第9話「伯爵の魂胆は?」(4)
本のページを捲る指を止め、ポケットから取り出した懐中時計をそっと開いた。カチ、カチと時を刻む秒針の音を聞きながら、私は苛立ちと不安の混じる溜息をついた。
「遅い……遅すぎる」
私室の隣にある書斎にこもって早二時間。〈永久の庭〉に向かったメルリ達からの連絡はない。一時間ほど前にエステルを様子見に向かわせたものの、そのエステルさえも戻ってこなくなった。領主と執事を追い払うだけなのに、こんなにも手間がかかるものだろうか。
「何かあったのかな……そうよね、何かあったから連絡が来ないのよね」
私がこの森に来てから今の今まで常闇の森はもちろん、この邸に辿り着けた者は誰一人としていない。それを易々と通り抜けてきたのは絶対に理由がある。私が気づいていないだけで、あの領主は私以上の魔力を持っていた可能性も十分にあった。
「そもそも、あの人は本当に領主なの? もしかして、この森と邸を狙っている何者かが差し向けたなんてことは……? えっ、これってとってもまずい状況?」
可能性を口にしているだけなのに、嫌なことばかり想像して急に焦りが襲ってくる。手にした資料を胸に抱え、行き場のない不安を拭えず棚と棚の間を行ったり来たり。何の連絡もなく〈永久の庭〉から誰一人として戻ってこないのは、みんなの身に何か起こったと考えるべきなのか。
ひょっとしたら、ノアではなくバサルトという執事が私と同じ死霊術が使えて、メルリたちの魂を消滅させているかもしれない。いや、かつての使用人達の魂を強引に叩き起こして服従させているかもしれない。考えれば考えるほど、私の体の中の血がサッと気が引く。
「呑気に本なんて読んでる場合じゃなかったわ!」
薔薇の垣根を越えて、二人の姿が見えなくなったところで、私はくるりと振り返って腕を組んだ。私が怒っていることに気づいたエステルは慌ててオリビンの後ろに隠れ、メルリは苦笑いを浮かべて後ずさった。
「少し驚かせて追い払うって計画だったはずよね? それがどうしたらピクニックとお茶会に変わるっていうの?」
「キーラ様、その……私もオリビン殿も、最初はそのつもりだったのですが……」
「話してみると、思っていた以上に気さくで真っ直ぐな良い青年でな。ワシらが死霊だとわかっても怖がらず、一人ひとりの言葉に耳を傾けてくれて、つい身の上話に花が咲いてしまった」
オリビンは私のもとへ歩み寄よると、小さい頃と同じように私の頭を優しく撫でた。温かな涙が出そうなくらいにその手が温かくて、緊張して強張った心が解けていくような気がする。やがて真っ直ぐに向けられた眼差しがなんだか怖くなって、避けるように視線を逸らした。
「お嬢に近づかないよう警告するつもりだったが、彼と話をしていてふと思ってしまったんだよ。ワシらはすでにこの世の人間ではない。エステルだって人間ではないし、いずれお嬢よりも先にこの世を去る。このまま誰とも関わらずに一生を終わらせていいのか、とな。お嬢、そろそろ人と関わりながら生きていってもよい頃だと思うぞ」
「それで、私にあの領主と仲良くしろって言うの?」
躊躇いながらも、オリビンは一度だけ深く頷いた。スフェン、メルリ、そしてエステルも同じ気持ちだったらしく、目を合わせるたびに小さく頷いた。
「私と関わった人間は必ず呪われるの。ノア・グランフェルトも例外じゃないわ」
「それじゃ、ワタシ達も呪われてるの? ワタシはキーラと一緒に暮らして、毎日楽しくて幸せだよ?」
エステルの言葉に何も言い返せなかった。
呪いは魔女が扱う魔術の一つに過ぎない。それは魔女自らが言葉と力を用いて発動させなければ生み出されないもの。傍に居たり関わるだけでは、呪いなんてものは決して発動しない。
―― お前がいたせいで我が愛しい妻が……お前の傍にいる者は必ず呪われる!
