第5話「禍の魔女は闇夜に闊歩する」(5)

 彼を追い払った場所から10分ほど歩けば、光の終着点である母の旧家〈ベルヴァータ家の邸〉へと到着した。初めてこの邸を見た時は、あまりの大きさと不気味さに驚いて大泣きしてしまったけれど、それは遠い昔の懐かしい記憶。今の私には緊張から解放されて安堵できる大切な我が家だ。


「ただいま~」


 重たいドアを開けると同時に、肩にしがみついていたエステルはぴょんと飛び降りて、我先にと邸へ飛び込んだ。エントランスの中央まで駆けていき、私の方へ振り返ったかと思えば得意気にくるりと宙返り。小さな黒猫だったエステルはあっという間に一六歳くらいの少女の姿に早変わり。ぐっと両手を頭上に上げて、凝り固まった体をほぐすように背伸びをした。


「んー! やっぱり人間の姿の方が楽でいいね。ねぇ、キーラ。今度、この姿で買い物行ってもいい?」

「ダメよ。この邸にはお母さんの強力な魔力がかけられているから、その姿を保っていられるだけなの。一歩でも邸を出たら五分も持たないって言ったでしょ?」

「まぁ、そうなんだけどぉー」


 エステルは口を尖らせながら私を見上げた。上目遣いで見つめるその姿は猫の時と変わらず、金色と緑色が混ざった綺麗な瞳も艶のある黒髪も愛でたくなるほど愛らしい。誘惑に負けて頭を撫でると、首に巻いた白と黒のストライプ柄の大きなリボンが揺れ、その奥からゴロゴロと喉を鳴らした。

 エステルを猫から人の姿へと変えるこの魔術は、私の魔力を元にしている。魔女としての力はまだまだ母には及ばないから、エステルの姿を長時間保つことは難しい。もっと強い魔力を手に入れて、エステルの願いを叶えてあげられるよう努力しようと密かに誓った。


「ワタシね。キーラと一緒にこの姿で街を歩いて、買い物してみたいの。子供の頃、約束したでしょ?」

「そうね。あの時の約束が守れるように、もっと力をつけないとね」

「ワタシがお婆ちゃんになっちゃう前に叶えてよね」


 軽快な足取りで先導するエステルの後を追って、一階のエントランスから左手奥にある調理室へと向かった。

 ドアを開けたとたん、中からは美味しそうな匂いがふわりと漂ってくる。私の帰りを待ちながら夕食の準備をしていた使用人であり同居人のオリビン、スフェン、メルリが笑顔で私達を出迎えた。


「オリビン、ただいま」

「おぉ、お嬢。やっと帰ってきたか」


 オリビンは紅茶を淹れていた手を止めて長い顎鬚を撫でると、注いでいた紅茶の湯気が立ち上って、かけていたモノクルがふわりと曇った。背の高いオリビンには調理室の作業台が低いらしく、丸めていた体を伸ばして背中を叩く。すらりと真っ直ぐに伸びた姿勢の良さはいつ見ても美しい。御年70歳とは思えないほどだ。


「キーラ、これ見てくれよ! キーラの好きなミートパイ、今焼きあがったんだ」

「美味しそうね。んー、いい匂い」

「だろ? 冷めないうちに食っちゃおうぜ」


 パタパタと駆け寄ってきたかと思えば、メルリはオーブンから取り出したばかりの料理を自慢げに見せた。

 森の暗闇を跳ね返すような鮮やかな赤毛と、子犬みたいに無邪気な明るさにはいつも助けられている気がする。街で浴びせられる馬事雑言も、メルリの笑顔と明るさに触れれば一瞬で吹き飛ばしてくれる。


「メルリ、自分が作ったような言い方をしないでください。それを作ったのは私とオリビン殿ですよ」


 そこへスフェンがすかさず割り込んだ。メルリの手から素早く皿を取り上げ、冷めないようふわりと布をかぶせて配膳用ワゴンに乗せる手際の良さに、横取りされたメルリはあからさまに拗ねた顔をした。


「メルリとエステルに料理を任せたら片付けが倍に増えるだけです」

「ちょっとスフェン、どうしてワタシも入ってるのよー」

「二人に任せて調理室が火事になったことをお忘れですか?」


 エステルとメルリは同時に黙り込んで、気まずそうに顔を見合わせた。

 昨年の春、私の誕生日に二人でケーキを焼いてくれたことがあった。実はエステルもメルリも料理はお世辞にも上手ではなくて、むしろ任せると危険なほどだった。オリビンとスフェンに忠告されていたにもかかわらず、黙ってケーキを作ってオーブンが爆発したことがあった。それから二人きりでの調理とオーブンの使用が禁止されていた。

 そのことを思い出したメルリとエステルは言い返せなくなって、悔しそうにスフェンを睨みつけながら食器の準備を始めた。スフェンにしてみれば、そんな悔し気な視線もなんのその。まったく気にも留めていない様子だった。


