第15話「魔女の呪いと遠い過去の約束」(6)
「こんばんは……バサルト」
「本当にお嬢ちゃん? 本物? いや、それより門の騎士たちは何やって……」
「偽物がいたら会ってみたいわ。あと、ごめんなさい。門番の騎士さんたちには少し眠ってもらったの。帰れって話を聞いてくれなさそうだったから」
「あぁ、なるほど。本物のお嬢ちゃんで間違いなさそうだ」
バサルトはドアを開け、私を中に招き入れてくれた。外のひんやりとした空気で体が冷え切っていたらしく、ドアが閉まったとたんふわりと暖かな城内にほっとした。
「まさかお嬢ちゃんが訪ねてくるとは思ってなかったから驚いたよ。こんな夜にどうしたんだい?」
「えっと、その」
目的ははっきりしているというのに、なぜか思うように言葉が出てこない。野次を飛ばされ罵られても、驚かす言葉はすらすらと饒舌に言えるのに、ノアが何をしているのか、そんな単純な言葉が出てこなかった。
「もしかして、坊ちゃんのこと気になったのかな?」
問いかけられ、私の言葉はさらに詰まった。まるでコルクでしっかりと蓋をされたみたいに、喉の奥に詰まって出てこない。苦しさのあまり、助けを求めるようにバサルトを見上げる。どこか嬉しそうに、それでいてからかうような不敵な笑みを浮かべられ、反射的に睨みつけていた。
「人々から恐れられる常闇の魔女も、素直になれない一人の女性だったわけか。可愛らしいねぇ」
「なっ、そんなことっ。毎日欠かさず押しかけて来てたから、エステルやメルリも気になってて、それで。これを持って様子見てきたらって……」
「はい、はい。そういうことにしておきましょうか。おっ、この匂いはアップルパイか。美味しそうな匂いだねぇ」
差し出した籠を受け取ったバサルトは、被せた布の上から匂いを嗅いで当てる。
ノアと一緒に生活をしていると食べ物の好みも移るのだろうか。仄かに立ち上るアップルパイの香りを嗅いだ時のバサルトの表情は、ノアと同じように幸せそうだった。
「それで、その……彼は? 私に服従したいってあれ、諦めてくれたとか?」
「残念ながら、お嬢ちゃんのことは諦めてないよ。邸に行けなくなったのは、風邪ひいて寝込んじゃったからなんだよねぇ」
「そ、そうなの」
そっけない返事をしながら、私はどこか安心していた。思わず顔が緩みそうになったことに気づき、慌てて表情をきりりと引き締めた。
「そのアップルパイ、すごく美味しいの。食べられそうなら、彼にも食べさせてあげて」
「あれ? 坊ちゃんに会っていかないのかい?」
踵を返した私をバサルトが引き留めた。
寝込んでいるなら起きられる状態ではないし、そもそも夜も更け始めた時間に部屋に邪魔するのは迷惑になる。彼がどうしているのか、それさえわかればよかったのだけど、引き留められるとなぜか気になってしまう。
「いえ、迷惑だから私はこれで」
「お嬢ちゃんが訪ねて来たって聞いたら、坊ちゃん飛んで喜ぶと思うよ?」
「喜ばれても困るんだけど」
「いやいや、間違いなく喜ぶよ。あっ。そっか……今は嫌がるかもしれないな」
バサルトは自ら引き留めておいて意味深なことをぽつりとこぼした。
飛んで喜ぶはずなのに嫌がるとはどういうことなのか。アップルパイを渡して帰ろうと決めていた心が大きく揺らいで、なぜノアが嫌がるのか理由が気になって仕方がない。かといって、それを訊ねればノアに興味があるのだと思わせてしまうことだけは避けたかった。
「こんな雨の中せっかく来てくれたんだから、一応坊ちゃんに聞いてみようか」
私の答えを聞かずに、バサルトは玄関正面にある階段を軽快な足取りで上がっていく。中間あたりまで上がったところで立ち止まり、ついておいでと手招きをする。私はまだ一言も会ってから帰るとは言っていないのに、そういう勝手なところはノアによく似ている気がした。
「彼に仕えてるだけあってよく似てるわね……」
「お嬢ちゃん、さっさと上がっておいで。迷子になるよ」
「はい、行きます!」
