第4話「禍の魔女は闇夜に闊歩する」(4)

「出た!」

「噓でしょ!? ここまで追ってきたの!」


 彼は辺りをキョロキョロ見渡し、私を見つけるなり安堵したような笑みを浮かべてこちらへ駆けてくる。もはやその光景は恐怖でしかなく、私の背中は冷や汗でびっしょり。エステルにいたっては私の肩で激しく毛を逆立てた。


「キーラ、来たよ! こっち来た!」

死霊ファントムより質が悪いわよ……エステル、しっかり掴まっててね!」


 肩にしがみつくエステルの前足に力がこもり、ローブ越しに爪が食い込むのを確かめて駆け出した。買い込んだ食材を落とさないよう左腕でしっかり抱えながら、右手を頭上に掲げ時計回りに円を描いた。

 周囲に張り巡る蔓や木々の枝がユサユサ、ズズズッと音を立てながら動き出し、蜘蛛の巣のように複雑に絡み合いながら彼の行く手を阻む壁となって立ちはだかっていく。道を塞がれては先へ進むこともできない。これで諦めるだろうと思ったのも束の間、彼は絡み合う蔓をかき分けてどんどん進んでくるから驚いた。


「キーラ、まだ追ってくるよ!」

「うそうそ、あり得ない!」


 私の魔術は新月の放つ闇の力を根源としている力だ。闇が深まれば深まるほど、最も強く効力を発揮する。魔力を持たない人間は触れることすらできない魔術のはずなのに、彼はどういうわけかいとも簡単に越えてきた。ノア・グランフェルト伯爵とは、一体何者なのだろうか。


「待ってくれ、キーラ! どうして逃げるんだ!」


 絡み立ちはだかる蔓を必死にかき分けながら、彼は何度も私を呼んだ。魔術が効かない上に、服従したいと追ってくる妙な男に待てと言われて誰が待つというのか。構うことなく、森の奥へと必死に走った。


「あなたが追ってくるからでしょ! いい加減諦めて帰ってよ!」

「いや、俺はただ話がしたくて――」

「キーラ、このままだと邸の場所が知られちゃうよ!」


 エステルに言われてハッとした。必死になって逃げていたから気づかなかったが、随分と森の奥深くまで来てしまっていた。このまま彼に追って来られると、邸の場所が特定されてしまう。何としてでも回避しようと、私は一際大きく右手を頭上に掲げて円を描く。蔓はより複雑に、より強固に絡み合って道を閉ざした。


「これなら、追って、こられないでしょ……」


 無意識に漏れ出た声は、思っていた以上に息が上がって掠れていた。

 ここ最近は天候が悪く、家にこもって本ばかり読んでいたせいか、少し走っただけなのに肩で息をするほど疲れていた。乱れた呼吸を整えつつ、道を塞いでいる蔓の壁の様子を窺った。


「……エステル。足音、しないわよね?」

「うん、聞こえないね。なんだか、気配もなくなったような……」

「やっと諦めて帰ったのかしらね」


 このまま放っておこうとも思ったが、初めて私の魔術が効かなかった男だ。本当にいなくなったのか、この目でしっかりと確かめてから離れようと、道を塞いでいる蔓の壁に恐る恐る近づいた。

 絡み合った蔓にそっと手を差し込み、隙間を開けて向こう側の景色を覗こうと顔を近づけた瞬間――その隙間からシュッと音を立てて何かが飛び出してきた。私はとっさに飛びのき、エステルは牙をむき出しにしてシャーッと威嚇した。


「……蝶?」

「もうっ! びっくりさせないでよね!」


 身を潜めて待ち構えていた彼が、不意をついて腕でも突き出してきたのかと思ったが、その正体は一匹の蝶だった。青みがかった銀色の翅を持つ美しい蝶で、月明りを浴びてキラキラと星が瞬くように輝いていた。蝶は私の周りを一度だけ回って、頭上に輝く月に向かって高く飛んで行った。


「気配も感じないし、諦めて帰ったみたいね」

「それにしても不思議だよね。あの人、キーラの結界をすり抜けちゃったってことでしょ?」


 エステルは不思議そうに首を傾げ、ゆらゆらと尻尾をくねらせた。確かに、それは私も気になっていた。

 日の光が届かないこの常闇の森の奥に、私が住んでいる邸がある。私のことを追い出そうとする者も少なからずいるため、街の人々が容易に立ち入れないよう、この森全体に〈幻惑の結界〉を張り巡らせてあった。この術は魔力を持たない人間がこの結界に触れると、奥に進むことができずに入り口へ戻ってしまう力がある。この結界を張って10年以上経ったけれど、街の人々が結界を越えてきたことは一度もない。結界が無効化されたのも、邸の近くまで踏み込まれたのも、私が常闇の森に住み始めて初めてのことだった。これは由々しき事態だ。


「グランフェルト伯爵……一体何者なのかしらね」

「変わった人ってことはわかったけど。でも、悪い人じゃないよね」


 エステルの一言にぎょっとして、思わず目を見開いていた。私の顔はよほど妙な顔をしていたのか、こちらを見上げたエステルも同じように目を丸くして何度も瞬きをした。


「何を見たら、あの人が良い人に見えるわけ?」

「キーラを怖がってなかったし、嬉しそうに服従したいって言ってたから」

「それのどこが良い人なのよ。ただの変人じゃない」


 グランフェルト領を治める領主が、魂を食らうと噂される魔女に服従したいなんて馬鹿げている。彼は誰かに従うというより、領民達の上に立って導かなければならない立場の人だ。

 そんな彼がなぜ、突然私の前に現れて奇妙なことを言い出したのだろう。考えられるとすれば、街の人々から「あの魔女をどうにかしてくれ!」と懇願されて近づいてきたか。きっと下手に出ることで私を油断させて、この森から追い出そうと企んでいるのかもしれない。そんな姑息な手には騙されないし、この森から出て行くつもりもない。


「キーラ。この蔓、そのままにしておくの?」

「念には念よ。明日、もっと強力な結界に張り直さなきゃ」


 指をパチンッと鳴らすと、真っ暗な森の奥へ向かって点々と蛍のような淡い光が一瞬にして灯った。一直線に邸へと続くその道標を辿って、私はその場をあとにした。

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