頭の奥で響く声と言葉に、心臓を握り潰されるような痛みを覚える。悲しくて、苦しくて、その言葉が表に出てこられないよう必死に押し込め、みんなと過ごしてきた楽しい記憶を思い出した。
畑で採れた野菜で美味しいポタージュを作って、木苺で甘酸っぱいジャムを作って、焼き立てのパンに塗って食べる。私にはそれだけでも十分すぎる幸せだ。
「私はみんなと一緒に、この森で静かに過ごせるだけで十分なの。オリビン、ありがとう」
私の答えは10年前にこの森へ来た時からすでに決まっている。言葉にしなくても、きっとわかっていてくれているはずだ。私が返した言葉に、オリビンはそれ以上何も言わなかった。
気づいたらいてもたってもいられず、書斎から飛び出した。
三階から一階へ一気に階段を駆け下り、応接室の暖炉横にある隠し扉から地下通路を抜けて裏庭の噴水下から外へ出た。薔薇の垣根を越えた先に、夜のような闇が漂う〈永久の庭〉が広がっている。皆がいる場所まですぐそこまで来た。
「みんな! 彼らから、はなれ……て?」
勢いよく飛び込んだ私は目の前に広がった光景に思わず足を止めていた。
死霊達を強引に服従させてはいないか、オリビン達の魂を消滅させられてはいないか。そんな最悪の事態を覚悟していたのに、そこにあったのはノアを囲んで和気藹々と菓子や紅茶を飲みながら談笑する使用人達の姿だった。
すぐに状況が呑み込めず、額に手を当てたまま目の前の光景に首を傾げた。二時間前、メルリはノアとバサルトを驚かせて追い返すという計画を立てた。オリビンもスフェンもその計画を聞いてここへ案内したはずだ。そう時間はかからないと思っていたが連絡がなく、様子を見にエステルを送り込んだはずが、そのエステルも戻らず。来てみれば、墓地でお茶会を楽しんでいるではないか。ピクニックでもするみたいに、墓地の隅に大きなこれはいったいどういうことなのかと、頭が真っ白になった。
「……なんだか、楽しそうね?」
私の中に残った言葉がそれしかなくて、思わず嫌味っぽく呟いていた。
気づいたオリビンは私を見て申し訳なさそうに咳払いをし、スフェンは眼鏡を中指で押し上げながら顔を隠した。エステルとメルリは悪びれる様子もなく、私に満面の笑顔で手を振った。
「あっ、キーラ! 今、呼びに行こうと思ってたんだ」
「キーラも一緒に食べようよ」
皆が無事だったことに安堵した半面、計画をすっかり忘れて打ち解けているメルリたちを前にして返事ができなかった。呆然と立ち尽くしている私に、バサルトが歩み寄ってティーカップを差し出してきた。そこには淹れたばかりの紅茶に、砂糖漬けのオレンジが浮かんでいた。
「お嬢ちゃんもいかがかな? 美味しいよ」
「お、おじょうちゃ……!」
「バサルト!」
お茶を楽しんでいたノアが、バサルトに気づいて慌ててこちらへやってきた。不貞腐れたような顔をして私とバサルトの間に割って入った。
「そういうのは俺の役目だろ?」
「おやおや、これは失礼」
「キーラも、一緒に食べないか?」
差し出されたのは、こんがりとキツネ色に染まった焼き菓子だった。バサルトが邸の調理室を借りて焼いたのだと、彼は嬉しそうに説明していたが、それを聞いた私は気が気ではない。書斎で本を読みながら計画完了の報告を待っている間に、執事が勝手に使ってたことに気づけないなんて不覚にもほどがある。
「私、甘いものが大嫌いなのよね」
「あれ? 食事の後は必ずタルトや焼き菓子を食べるって、メルリから聞いたんだけど」
「メルリ……」
余計なことをと睨みつけるも、当の本人はどこ吹く風。なぜ睨まれているのかもわかっていないのか、メルリはきょとんとしながら焼き菓子を頬張っていた。
「今、みんなから生きていた頃の話を聞かせてもらってたんだ」
「えっ? みんなって……彼らが死霊だってこと」
「あぁ、聞かせてもらった。エステルが猫だってこともね」
私が思っている以上に彼と打ち解けてしまっていた。
魂胆を隠し持っているかもしれない相手に、素性はもちろん過去の話まで自ら話すなんてあり得ない。メルリが得た情報の中に〝天性の人たらし〟だと言ってたけれど、それは強ち嘘ではないらしい。警戒していた使用人達を、こうもあっさりと丸め込んで打ち解けてしまうのだから侮れない。何か魔術でも使ったのかと、その痕跡を探してあちこち見回した。
「一つ、聞きたいことがあるの」
「えっ! なんだい?」
菓子を断られてしょんぼりしていたノアは、声をかけたとたんに嬉しそうに微笑んだ。街で会った時も眩い笑顔だと思っていたが、至近距離で直視するとより眩しさが増して見える。綺麗さに圧倒されそうになるが、険しい顔をして必死に対抗した。
「この常闇の森には〈幻惑の結界〉が張り巡らせてあるわ。魔力を持たない人間は、森の奥へ進むことも、邸に近づくこともできないの。それなのに、あなたは易々と越えてきたわ。そのことについて説明してくれる?」
「そうなのか? バサルト、気づいたか?」
「いいや。オレは坊ちゃんのあとをついてきただけなんでねぇ」
二人は顔を見合わせて不思議そうに首を捻るだけだった。どちらも嘘を言っているようには見えないが、本当に何も知らないのだろうかと勘繰ってしまう。そう簡単に腹の内は明かすわけもないだろうから、必ず魂胆を暴いてみせる。
「私がこの森にきて10年、誰一人として邸に辿り着けた者はいなかったわ。こんなにもあっさりすり抜けてくるなんてあり得ないのよ」
「んー、そう言われてもな……森の入り口から真っ直ぐ進んできただけなんだ」
「どちらか、魔術を使えるんじゃない?」
「いやいや、オレは見た目から使えそうに見えるかもしれないが、坊ちゃんはないな」
「そうだな。俺、ただの領主だから。あっ! 一つ理由があるとすれば」
そう言って、私をキラキラとした目で見つめたかと思えば、どこか照れくさそうに笑って視線を外した。
「な、なに……?」
「森に住んでるってことは街の人達から聞いていたけど、場所まではわからなかったから。キーラに会いたいって、強く想いながら森を進んだら辿りつけたんだ。理由があるとすれば、それくらいかな?」
嬉しそうに話すノアに、私は苦々しい笑顔を返すしかなかった。そんな理由で私の結界が破られるわけがない。ノアから菓子を、バサルトからティーカップを取り上げた。
「はっきり言わせてもらうわ。私はあなた達のことは信用してない。急に訪ねてこられて正直迷惑してる。悪いけど、今日はこれで帰ってもらえる?」
「えっ……みんなとは話せたけど、キーラとは――」
ノアそう言いかけたところで、バサルトが止めに入った。まだ何か言いたそうにしていたが、それでもバサルトはさらに首を横に振った。ノアは叱られた子犬みたいに視線を落として溜息をついた。
「坊ちゃん、困らせちゃだめだ。今日はこの辺で帰りますよ。領主の仕事もたくさん残ってるからねぇ。そろそろ帰る時間だ」
「……わかった。キーラ、無理に来てしまってすまなかった。今日はありがとう、楽しかったよ」
残りの菓子を傍にいたエステルに手渡し、ノアとバサルトは〈永久の庭〉を出て行った。
薔薇の垣根を越えて、二人の姿が見えなくなったところで、私はくるりと振り返って腕を組んだ。私が怒っていることに気づいたエステルは慌ててオリビンの後ろに隠れ、メルリは苦笑いを浮かべて後ずさった。
「少し驚かせて追い払うって計画だったはずよね? それがどうしたらピクニックとお茶会に変わるっていうの?」
「キーラ様、その……私もオリビン殿も、最初はそのつもりだったのですが……」
「話してみると、思っていた以上に気さくで真っ直ぐな良い青年でな。ワシらが死霊だとわかっても怖がらず、一人ひとりの言葉に耳を傾けてくれて、つい身の上話に花が咲いてしまった」
オリビンは私のもとへ歩み寄よると、小さい頃と同じように私の頭を優しく撫でた。温かな涙が出そうなくらいにその手が温かくて、緊張して強張った心が解けていくような気がする。やがて真っ直ぐに向けられた眼差しがなんだか怖くなって、避けるように視線を逸らした。
「お嬢に近づかないよう警告するつもりだったが、彼と話をしていてふと思ってしまったんだよ。ワシらはすでにこの世の人間ではない。エステルだって人間ではないし、いずれお嬢よりも先にこの世を去る。このまま誰とも関わらずに一生を終わらせていいのか、とな。お嬢、そろそろ人と関わりながら生きていってもよい頃だと思うぞ」
「それで、私にあの領主と仲良くしろって言うの?」
躊躇いながらも、オリビンは一度だけ深く頷いた。スフェン、メルリ、そしてエステルも同じ気持ちだったらしく、目を合わせるたびに小さく頷いた。
「私と関わった人間は必ず呪われるの。ノア・グランフェルトも例外じゃないわ」
「それじゃ、ワタシ達も呪われてるの? ワタシはキーラと一緒に暮らして、毎日楽しくて幸せだよ?」
エステルの言葉に何も言い返せなかった。
呪いは魔女が扱う魔術の一つに過ぎない。それは魔女自らが言葉と力を用いて発動させなければ生み出されないもの。傍に居たり関わるだけでは、呪いなんてものは決して発動しない。
―― お前がいたせいで我が愛しい妻が……お前の傍にいる者は必ず呪われる!
頭の奥で響く声と言葉に、心臓を握り潰されるような痛みを覚える。悲しくて、苦しくて、その言葉が表に出てこられないよう必死に押し込め、みんなと過ごしてきた楽しい記憶を思い出した。
畑で採れた野菜で美味しいポタージュを作って、木苺で甘酸っぱいジャムを作って、焼き立てのパンに塗って食べる。私にはそれだけでも十分すぎる幸せだ。
「私はみんなと一緒に、この森で静かに過ごせるだけで十分なの。オリビン、ありがとう」
私の答えは10年前にこの森へ来た時からすでに決まっている。言葉にしなくても、きっとわかっていてくれているはずだ。私が返した言葉に、オリビンはそれ以上何も言わなかった。
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