第17話「遠い日の記憶」(1)
母の故郷であるグランフェルト領ダナエの街を初めて訪れたのは、私がまだ一〇歳になったばかりの春だった。
真っ暗な常闇の森の奥深く、ひっそりと佇む母の生家を前にして私は固まってしまった。人が住まなくなった邸からは生き物の気配がなく、静かに時を止めている。異様な不気味さと覆いかぶさるように広がる巨大な木々、そして人を飲み込んでしまいそうなほど壁のように高く巨大な邸に、私の心は恐怖でいっぱいになった。
「いやああああああ!」
「あらあら、キーラったら。どうしてそんなに泣いてるの?」
恐怖心から号泣する私をよそに、母な呑気に笑っていた。おっとりしていて、何事にも動じない母の姿が、こんな時ばかりは腹立たしいとさえ思った。
「家に食べられちゃう! 入ったら二度と出てこられないよぉぉぉ」
「まぁまぁ、怖いわね。でも、ここは私が育ったお家なのよ? ということは、私はずっとお家に食べられていたってことなのかしら?」
「……ううっ、お母さん、ここにいるものね」
「ほら、こんなに元気いっぱいよ」
凄いでしょといわんばかりに、両手を腰に当てて胸を張って見せた。得意げになっている母がおかしくて、溢れ出ていた涙も少し引いた。
「入っても……大丈夫なの?」
「もちろん。外観はちょっと怪しくて怖いけど、中はとっても素敵なの。広くて大きくて、走り回ったって誰も怒ったりしないんだから」
「走ってもいいの!?」
母はにっこりと笑って頷き、私の手を握りしめた。
私が暮らす帝都の邸では、私が少し走っただけで執事や召使いたちが「はしたない」「おしとやかに」と口煩く注意する。常に誰かに監視され、「こうであるべき」という本当の私ではない私を求められてきた。でも、今ここにいるのは母と私だけ。護衛の騎士も数名付き添っているが、母が森へ入ることを禁じたため森の入り口で待機している。誰の目も気にしなくていい、そう思うと目の前にある邸がまったく怖くなくなった。
「お母さん、行こう! お家の中、案内して」
「あらあら、すっかりご機嫌ね」
さっきまでの恐怖心が嘘みたいに、今は好奇心でいっぱい。私は母の手を引いて邸へと踏み入れた。
中は誰も住んでいないとは思えないほど綺麗で、暖かく優しいランプの光で包まれている。外観からは想像がつかないほどだった。
母が父のもとへ嫁いだ日から、邸に住む者はいなくなった。昔から主を失った家は朽ちていくと言われているから、それを阻止するため、母は年に一度ここに訪れて邸の手入れをしていたらしい。
今までは私が小さかったから連れてくることはできなかったのだが、魔女は10歳を迎えると一人の大人として自立するという掟がある。それを機に邸を守る一族の一員として同行させられるようになった。
母の指示に従って掃除や片付けをし、裏庭や永久の庭の草むしりと、慌ただしく時間が過ぎていく。全てが新鮮で、帝都では味わえないことに胸を躍らせるも、まだまだ子供の私が、単調な作業に飽きてくるのは当然のことだ。
「お母さん、少し休もうよ……」
泥だらけになった手をパチパチと叩いて立ち上がり、足元に積みあがった雑草の山をみながら溜息をついた。
「あら。まだ始めたばかりよ?」
「んー、そうだけどぉ。ちょっとお腹すいちゃった」
空を見上げても、頭上には光を遮るように鬱蒼と木々が枝を絡ませて生い茂る。昼か夜かもわからないが、空腹の具合から昼が近いことは何となくわかった。
「ちょっとだけ休んだら、また草むしり始めるから!」
「ふふ、そうね。それじゃ、紅茶を淹れてクッキーでも食べましょうか」
「うん! 私、お湯沸かす!」
「あっ、でも肝心のクッキーを持ってきてないの」
母はエプロンのポケットから数枚のコインを取り出し、それを私の手に握らせた。
「街へ行って、美味しいクッキーを買ってきてもらえるかしら? 見習い魔女さんの、初めてのお使いよ」
「任せて! ちゃんと美味しいクッキー買ってくる。もちろん、森の入り口にいる騎士たちには幻惑の呪文をかけて、見つからないように街へ行くわ」
「ふふ、ちゃんとできるかしら?」
「私はお母さんの娘よ。できないわけがないでしょ。それじゃ、行ってきます!」
作業用に身に着けていたエプロンを外して母に託し、コインを握り閉めて駆け出した。
