第22話「遠い日の記憶」(6)
◆◆◆◆
ノアが再び蝶の姿に戻り、眠りについたのを見届けてグランフェルト邸を出たのは、陽が昇る少し前だった。空は薄紫色に染まり、地平線の向こう側に夜の紺色が微かに残っている。明るい街を歩くのはいつぶりだろう。まだまだ夜明け前で薄暗いはずなのに、眩しくて目が眩みそうになる。
人々が目を覚まして外へ出てくる前にと、急いで街を走り抜け、一度も立ち止まることなく常闇の森を駆けて邸へと戻ってきた。
「ただ、いま」
息が整う間もなく、玄関の扉をそろりと開けた。物音で起こさないようそっと閉めたつもりだったが、猫のエステルの耳は誤魔化せない。どんなに小さな物音でも気づいてしまう。
「キーラ!」
一階調理室のドアが勢いよく開き、エステルが飛び出してきた。
最初こそ少女の姿だったものの、私の目の前までやってきた瞬間に猫の姿に戻り、私の腕の中に飛び込んでゴロゴロと喉を鳴らした。その後を追ってオリビン達がやってきた。
「もうっ! 帰って来ないから心配してたんだよっ」
「キーラ、おかえり。まさか帰りが朝になるなんて思わなかったよ」
メルリは強張った体を解すように背伸びをする。死霊といっても実体化しているだけでも魔力を使う。契約者である私の魔力を糧にしているものの、起きていれば体力も使うし疲労も蓄積する。私の帰りを寝ずに待っていてくれたことは、メルリの様子をみれば容易に想像できた。
「ごめんね。すぐに帰るつもりだったんだけど、色々あって」
「ノア殿とは会えたのか?」
オリビンの問に言葉を詰まらせた。どう説明すればいいのか。いや、あの部屋で起こったことは、未だに自分でも信じられていない。以前の私ならあんな行動は絶対に取らなかったからだ。
「キーラ様、どうかしたのですか?」
「うん……あのね。私の過去を、ノアに話したの」
「「えっ!?」」
驚いた四人の声が見事に重なった。
人を避け、森の奥深くにある邸にこもっていた私が、自らの過去をノアに明かしたという出来事は、過去を知る四人にしてみれば想像していなかったはずだ。
私が打ち明けることになった経緯を全て話して聞かせた。ノアが服従したいと追いかけてきたこと、グランフェルト家にかけられた魔女の呪いのこと。一つひとつ話すたびにノアの腕の感触や温かさ、かけられた言葉、あの部屋での出来事が浮かんで逃げ出したくなった。
「なんと……お嬢とノア殿が幼い頃に出会っていたとはのう」
「何か魂胆があるのではと少し疑っていたのですが、あの執念はそういうことだったのわけですか」
オリビンとスフェンは納得したように頷きあう一方、エステルとメルリは目を輝かせている。さっきまで腕の中にいたはずなのに、この話を聞いたとたんエステルは人間の姿に変わって、メルリと一緒にはしゃいでいた。
「素敵だね! まさに純愛だよっ。ねぇ、メルリ」
「キーラに助けられて、それからずっとキーラ一筋で探し続けてたんだからな。でも、当のキーラが忘れてたっていうのが残念だよな」
「仕方ないでしょ。あの後、城に戻ったら皇帝に側室を迎えるって話が進んでて、皇女が来たかと思えば奇妙な事件が多発して大変だったから」
ダナエでの穏やかで平和な日々なんてあっという間に忘れて、あの二年間はきな臭くて危険な日々に染まっていた。この邸に移り住んでからも、自分が生きていくことで精一杯だったから、子供の頃の出来事なんて思い出す暇はなかった。
「それで、お嬢はこれからどうするつもりだ?」
「……わからないの」
オリビンの問いに再び言葉が見つからない。
自分の心を探ろうとすればするほど、その先へ進むことを拒む自分がいる。独りで生きて、誰とも関わらないと決めていたから、そんな未来が来た時の言葉なんて用意しているわけがない。長い間縛られていた想いからはそう簡単に抜け出せるはずもないし、そのつもりもなかった。
「ノアを信じていいのか、わからないから。どこかで裏切られるかもしれないし」
「グダグダ考えてないで信じてやれば?」
迷いを断ち切るみたいに、メルリははっきりと言い切った。目を合わせたとたん、いつもの無邪気な笑顔でニッと笑った。
「おれ達を頼って墓から呼び起こした時みたいにさ。素直に頼ればいいと思うけど? なぁ、エステル」
「うん。だって、誰にも話さなかった自分のこと、話そうと思えたってことは信じてもいいってことだよ」
エステルやメルリの言葉を何度も心の中で繰り返した。
ノアなら大丈夫――その言葉を信じてみてもいいのかもしれない。そう思うと、不思議と心奥の方がむず痒くて温かくなった気がする。私はこの想いに従っていいのか、何度も質していた。
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