第35話「瓶詰伯爵は常闇の魔女さんに服従したい」(1)
◆◆◆◆
空を支配していた太陽が地平線の向こうへ去り、やがて夜の帳が下りる。
賑やかだった昼の街はひっそりと静まり返り、やがて夜の賑わいへと変わっていく。酒を飲みに繰り出す男達、密やかな恋を育むために待ち合わせた恋人達。人気の少なくなった夜の通りを行けば、靴音が響くのに合わせて空気はピリリと張り詰めていく。
「うわっ、常闇の魔女だ! しかも今日は妙な男引き連れてやがる……」
「よせっ! あれも死霊か魔術の類だろ。目合わせたら魂食われちまうぞ」
いつものように、私に遭遇した街の人達がそそくさと逃げていく。これが私の日常。常闇の魔女という存在を恐れて逃げていく男達の背中を見ていると、故郷へ帰ってきたような安堵感を得られた。
「ははっ、本当に逃げてく。街の人って、キーラが魂食べるって信じちゃってるのか」
蜘蛛の子を散らすように、行く先々で人が遠ざかっていくのが面白いらしく、メルリはその光景に興味津々。一方のオリビンは寂し気な溜息をつき、スフェンは呆れて首を横に振った。
「キーラ様からお話だけは聞いていましたが、まさかここまでとは……」
「お嬢が気にしていないようだったから、ワシもあまり気に留めておらんかったからな。このままではお嬢の印象が悪くなる一方だ」
「オリビンもスフェンも気にしすぎ。私は何とも思ってないんだから」
夜の街へ出かける時はエステルと二人きりと決めていたのだが、その日はオリビン、スフェン、メルリの三人も同行していた。シェリルさんの提案で、今夜、私達は夜の食事会に誘われていた。
事の発端は、シェリルさんの店でうっかりエステルが人間の言葉を話してしまったことだった。
よくしてもらっているシェリルさんに秘密にしておく必要もなく、エステルのことはもちろん、この際だからと死霊の使用人がいることを打ち明けた。当然、怖がられるのを覚悟していたのだが、予想に反してシェリルさんは不可思議な現象や話が大好きで、私の話に興味津々だった。一度会って話してみたいという願いから、みんなで食事会をしようと計画がもちあがって今に至る。
本来死霊は、青白い光に包まれた半透明の姿で実体がないのだが、さすがにそんな三人を引き連れていたらより恐れられるだろうと、邸にいる時と同じように実体化して人と変わらない姿にしていたのだが、私と一緒にいるよいうだけで怖がられるから意味がなかった。
「この様子だと、今日は大丈夫そうだね」
「歩きやすいから、むしろこの方が楽だわ。お願いだから、このまま何も起こりませんように……まっすぐシェリルさんのお店に行かせて!」
「あら、珍しい。魔女さん、今日は一人じゃないんだね。買い物かい?」
祈りながら肉屋の前を通りかかった矢先、店先で閉店の準備をしていた女将さんに声をかけられた。そのまま無視をするわけにもいかず、渋々立ち止まった。振り返ったの先で待ち構えていた笑顔も恰幅もいい女将さんに、私は精一杯の笑顔を返して会釈をした。
「えっと、はい。その予定です……」
「こんな夜中に来たって良いものなんて残っちゃいないだろう? お日様が昇ってる朝からきたらどうだい?」
「いえ、私は夜が好きなので」
力なく笑って誤魔化しながら、早く解放してくれないかと心の中で溜息をついた。
クムンドから帰国してからというもの、街を歩いているとこうして話しかけられることが増えた。以前なら恐れて誰も話しかけることはなかったのに、簡単な挨拶をしてくれる人や、こうして世間話をする人が少しずつ現れ始めた。
近づけないよう驚かせることはあっても、長年築き上げた常闇の魔女像が変わるようなことを私自ら崩すことは一切していない。街の人に変化が起きた理由には見当がついていた。
「今度、明るい時にうちの店においでよ。いいお肉、取っておくからさ」
「え、えぇ。考えておきますね」
「あっ、そうだ! ちょっと待ってて」
その場に留まるよう念を押して、女将さんが店に飛び込んでいった。しばらくして出てくると、その逞しい腕には大きな麻袋が抱えられている。「はいよ!」と掛け声と共に、それを半ば強引にスフェンに押し付けた。油断していたこともあるが、思っていたより重かったらしく、袋を抱えているスフェンの足元が一瞬ふらついた。
何が入っているのか覗き込むと、中には不揃いに切り落とされた塩漬けの豚肉がたっぷり詰まっていた。