「そういえば。キーラ様、今日はいつもより帰りが遅かったですね」


 そう訊ねながら、スフェンはオリビンが淹れてくれた紅茶をどうぞと差し出した。

 私がカップを手にすると同時に、どこからともなくやってきたオリビンがカップに角砂糖を二つ入れ、さらりとスプーンでかき混ぜていく。今日、オリビンが淹れてくれたのはカモミールオレンジティー。カップの中から乾燥させたオレンジの皮の良い香りが立ち上ってきた。


「また街の連中に絡まれたのであろう? まったく……あることないこと噂しおって」

「噂のことは気にしてないからいいのよ。ただ、ちょっと変な人に絡まれちゃって」

「変なヤツ、とは?」

「キーラに服従したいって跪いた人がいたんだよ」


 スープ皿を手にしたエステルが、通りがかりに割り込んだ。状況が想像できなかったらしく、オリビンとスフェンが顔を見合わせて首を傾げた。エステルのあとについてきたメルリも、眉間にシワを寄せて訝し気な表情を浮かべている。


「よくわかんねぇけど……それって、キーラを口説いたってこと?」

「多分、あの人はそのつもりだったんじゃない?」

「いやいや、もっと別の言い方あるだろ?」


 エステルの話が信用できないらしく、メルリはからかっているのかと問い詰めた。街から邸へ帰ってくるまでに起こった出来事を事細かに説明するも、メルリは嘘だと笑うだけだった。


「グランフェルト領主がお嬢にそんなことを……お嬢、エステルの話は本当か?」

「えぇ、一応ね」

「何か魂胆があるのでは?」


 スフェンは眉間にしわを寄せて首を捻った。眼鏡越しに私を見つめる青い瞳に疑念の色が浮かんだ。

 エステルは悪い人ではないと言ってたけれど、冷静になって考えれば妙なことが多すぎる。スフェンのように警戒するのが当然の反応だ。


「私もスフェンと同じ考えよ。彼は、何か企みがあって私に近づこうとしてるのかも」

「探ってみましょうか?」


 静かに出された提案に、私は返事をせずに黙って見つめた。

 強く強く揺るがないその青い瞳は、私をまっすぐ捉えている。包み込むような優しさと気遣いができるオリビンや、弾けるような明るいメルリにも助けられているが、スフェンの何にも動じない冷静さも頼りになる。


「お願いできる?」

「もちろん、お任せを。オリビン殿、メルリ、行きましょう」

「うむ。エステル、お嬢の夕食は任せたぞ」

「キーラ、行ってくるよ! 朝までには戻るから」


 三人の姿はふわりと空気溶けて煙となり、開け放たれた窓から外へ流れて行った。

 エステルは闇夜に消える煙に手を振り、どこか羨ましそうな溜息をついて窓を閉めた。


「いいなぁ。三人はあの姿でどこにでも行けちゃうから羨ましいよ」

「彼らは〈死霊ファントム〉だもの。私やエステルとは違うわ」

「わかってるって」


 少し寂しそうに言って、私の腕にしがみついた。

 オリビン、スフェン、メルリの三人は遠い昔、このベルヴァータ家に仕えていた使用人であり、すでにこの世を去った過去の存在。私がここへ辿り着き住み始めた頃、邸の裏にある使用人達の墓からこの世へ呼び寄せた〈死霊ファントム〉だった。まだ一二歳で幼かった私には、この世界で生きていくために誰かの手を借りなければならなかった。親族も知人もいない母の故郷で頼れるのは、魔女の血だけ。

 

 魔力の強さによって従わせることができる死霊ファントムの数も増える。当時の私に従ってくれたのはあの三人だけだった。いや、従わせなければならないのに、むしろ私が怒られることの方が多かった。

 

 三人から生き方を学びながら、ひっそりと楽しく過ごしてきた。今までも、これからも。私の命が尽きるその日まで、エステルと彼らと一緒に穏やかに暮らすことができれば何も望むものはない。この生活を全力で守ろう。何を企んでいるのか魂胆はわからないが、グランフェルト伯爵が二度とここへ近づけないよう対策を練る必要がある。


 ―― 俺は君に服従を誓いたい!


 彼のことを思い出した瞬間、とんでもないあの言葉が耳の奥で響いた。背筋がゾッとして瞬く間に悪寒が走る。体を震わせたことに気づいたエステルは、不思議そうに私を見上げた。


「キーラ、寒いの?」

「えぇ、ものすごい寒気を感じたわ。エステル、夕食にしましょ。皆が作ってくれた料理の他に、シェリルさんのお店で買ったチキンの燻製でシチューも作るわよ」


 亡霊のようにまとわりつく彼の気配を遮断するように、開いていた窓を慌てて閉めた。

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