母が目印に着けた光を辿って森の入り口へ行くと、待機を命じられていた護衛の騎士達が退屈そうに立っている。いつまで待てばいいのかと溜息まじりに愚痴をこぼしたり、耐え切れなくなって居眠りをしたりと、各々の時間を過ごしていた。
ここを通れば「どこへ行くのですか?」「お供します」と煩わしいため、木の陰に身をひそめながら、待機している彼らに憶えたばかりの〈幻惑の呪文〉を使った。一回目はちょっとだけ呪文を間違えて見つかりそうになったが、二回目でなんとかすり抜けることができ、無事ダナエに入った。
ダナエの街は帝都ほどの華やかさはないが、海が見える静かな街だった。時間の流れがゆっくりとしていて、どこへ行っても人で溢れかえる帝都よりも私は好きだ。何より「こうであるべき」と押し付けられることなく、私らしくいられた。
「お母さんも帝都なんて帰らないで、ずっとここに住めばいいのになぁ。あのお家で誰にも邪魔されずに紅茶飲んだり、それから――」
「本当、お前ってのろまだな!」
菓子屋を探して街を探索していた時だった。丘の上の広場の噴水前で、私と同じ歳くらいの男の子四人が、一人の男の子を取り囲んで突き飛ばすのが見えた。
身なりからしてみんな貴族の子だろう。中心となっているのが長い黒髪を後ろで一本に結った子で、残り三人が命令に従って動いている様子から金魚の糞みたいだ。突き飛ばされて転んだ子は、ころんと丸い体でいかにも鈍そうな印象ではあったが、突き飛ばしていい理由にはならない。
「領主の息子だから仲良くしておけって母様に言われてるけど、正直面倒なんだよな」
「僕もですよ。ドナド様、こんなやつ放っておきましょうよ」
「そ、そんなぁ……」
「あぁ! いちいち泣くんじゃねぇよ!」
「やめなさい、かっこ悪いわね!」
黒髪の子が苛立った様子で手を上げた瞬間、辺りに私の叫び声が響いた。
驚いている隙に黒髪の子と座り込んでいる子の間に割り込んで立ちはだかった。突然現れて睨みをきかせて迫る私に、彼らは驚いて後ずさった。
「な、なんだよ、お前!」
「貴族の子供ってどんな育てられ方してるのよ。性格悪すぎて呆れるわ」
「はぁ!? お前こそ何なんだよ! そいつとどういう――」
私の言葉が気に食わなかったらしく、あからさまに苛立った顔をして肩に掴みかかった。触られたことが不愉快で、私は素早く叩き落として逆に突き飛ばし返した。
彼はとっさのことに上手く反応できず、よろめいて子分たちにぶつかった。今までそんなことをされたことがないのか、顔を真っ赤にして怒り出した。もちろん、そんなことで怯むような私ではない。
「男なら自分よりも強い者に立ち向かっていきなさいよ! 弱い者にしか威張れないなんて恥ずかしいわね」
「このっ!」
「ほら、それよ!」
再び掴みかかろうとしたところで、彼の顔に人差し指を突き立ててやった。まるで剣の切っ先を突き立てられたような状況に、彼は驚いて立ち止まった。
「私が女で弱そうだから手をあげるの? 甘く見てるなら呪ってあげるわ」
「呪いだって? こいつ頭おかしいんじゃないか?」
最初こそ怯んでいたものの、呪いだと聞いて四人はケラケラと笑い飛ばした。その笑い声が帝都の邸に仕える召使いたちの声と妙に重なってしまって非常に不愉快だった。
少しでも早く大人になって母を守るために身に着け始めた魔術はまだまだ未熟で、母のように上手く使えないけど、ちょっと驚かせるくらいなら簡単なことだ。
「〝
声は空気を震わせ、地を這うように落ちていく。
辺りに吹く風が渦を巻き、土埃を巻き上げながら辺りを包み込んでいく。異変に気付いた彼らの表情から笑みが消え、不安気に辺りを見回し始めた。
ゴゴゴゴッと不気味に轟く地響きと共に、私の足元に広がる影から唸り声を上げて無数の影の狼がいっせいに飛び出した。
「うわぁぁぁぁぁぁ!」
「化け物だぁぁ!」
「ドナド様、ドナド様ぁ! なんですか、これ!」
魔女の魔術を見たことがないのだろう。私に従う狼の死霊は、牙を剥き出して唸りながら、逃げ惑う彼らを追いかけ回す。何が起こっているのかわけがわからず、四人は号泣しながら辺りを駆けまわって転がるように逃げていった。その後ろ姿を睨みつけながら私は溜息をついた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます