第3話「禍の魔女は闇夜に闊歩する」(3)
「常闇の魔女、だよな?」
「えっ……そ、そうだけど」
「やっぱりそうか! キーラ・ベルヴァータ、ずっと会いたかったんだ!」
彼は声を弾ませ駆け寄ったかと思えば、私の右手を両手でしっかりと握った。
何が起きているの? 私は常闇の魔女で、この街に住む人々は私のことを忌み嫌っている。近寄れば魂を抜かれて食われると言われ、目が合えば死霊(ファントム)に変えられると噂されているこの私に、彼は声をかけてきた上に迷いもなく触れた。
予想していなかった事態に体がまったく動かない。背筋がゾッとして、しまいには冷や汗が溢れ出した。傍にいたエステルも、今までにない事態に目を丸くして背中の毛を逆立てた。
「な、ななな、なんなのっ!」
「ずっと君を捜してたんだ」
「捜して……どうして私を?」
手を離したかと思えば、彼は素早く私の足元に跪く。胸に手をあてて見上げる様は、まるで主に忠誠を誓うその仕草そのものだった。
「俺は君に服従を誓いたい!」
「はぁ!?」
その一言で、動揺していた頭が一瞬にして冴えた。
まじまじと至近距離で見たのは初めてだけど、この男はグランフェルト領を治める若き領主ノア・グランフェルト伯爵。数年前、父親であり前領主だったナバナ・グランフェルトが引退して息子に領主の座を譲ったことは耳にしていた。彼が治める地に住んでいるとはいえ、私には一生関わりのない人物だし興味がなかったから、街のあちこちに落ちていた新聞社の号外で顔を見た程度だった。そのせいか、彼を前にしてもすぐにはわからなかった。
「どうして私があなたに服従されないといけないの?」
「えっと……俺のこと憶えてないのか? ずっと昔から知ってると思うんだけど」
眉間にシワを寄せて首を傾げる私に、彼は照れくさそうに笑みを返した。足元にいたエステルがローブをよじ登って肩までやってくると、私の耳元に顔を寄せた。
「ねぇ、キーラ。これってもしかして、口説かれてるんじゃない?」
「……いやいや、あり得ないわ」
仮にもこれが口説き文句なのだとしたら、彼は相当変わっている。そもそも現領主が忌み嫌われる私を口説くわけがない。どう考えても、何か魂胆があるに決まっている。
この街で私に近づく者は、排除しようと立ち向かってくる者以外にはいないはず。もしや私の噂を聞きつけ、この街から追い出そうと領主自ら動いたのだろうか。
「ちょっと聞くけど。服従したいって、口説いてるつもり?」
「口説いてるというか、俺の気持ちを素直に伝えただけだ。純粋に君に服従したいと思ってる」
私を見上げるその目はあまりにも真っ直ぐで綺麗で、まるで捨てられた子犬みたいに潤んでいて純粋そのもの。あくまで直感ではあったが、彼が何かを企んでいるとは思えないし嘘をついているようにも見えなかった。そうだとしたら相当変わり者だ。恐怖さえ覚えるほどに純粋だ。これは下手に関わると厄介な相手だと、私の本能が叫んでいた。
「そういう言葉は貴族のご令嬢にでも言ってあげるといいじゃない? 私は遠慮するわ」
「待て! 俺は本当に、心の底から服従したいんだよ!」
彼は素早く手を伸ばし、その場を去ろうとした私の腕をしっかり掴んで引き留めた。男に触れられたのがあまりにも遠い記憶しかなかったせいか、彼の指の感触が肌に食い込んでビリビリと痺れた。思わず「ひゃっ」と情けない声を上げて振り解いていた。
「いい加減にして! 私のこと、からかってるなら容赦しないわよ」
「からかってなんかいない! 俺は本当に――」
「私のこと知らないの? 私は常闇の魔女。関わると呪われるわよ」
「もちろん、かまわない」
躊躇う素振りを一切見せず、彼はしっかりとした声で答えた。
跪いていた彼がゆっくりと立ち上がり、私を静かに見下ろした。月明りを背負った姿は息を呑むほどに綺麗で、なぜか目を逸らすことができないほどに惹きつけられた。
「君に服従できるなら、俺は呪われてもかまわないよ」
「……わ、悪いけど、呪う時間すらもったいないわ。私は
ローブから腕を伸ばし、撫でるように左から右へと水平に空を切った。
やがて、足元に広がる私の影がザワザワと怪しくざわめきだす。ゆらりと波打ち、この地に眠る
不気味な紫紺色の光を纏った
騒ぎと混乱に紛れて再び路地へ飛び込み、右へ左へと何度も曲がって街を抜け、我が家がある常闇の森の入り口へと辿り着いた。見慣れた仄暗い入口を前に安堵し、恐る恐る街の方へ振り返った。
「久々に酷い目に遭ったわ……」
「服従したいなんて、下手すぎる口説き文句だよね。俺の女にならないか~って、偉そうに言われるよりはマシだけど」
「どっちもお断りよ」
寝覚めの悪い夢を見た後のような感覚に、溜息をついたのとほぼ同時だっただろうか。背後でガサガサと何かが擦れるような音がした。こちらに何かが迫ってくる気配を感じて、私とエステルはすぐに身構えた。じっと暗闇に目を凝らしていたその時、茂みの中からノア・グランフェルトが勢い良く飛び出してきた。
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