第21話「遠い日の記憶」(5)
◆◆◆◆
「陛下! どうか、ここをお開けください!」
焦りと困惑の混じる声が廊下に響き渡った。召使いに連れられて廊下を歩いていた私は、反射的に足を止めた。
父の家臣であるエバン爺が、閉ざされた寝室のドアを何度も叩きながら声をかけていた。私はそれを遠くから冷ややかな目で見つめ、抱えていた小さなエステルをそっと抱き寄せる。私の心の揺れを察知したのか、エステルは顔を摺り寄せて喉を鳴らした。
「キーラ様、陛下のもとへ行かれなくてよろしいのですか?」
様子を窺っていた召使いのパメラが、おずおずと声をかけた。
私の前にしゃがみ、心配そうに顔を覗き込んでくる。丸みのある大きな瞳と鼻筋を横断するそばかすが可愛らしくて、私は大好きだった。
「陛下は、お母さんが亡くなったことを受け入れられないでいるの。家臣達の言葉さえ聞き入れないのよ? 私が何を言っても届かないわ」
「ですが……」
そう話している間も、父の部屋には家臣達が代わるがわるやってきて、部屋から出るよう説得を試みていた。家臣達の思いなんてどうでもいいのか、部屋の中からは「わしは認めん!」「サディア、サディア!」と叫ぶ父の声が聞こえていた。
一週間前、母サディアが不慮の事故でこの世を去った。私以上に母のことを愛し、妃としても一人の女性としても大切にしていた父は、事故以来、母の死を認めることができず、葬儀にすら参列しないまま部屋に閉じこもってしまった。
私の父ローガン・エルディアは一人の子の親である前に、エルディア帝国を治める皇帝だった。母の死で心を閉ざした父は毎日のように涙を流し、皇帝としてすべき全てのことを放棄していた。このまま放っておけば、この国の行く末は危ういかもしれないと、子供の私でも理解できた。
どんなに父が拒んだところで母が戻ってくることはない。一国の主としてもっと強くあってほしい。父として毅然としてほしい。そう願いながら、その場を離れようとした時だった。
「あいつのせいだ……キーラが生まれたせいで、サディアがこうなったのだ! やはりキーラは禍を齎す!」
部屋の中から父の叫ぶ声が聞こえた。私の存在に気づいていた家臣達は、気まずそうにこちらを窺って慌てふためいている。傍にいたパメラもどうにか気を逸らそうと、必死に話しかけていた。
「キーラ様! 庭園にお花を摘みに行きましょうか。サディア様がお好きな薔薇の花を摘んで墓前にお供えしましょう」
「パメラ、ありがとう」
立ち上がろうとしたパメラを引き留めるように抱き着くと、申し訳なさそうに頷いて一度だけ抱きしめてくれた。
この国は月を支配する女神エメスを神として崇める月神信仰が古くから根付いている。そのため、月の消えた新月に生まれた子供は、女神エメスの双子の弟であり、新月を司るアデルの力を持つと言われ不吉だとして忌み嫌われていた。
私は新月の夜に生まれたから〝不吉な皇女〟だと、父はもちろん家臣や召使たちにも陰で言われていた。関われば呪われると世話すら拒む召使たちの中で、パメラだけが「そんな迷信は信じません!」と私を可愛がってくれた。私が少しでも傷つかないように気遣ってくれるその想いは素直に嬉しかった。
「キーラ様、お気持ちをしっかり持ってくださいね。キーラ様のせいでサディア様が亡くなったなんて迷信にもほどがあります」
「わかってる。お母さんが亡くなったのは私のせいでもないし、事故でもないから」
「えっ!?」
驚くパメラを置いて、私は先にその場を離れた。
母の死は事故ではない――母が乗った馬車が横転し、崖の下へと転落したことで命を落とした。だが、その場所は母の故郷であるダナエに続く道で何度も通っているし、道幅も広く安全だった。事故が起こるような場所では決してなかったからだ。
「キーラ! あの女が来たよ」
腕の中にいたエステルが鼻をクンクンさせ、背中の毛を逆立てた。
階段を下りていくと、父の側室であるヴィヴィが下の階からゆっくりと上がってくる。踊り場にいる私に気づくと、口角をスッと上げて微笑んだ。作られた笑顔が不気味なほど綺麗なのに、凍てつくような冷たさがしっかりと感じられた。
「あら、キーラ様。どちらへ?」
「ちょっと外へ……ヴィヴィ様こそどちらに?」
「陛下のもとですわ。まだお部屋にこもっておられると聞いて……私の言葉など聞いてはいただけないと思いますが、説得してまいります」
「……そうですか。では、お願いします」
ヴィヴィは丁寧にお辞儀をし、私の横を通り過ぎて上がっていく。私はその姿を目で追うこともなく階段を下りた。
「あの女、何を考えてるか読めないし、気味が悪くて嫌な感じ!」
エステルはよほどヴィヴィが嫌いらしく、いなくなった途端に背中の毛を逆立てた。正直、私はエステル以上にあの女のことが嫌いだ。母を死に追いやったのは、おそらくあのヴィヴィだからだ。
父には世継ぎとなる皇子がいなかったため、家臣達からは側室を迎え入れるよう説得されていた。そこで持ち上がったのが、父の古くからの友人で、小さな島国アンダリュー島を統治するアルマンダイン皇帝の末皇女ヴィヴィ・アルマンダイン。母以外を愛するつもりはないと父は拒んでいたが、家臣達やアルマンダイン皇帝の説得の末、渋々ヴィヴィを側室に迎えることになった。
父は表面上承諾しただけでヴィヴィとの関係を築くつもりはなかったみたいだけど、ヴィヴィ本人はこの大国でのし上がろうと必死だったようだ。父に言い寄ったり、あからさまに母に対抗していた。
ヴィヴィが城に来てから母の周囲では奇妙な事件が多発するようになった。食事に異物が混入していたり、母の部屋に毒蛇が迷い込んでいたり。そうして起こったのが不可解な馬車横転の事故だ。
崖下から母は見つかったというのに、未だに馭者が見つかっていない。馬車を調べた家臣達の間で車軸が不自然に折れていたという話も広がっている。ヴィヴィが皇后の座につこうと図った可能性が十分にあった。
「きっと、次に狙われるのは私だよね」
ぽつりと呟きながら、スカートのポケットから小さな小瓶を取り出した。
それは私の部屋の前に落ちていた。中に入っているのは毒薬。誰が落としたのかはわからないが、そんな物騒なものを密かに持ち込んでいる者がこの城の中にいる。使うとすれば、皇女である私以外にいない。確かな証拠はないが直感がそう告げていた。
「ねぇ、エステル」
「なぁに?」
訊ねる私に、エステルはぐっと背筋を伸ばして顔を見上げた。壊れてしまいそうなほど小さくて細いエステルを、優しく撫でてぎゅっと抱き寄せた。
「エステルは、私と一緒に逃げる覚悟はある? 城での裕福な暮らしも、美味しいご飯も食べられなくなるけど」
「もちろん! ワタシはいつでもキーラと一緒。どこにでもついてくよ」
私が予想していたよりもはっきりと、エステルは断言してくれた。その一言で私の心が決まった。
疎ましいというなら、お望み通り消えてやろう。
権力が欲しいなら、望むままに手に入れればいい。
その道を私が邪魔するというなら華麗に退こう。
そのために私がすべきことは一つだ。
エステルを連れ、真っ先に厩舎へと向かった。馬の世話係をしているベルナーをつかまえ、母の墓前に供える特別な花を摘みに行きたいと懇願して城の外へ馬車を走らせた。そして母が事故に遭ったダナエへと続くセシリア峠へと差し掛かる――私は頃合いを見計らって、馬車の小窓を叩いた。
「ねぇ! 停めて! 大切なものを忘れてきちゃったのっ。すぐに停めて!」
「あっ、はい! わかりましたっ」
ベルナーはすぐさま馬車を止めた。何事かと慌ててドアを開け、私をエスコートしながら外へおろした。
「キーラ様、何をお忘れになったのですか?」
「〝
「えっ、あの……キ……ラ様ぁ……」
ベルナーの問に答える代わりに、服従の呪文を唱えた。彼が驚いたのはほんの一瞬。見開かれたベルナーの瞼はみるみる落ち、まどろみに落ちる寸前のような半開きの目をして力なく項垂れた。
口をぽかんと開けて立つベルナーの目の前で、ヒラヒラと手を振ってみる。瞬きすらせずにぼんやりしていることを確認すると、エルディア家の紋章が入った銀の指輪をベルナーの手に握らせた。
「私がここから離れた後、馬車に火を点けて燃やして。私は野盗に襲われて命を落としたの。この指輪を持って城に戻ったら、そう伝えるのよ。もう一度言うわ。私は死んだの、いいわね?」
「はい……わかりました……」
熱にうなされたような掠れた声でそう返事をし、ベルナーは私に背を向けて歩き出した。うつろな表情のままフラフラと周囲の枯れ枝を集め、それを馬車へと運んでいく。持っていたランプ用の油とマッチで火を点け始めた。
エステルは腕の中から抜け出し、肩によじ登ってベルナーの様子を見るなりブンブンと尻尾を左右に振った。
「キーラ、見て! 服従の呪文、成功したみたいだよ」
