第18話「遠い日の記憶」(2)
「まったく……やっていいことと悪いことの区別くらいつけなさいよね」
「あ、あの……」
そよぐ風にでさえ掻き消されそうな、弱々しい声が背後から聞こえた。
私が振り返ると、いじめられていた子は慌てて立ち上がり、服についた土埃を払いながら深々と頭を下げた。顔を上げた彼はポロポロと大粒の涙を流しながらも、なんとか頑張って笑顔を浮かべた。
体も顔もころんとまん丸で可愛らしいのだが、その顔立ちはよく見るとしっかり整っていて綺麗だった。白に近い白金色の髪に蒼い瞳がよく映えていた。
「助けてくれて、ありがとう」
「お礼なんていいの。私、ああいうヤツが大っ嫌いだから。それより怪我してない?」
彼は涙を拭いながら何度も頷いた。
転んで地面に手をついた時に怪我したらしく、彼の手の平にはうっすらと血が滲んでいた。それに気づいたとたん、泣き止みそうだった彼の表情はみるみる歪んで、真っ白な肌を大粒の涙が伝って流れ落ちた。
「ちょっと、泣かないでよっ。あの子たち、もういないから大丈夫だよ」
「う、うん! わかってる、けど。うえぇぇぇ」
「もうっ、大丈夫だから!」
宥めても慰めても、彼は一向に泣き止まない。通りを行き交う人々も何事かとこちらの様子を窺っている。まるで私が泣かせてしまったみたいで居心地が悪かった。
この場から離れたくて、つい彼の手を引いて歩き出した。とっさの行動が良かったのか、驚いて涙が少しだけ引っ込んだようだった。
「私、この街に来たのが初めてなの。どこか落ち着けそうな場所知らない?」
「えっと、その……僕のお気に入りの場所でよければ」
「あるのね。そこへ案内して」
「う、うん! そっちの道だよ」
彼の指示に従って大きな通りから細い路地へと入った。迷路のように入り組んだ道を右へ左へ進んでいく。きっとこの道は、いじめていた貴族の子達から逃げるために見つけた道なんだろう。
道の終着点は、街の外れにある池の前だった。その池の水は底がはっきりと見えるほど透き通って、エメラルドを溶かしたような青緑色に染まっていた。私と彼は池のほとりに座り、彼が落ち着くのを待つことにした。
「素敵な場所ね。ここなら誰も来ないから大丈夫そう。少し落ち着いた?」
「う、うん……」
頷くものの、まだグズグズ泣いている。体は丸くて服がはち切れそうなほどだけど、よく見ると顔立ちはかなり整っている。きっと笑ったら笑顔も可愛いだろうし、泣いているのがもったいないほどだ。
どうしたら元気づけることができるだろう。どうしたら笑ってくれるだろう。そんなことを考えていると、膝の上に置いた自分の右手に視線が落ちた。
私の中指には、母から教わって初めて作ったビーズの指輪がはめられている。お世辞にも上手とは言えない出来だったが、こんなものでも少しくらいは気休めになるかもしれない。
「〝
左手でそっと指輪に触れながら呪文を唱えた。小さなビーズ一つひとつに、私の魔力が込められたことを確かめ、グズグズと泣いている彼の指に指輪をはめた。
彼はきょとんと目を丸くして私を見る。初めて正面から顔を見たが、見とれてしまうくらいに綺麗な顔立ちをしている。驚いている彼に私はニッと笑って返した。
「その指輪があれば、あなたは強くなれるし、あの子達にも堂々と立ち向かえる。何があっても泣かずに、負けずにいられるわ」
「ほ、本当に!?」
「そういうおまじないをかけておいたの。だからもう泣かなくて済むわ」
「おまじない?」
「私ね、魔女の娘なの。魔女としてはまだまだ見習いだけど、それなりに魔術だって使えるんだから」
最初は半信半疑だった彼も、私が魔女の娘だと聞いて少しは信用してくれたのかもしれない。指輪がはまった手を目の前にかざし、キラキラと目を輝かせて見つめた。瞳に溜まっていた涙が徐々に乾き、零れ落ちることはなくなった。
「これ、僕にくれるの?」
「もちろん。また泣きそうになったら、これに触れて。きっと力を貸してくれるから」
彼が何かを告げようとした、ちょうどその時。遠くから「坊ちゃま!」と呼ぶ声がした。彼が慌てた様子で振り返った先には、白髪の紳士が辺りを見回しながら叫んでいる姿があった。彼は急いで立ち上がり、ズボンに着いた草を払い落した。
「僕の執事だ。ピアノのお稽古があったこと、すっかり忘れてた……」
「必死に探してるみたいだから、行ってあげたら?」
「うん……あの。また、会える?」
指輪をはめた指に何度も触れながら、彼は照れくさそうに訊ねた。私の返事が気になるのか、上目遣いで不安そうに様子を窺っていた。
「もうしばらくダナエにいるから、また会えるわ」
「へへっ、そっか。これ、ありがとう! それじゃ、また」
ヒラヒラと手をふって執事のもとへ駆けていく。重たそうに体を揺らして走る彼の背中を見送り、姿が小さくなったところで肝心なことに気づいてハッとした。
「あっ! 名前、聞くの忘れちゃった。でもまぁ、また会えるから大丈夫だよね」
次に会った時に聞こう。そう思っていたけれど、それから彼に会うことはなかった。母の旧家の片付けを終え、ダナエに立ち寄ることなく私は帝都の邸へと戻ってしまった。
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