単語を発するものだから、Aの喉からは感動詞なのかオウム返しなのかわからない音が飛び出した。医者はAの発した音を純粋な疑問からくるものと断定したようで、『亜』なる病の詳細について話し始めた。正式名称はアエなんたらかんたらウム、『亜』という名は音写に字を当てたもの、まだ根本的な治療法は見つかっていない……。Aは医者のよく動く胡麻塩髭をぼんやり見つめるだけで、その話を右から左へ聞き流していた。


 眠れない。眠くならないのではない。ただ、眠るのが怖い。眠ってしまえば悪夢を見る。誰かに追われている夢。得体の知れぬ視線が背中に突き刺さり続けているのに、自分はその視線の主を見ることができない。追われるというのは、ただそれだけなのにとても恐ろしい。だから闇雲に走る。足元が悪く何度も転びそうになるが決して振り向かない。追手がじわりじわりと近づいてきているのを感じる。荒い息遣いと湿った土を踏みしだく音。背後から迫りくるそれと全身に響く鼓動が重なり、調和し、共鳴し、耳を塞いで蹲りたいほどに大きくなったとき──、やっと目覚めることができる。汗でぐっしょりと濡れた肌着が不愉快だった。怖い夢から目覚めれば安堵を得られるはずなのに、足先から腿にまで絡みつくような恐怖の余韻が抜けない。それでも、その日限りの夢であったならばこうはなっていないのだ。


 翌日も同じ夢を見た。正確には同じではない。何者かと自分の距離が縮まっている。逃げる。なんで自分が追われなければならないのか、そんなことを考える余裕はない。弾かれたように起きる。寝ていたはずなのに疲れていた。恐怖は鳩尾の辺りまで上り、下肢を痺れさせていた。


 Aは眠らないことで夢の恐怖から逃れようとした。それで万事解決するはずもなく、睡眠不足から心身に不調をきたし、起きている間も背後にぴったりと誰かが張りついているような妄想に囚われ、心底弱りきったために医者に縋らざるを得なくなった。


「──漢方を出しておきましょう。不眠の改善によく使われるものです」


 医者のその言葉で、夢の回想に浸っていたAは我に返った。そのまま揺蕩たゆたい流されるように診療所を出て、薬局で薬を貰い、気づけば家に帰りついていた。手の中には薬袋と処方箋と、医者が説明しながら書き渡してくれた『亜』の一文字だけが書かれた紙。


 『亜』。そんな名前の病気など、これまでの人生で一度も聞いたことがない。医者の話をちゃんと聞いていたなら分かったのかもしれないが、耳をチクワにして自分の世界に入りこんでいたので何ひとつ覚えていない。症状に名前がつけば安心する、なんて話を聞くこともあるが、その名前が不可解である場合は例外だ。手の中にある文字が急に不気味に思えてきたAはその紙を放り投げた。紙は紙らしくひらひらと舞い落ちる。その身のこなしの軽さが余計に不安を煽り立てたから、Aは家を飛び出した。


 飛び出したはいいが行くあてもないので、近所にある図書館を訪れた。しばらくはただただ本棚の間を徘徊しているだけだったが、ふと思いついて医学書を手に取った。ここなら『亜』についての情報が得られるかもしれない。Aは手近な本を数冊引っ掴み、その重さに喘ぎながら閲覧席へと向かった。

 結果は惨敗であった。『亜』についての記述などひとつもない。あの医者がとんでもないヤブだったのだろうか。いいや、医者がヤブである可能性よりAの探し方が可能性の方が高い。しかし何度本を往復しても、ないものはない。Aはいつもの癖で『自分はとんでもない無能である』という屈折した結論を出し、年甲斐もなく泣きたいような気分になった。藁にも縋るような思いで最後に手に取ったのは漢和辞典だった。


 亜(ア) 