羽織っていたローブを脱ぎながら、私も階段を駆け上がた。
三階まで上がりきり、廊下の左奥にある一室へとやってきた。私を廊下で待たせ、バサルトは静かに部屋へと入っていく。真っ白なドアの向こうにノアがいるのだと認識したとたん、背中の中心をなぞるように緊張がじわりと這っていく。同時に、どうして彼に会わなければならないのかと自問自答を繰り返した。今すぐ逃げ出したい衝動に駆られながらも、バサルトが出てくるのを静かに待った。
それからどのくらい経ったのか。時間にすると、熱々のポットに紅茶の茶葉を入れて、じわりと色づき始めたくらいだろうか。一向に部屋から出てくる様子がなく、このまま帰ってしまおうと思っていた矢先、バサルトが部屋のドアを開け、待っていた私に中に入るよう促した。
「どうぞ。今は少し落ち着いたみたいだから話せるってさ」
「バサルトは、一緒にいなくていいの?」
「邪魔するなって言われちゃったからねぇ。まぁ、向かいの部屋で仕事してるから。何かあったら叫んで」
不敵にニヤリと笑って背中を押され、その勢いのまま部屋へと足を踏み入れた。
私が入ったことを確認すると、バサルトはすばやくドアを閉めてしまう。私の鼓動と息遣いが聞こえるくらい部屋はしんと静まり返っていた。
入口から向かって正面に大きな窓が三つあり、右端の窓際に机と壁を埋め尽くす本棚が設置されているくらいで目立って大きなものはない。予想に反して簡素で貴族とは思えないほどあっさりとした部屋だった。
オレンジ色の淡いランプの光で照らされた室内で、ゆっくりと視線を動かしていくと、左端の窓際にベッドがある。だが、そこに寝込んでいるはずのノアの姿が見当たらなかった。
「どこ行ったの……? 私に会いたくないから隠れたの?」
出入口は背後にあるドアだけで、別室があるわけでもなさそうだった。かなり広い部屋ではあるが、身を隠せるような場所も見当たらない。様子を窺いながらベッドに歩み寄るった。使われた形跡がなく、シーツも布団もシワ一つ寄っていない。恐る恐る触れると、思っていた以上にひんやりと冷えていて、そこに人が横たわっていたとは考えられなかった。
ふと、視界の端で何かが動いた。ベッド脇の小さなテーブルに大きな瓶が一つ置かれていた。大きさは私の腕の中に収まるくらいで、ワイン二本分は注げるだろうか。よく見ると瓶の中には部屋が再現されていた。中央にはベッドがあり、それを取り囲むように本棚が配置され、棚には小さな本がずらりと並んでいる。そしてベッドの上には深い青色と金色が混ざり合った美しい翅の蝶が横たわっていた。
「綺麗……こんな置物、初めて見たわ」
『そんな間近で見られると恥ずかしいな』
どこからともなくノアの声が聞こえた。
どこにいるのかと辺りを見回すも、どこにも姿はない。きょろきょろしている私に、「こっちだよ」と再び声をかけられた。どう聞いても、その声の出所は紛れもなく瓶の中から聞こえていた。
まさかと思いながらも、私はおそるおそる瓶に顔を近づけた。ベッドに横たわっていた蝶がゆっくりと体を起こし、瞬きをするように翅を一度だけ開いて見せた。
『久しぶりだな、キーラ』
「嘘でしょ……もしかして、ノアなの!?」
『あっ。俺のこと、初めて名前で呼んでくれたな』
嬉しそうに声を弾ませる蝶を前に、私は驚いてその場に座り込んでしまった。
にわかには信じられないが、瓶の中に閉じ込められていた蝶はノアだった。なぜそんな姿なのか、なぜ瓶の中にいるのか。わからないことばかりで、ただただ驚いて瓶を覗くことしかできなかった。
「本当に、あのノアなの?」
『前に言ったことあったよな? 俺の体には、生まれた時から呪いがかけられているって。これがその呪いなんだ』
ゆっくりと翅を羽ばたかせながら、ノアはその身にかけられた呪いについて話してくれた。
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