「切り分けた時に出る切れ端なんだけどね。もったいないから、普段は家族で食べてるんだけど、今日はたくさん出ちゃって食べきれそうになくてさ。よかったら持って行っておくれ。スープに入れて煮込んだら美味しいよ」
「えっ、そんな。こんなにたくさん! 今、お金を」
「あぁ、いらないよ。お裾分けだから気にしないでよね、はははっ」
豪快に笑って、今度はオリビンの背中をバシバシ叩いた。死霊とはいえ、実体化したオリビンの体は七〇になるご老体だ。さすがのオリビンも、女将さんの力強い歓迎に顔を顰めていた。
魂を食らう常闇の魔女と恐れられ、関わらないよう逃げていく街の人を見て悲しいとか寂しいと思ったことはない。私に関わって何か不吉なことが起こらなければそれでいいと思っていたから。ただ、こうしてシェリルさんのように良くしてもらえるのは素直に嬉しい。
ポトフでも作ろうか、それともとれたてのトマトと煮込んでもいい。シェリルさんとの食事会にお土産に持って行ってもいい。
あれこれ想像して思わず笑顔がこぼれた、ほんの一瞬のことだ。女将さんにフードを取られて顔を正面から覗かれてしまった。とっさのことに驚いて目を丸くする私と、素顔を見て嬉しそうに目を細める女将さんの目がかち合った。
「あら! 話に聞いてた通り、本当に綺麗な顔してるねぇ。こんなのかぶっていないで、顔見せて歩けばいいのに」
「その話、もしかして……」
「領主様に決まってるじゃないか」
予想通り、肉屋の女将さんはその名前をしっかりと口にした。
女将さんが得意先の邸に商品を届けに行った時、そこにノアの姿があったそうだ。何でもそこのご令嬢との縁談が持ち上がって、自ら断りに来ていたらしい。その際、私との関係や街での振る舞いの真意、幼い頃に助けられたことを嬉しそうに説明していたというではないか。居合わせた肉屋の女将さんもつかまって話を聞かされたそうだ。
一部の人々が私に対して好意的に変わったのは、紛れもなくノアの仕業。オリビン曰く、呪いを解くために突き付けられた〝心の底から愛し合う二人になること〟というあの条件で、ノアが純粋に舞い上がっているのではないかというのだ。今まで誰にも話せずにいた幼い頃の出来事まで言いふらしているくらいだから、単純に嬉しかったのだろうとスフェンも推測していた。どちらにしても、勝手に言いふらされるのは厄介だ。
「やっぱりノアですか……」
「最初聞いた時は耳を疑ったけど、こうして話してみたら普通のお嬢さんだしね。おまけにべっびんさんだもの」
再びバシッと背中を叩かれ、その勢いで腕の中に抱えていたエステルを落としそうになった。エステルもあまりの衝撃で飛び出しそうになった、慌てて服にしがみついた。
「領主様、相当魔女さんのことが好きなんだね」
「どうしてそう思うのですか?」
何の迷いもなく言った女将さんに、スフェンは不思議そうに訊ねた。
「だってねぇ。どんなに金持ちのお嬢さんとの縁談を持ち込まれても、一切受けなかった領主様がよ? あんなに嬉しそうに誰かの話をするところ、私は初めて見たよ」
全員の視線が私に向けられたのがわかった。恥ずかしいやら腹立たしいやらで、感情をどう表現していいのかわからずエステルをぎゅっと抱き寄せた。
誉め言葉や良い噂は、本人から直接言われるよりも、本人とは無関係の者から伝わる方がより信憑性が増す。私の目を通して見たノアの姿より、肉屋の女将さんの目から見たノアの方がより私に対する想いが見えるのかもしれない。
「魔女さん、これからも仲良くするんだよ」
「……ど、努力します」
「楽しみにしてるよ。それじゃ、夜道気を付けてね」
女将さんは上機嫌で手をふって店に入っていった。
乾いた音を立ててドアが閉まり、薄っすらと明かりが漏れる店先の光景を横目にその場を離れた。腕の中でエステルが袖を引っ張っていることに気づいて視線を落とすと、大きな金色の瞳を輝かせながら私を見上げた。
「ノアがキーラのこと話し回ってるおかげで、街の人たち優しくなったよね」
「そうね。ただ、驚かせても冗談だと思われて相手にされないし、子供達が森に入りたいって追いかけてくるようになっちゃったし……本当、余計なことしてくれたわ」
「どうやら、その影響は他にもあるようですね」
スフェンが声を潜め、前を見るようにと目配せをした。
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