 《字義》①みにく-い。②つ-ぐ。つぎ。

     ③あいむこ。④亜細亜(アジア)の略。


 『病』の名であるとは一言も書いていない。縋った藁にも見放されたAは、肩を落として図書館を出た。



 疲れていた。眠っていないからでもあるし、今日いちにち『亜』に振り回されたからでもある。机の上に投げ出したままの薬が目に入った。これを飲めばどろりと眠くなり、また夢の続きを見るのだろうか。追われ続けるあの夢の終わり、追いつかれてしまったその後、自分はどうなってしまうのだろう。嫌な想像は際限なく広がる。しかし、Aの体力ももう限界であった。薬に頼れば、夢を見ることもない深い深い眠りに落ちることができるかもしれない。淡い期待を寄せながら漢方薬を飲む。薬草臭い独特の匂い、苦味と甘味を混ぜたような奇妙な味がした。


 ベッドに横たわる。あの薬はそうそう早く効くものではないらしい。横になってはいるが眠りにつけないときの習慣で、思考はぐるぐると回り始める。今日も何もかも上手くいかなかった。医者の話はちゃんと聞けなかったし、『亜』がどういうものなのか調べることもできなかった。いい歳して。なんでこれほど何もできないのだろう。いつだってこうだ。自分は小さいころから変わっていない。

 変われない。

 変われない。周囲は慌ただしく回り続けている。地元の同級生の就職進学結婚出産逮捕服役転職離婚二度目の出産。情報の濁流を乗りこなし変化の最先端を走る人々。俺だけが、それについていけない。俺だけがちゃんとできない。落ちこぼれていく。変われないから。変われ変われ変われ変われ変われ変われ変われ変われ変わり続けろという要求に、応えることができない。一周十秒の六畳間。不安と鬱屈と劣等感に押し固められたその部屋で、俺は変わらない安穏を貪っている。変われない。どれだけ追い立てられても。それがどれだけ恐ろしくても。

 追い立てられる、の一言から、Aの思考はあの夢のことへと飛ぶ。

 追いかけてきているのは誰なのだろう。何の目的があって俺を追いかけるのだろう。俺に追いかけるだけの価値はないのに。ああ、罰するためかもしれない。ちゃんとできないから。変われないから。だって今日も何もかも上手くいかなかった──。


 同じ軌道上を等速で辿るだけで決して外へは飛び出していかない思考が、ほどけ始めた。通常の睡魔か薬の効果か、判別できない。密室に拡散していく意識。まだ現実のふちに捕まっていたその端っこが、訴えかけた。

 本当に、眠らなければ奴に追われずに済むのか?

 起きている間も追いかけられていたんじゃないか?

 だとしたらもう捕まって──。


 意識はそこで途切れた。

 


 狭い空間に押し込められている。腹のあたりが少しずつ重くなっていく。何事だ、と瞼を上げるやいなや目に細かい粒子が飛び込んできたので、すぐに目を瞑った。尖った粒子が結膜を刺す。ザクザクと何かを突き刺すような音が耳のすぐそばで聞こえる。再び顔に何かが飛んできた。半開きになっていた口にそれが入った瞬間、幼い頃に山で転んだときのことを思い出した。あのときは顔から地面に突っ込み、食いたくもない山の土を食う羽目になったのだ。そうか、これは土だ。カビと腐敗と自然分解の匂い。四方から漂ってくる、噎せ返るほど濃厚な同じ香りにやっと気がついた。自分は今、地面に開けられた穴に寝かされ土を被せられている。これじゃあまるで、


 亜

  象形文字。

  古代の墓を上からみた形を象る。


墓穴に埋められているみたいじゃないか。瞼と眼球の間に挟まった土がごろごろと痛み涙が止まらないが、必死で目を開ける。すぐそばに誰かの顔があった。それはAの顔をじっと覗きこんでいる。自分を追いかけてきていた奴だ、と直感で悟った。視界は暗く、僅かな光さえその顔が遮ってしまっているから、表情は窺い知れない。はっきり見えないはずのその顔を、互いの吐息が混じり合うほどの距離にあるこの顔を、Aは知っている。そうなんじゃないか、きっとそうなのだろうと思っていた。

 それは、A自身の顔をしていた。



 爽やかな朝だった。疲労感と虚脱感を伴わない覚醒はいつぶりだろう。今日はなんでもできる気がする。まるで生まれ変わったように。

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守宮 靄 @yamomomoyan

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