「初めてだったから上手くいくか心配だったけど、あの様子なら城に帰るまで大丈夫そうね」
服従の呪文で操られた者は、深い眠りの底にふわふわと漂っているような状態に陥る。私が言った言葉をベルナーは疑うことなく、己の目で見た現実として城中の者達に伝えるはずだ。
「でも……本当にいいの?」
エステルが念を押すように訊ねた。
「後悔なんてしないわ。私は呪われた魔女だもの。お望み通り、その呪いを背負って生きてやる。今日から私はエルディアの皇女でも、キーラ・エルディアでもない。魔女サディア・ベルヴァータの娘で、魔女の末裔キーラ・ベルヴァータよ」
「ねぇ、キーラ。これからどうするの?」
エステルの声には不安も迷いもなく、これから先に起こる出来事に胸を躍らせるような、明るく弾んだ声だった。それとは裏腹に、頭上にはいつのまにか雨雲が広がり、ゴロゴロと大きな音を響かせている。まるで私が心に隠した不安を映し込んだみたいだった。
反射的に見上げた私の頬に、ぽつぽつと雨粒が落ちる。雨だ――そう心の中で呟いた瞬間、ザァっと激しい音をたてて滝のような雨が降り始めた。私は慌てて羽織っていた外套の中にエステルを隠した。
「お母さんの旧家に行く。私には、あの森と邸しか残されてないから!」
エステルが濡れないようしっかりと抱えながら、私はダナエに向かって走った。
転んでも、頭上で稲光が走っても、雨が体の熱を奪って指先が氷のように冷たくなっても。本当は叫びたいほど心細くて怖かったけれど、それを必死に隠して無我夢中で雷が轟く雨の中を走った。
それからどのくらい走っただろう。常闇の森に着いた時にはすっかり夜になっていた。空の暗さなんて比べ物にならないくらい、常闇の森には漆黒の闇が広がっている。母が隠した道標を辿って、やっとの思いで邸へと辿り着いた。。
ヴィヴィのことで城内が慌ただしいまま日々が過ぎ、ここへ来たのは二年ぶり。たった二年の間に、邸は夥しい数の蔦に覆われ廃墟のようになっていた。一見すると、住めるかどうかも怪しいくらいだった。
「うわぁ、酷い状態だね。本当に住めるの?」
「大丈夫。ちゃんと手入れし直せば問題ないわ。今日からここが、私とエステルの家よ」
そう言ったけど、心の中は不安でいっぱい。一〇歳で独り立ちするという魔女の掟があったとしても、私はまだ12歳。体も小さいし、腕だって枝みたいに細かった。城で不自由なくパメラやエステルに守られながら生きてきた私が、たった独りで生きていくには幼すぎることは自分でもわかっていた。
エステルをしっかりと抱え、入口を通り過ぎて邸の西側へと回り込んだ。どこへ行くのかと、エステルがきょろきょろと辺りを見回した。
「キーラ、邸に入らないの?」
「まだやることがあるの。邸の片付けはそのあとよ」
裏庭を越え、そのさらに奥にある〈永久の庭〉へとやってきた。先祖、そしてかつてベルヴァータ家に仕えていた身寄りのない使用人達が眠る墓がある。
邸同様、手入れのされなくなった〈永久の庭〉は私の背丈よりも高い雑草で覆われ、使用人達の墓は完全に埋もれていた。私はそれを必死にかき分け、庭の入り口から最も近い場所に置かれた三つの墓に辿り着いた。
「よし……始めましょ」
「ちょっと、何するつもりなの?」
エステルは小さな体を丸めて私の肩によじ登った。逆立つ毛を宥めるように撫で、危険が及ばないよう柵の上に避難させた。
「エステルと一緒に生きていくって決めたけど、私はまだまだ子供だから。ちゃんと大人になれるように少しだけ力を借りなきゃ」
並んだ墓に向き合って深呼吸をするも、吐き出した息は笑ってしまうくらいに震えていた。
溢れ出しそうな不安と緊張を誤魔化すように手を組んで祈りを捧げ、その両手に自らの息をそっと吹きかけて墓に触れる。母に教わったことを何度も思い出しながら、私は呪文を唱えた。
「〝
風の音すら聞こえない静寂の森に、地の底から湧きあげるような地響きが轟く。地面は波打ち、紫紺色に輝く光が地面を突き破って噴き上がった。
やがて光の粒は渦を巻きながら人の形へと変わっていく。彼らの視線が私を捉えたことに気づき、ごくりと息を呑んで祈るように胸元で手を組んだ。
「お願い! 生きていくために、あなた達の力を貸して!」
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