第5話 その声はおそらくもう、死んでいる。
「なにが聞こえた」
ジャズが流れる喫茶店の中、健斗は切り出す。
先ほどのアパートから大学に帰る途中、キャンパスで話を聞くよりも、口が硬いマスターがいるここの方が良いからと訪れた。キャリーバッグに猫を詰めて椅子の上に置く。探偵部もよく使う行きつけのお店なんだとか、揃えてあるミステリーの趣味がいいだとか。そんな説明を聞いたような気がするが、今は置いておこう。
「悪い。心配させた」
「聞こえた、それはそうだな?」
「うん。聞こえた、けど……聞こえなかった」
「なるほど、それはつまり」
他の人ならその答えにすぐ辿り着くなんてことはないだろう。やっぱり健斗は鋭い。
「声が重なっていたから、聞こえたけど掻き消された。悟はそう言いたいんだな」
「そう。俺が聞いたのは一つの声じゃなくて……、でも、おかしいだろ? あのアパートには他に人がいなかったはず。たくさんの声が重なって掻き消えるなんてあり得ない」
心の声を読む。人間が心の中で呟いたことを透き通す。
入学試験で聞いてしまう声に集中できず、合格を逃したのはその声に押し潰されてしまったから。焦る声。不安な声。どうしようどうしようもうダメだもっと勉強しておけばあいつにだけは負けたくない親に見捨てられたくない受からなかったら死んでやる……。
良いことや楽しいことばかりではない。
むしろ誰にも聞こえないからこそ、その念は呪詛のように、光を通すことのない漆黒に染め上がる。
『――――――』
「声は聞こえた。けど、あのアパートには他になにかが、いた」
「なにかって?」
「それは、わから、ない、けど」
正体は分からない。
「……に、にんげん、じゃ、ない、……かも」
「――……ふぅん?」
「分かんないんだって! なんかえっと、上手く言えないけど! なんだろ。一瞬だけバンってめちゃくちゃ声がたくさん耳に入って、何重にも重なっていて。一瞬だけ、バンって。分かんないんだよ」
初めてだ。
聞こえた声の正体が分からないなんて、初め……て、あれ。
「なにか思い出したのか?」
「ううん、いや、ごめん。違くて」
――前にこれと同じことがあった、ような……。
「あ、でも、いまのとは違うはずだから気にしないで」
「なんだよ。紛らわしいな」
「あはは……ごめん。ちょっと混乱してるのかも」
「本当に大丈夫か?」
「うん。平気」
「……で、どうする? 悟が聞いたらあいつの隠してること、分かると思ったんだけどな。まさか掻き消えて聞こえないだなんて」
「健斗、やっぱり疑ってんじゃん。さっきは疑ってないとか言ってたくせに」
「……そりゃ。疑わない方がおかしい」
「で、誰なのあの人」
健斗は一瞬だけ目を逸らして、珈琲カップに目線を落とす。なにか隠し事をしているのだろうか。
健斗の声はやはり聞こえない。けれど、彼は昔から嘘が下手だ。部室に呼び込んで勧誘した時、指摘に対してカァッと赤くなったように。口では隠しても表情には出やすい。心が読めなくてもここだけは変わらない。
俺は健斗の心が読めないことを伝えてはいない。だけど、おそらく彼はそんなことは知らない。おそらく自分の心が筒抜けだと、思ってる。
俺はそれを利用する。
「健斗、俺に隠し事なんて無駄だよ?」
「……一年前、英語の試験で俺はトップだったんだけど」
「自慢かよ」
「違う。うちの学校、一年は学部で分けずにランダムで英会話の授業が割り振られるのは知ってるだろ? で、あいつ、
「逆恨み? それだけで?」
「そ。うちの学校は多いんじゃない? ずっと学年トップの成績で、それが自慢で……っていう人が入ってるわけだし。そういうのも珍しくはないけど。俺はあいつの目の敵にされてるってカンジ」
「それはまた、そっか」
なんだか気持ちは分かる。分かってしまう。
だってそれは小学校の時に健斗に抱えた思いと同じ。何度も何度も立ち向かっても叶わない相手。どうしようもなく悔しくて、……敗者だと、惨めったらしく惨たらしく突きつけられる現実に目を離したくても離せない。
「でも、――一方的に恨むのは良くない」
「……そっか。ありがと」
「あ、もしかしたら周りの声は分かったかも。聞こえた、というか、感情? 言語じゃなくて叫びみたいな、そういうのは」
「本当⁉」
「うん。抽象的で分かりづらかったけど……これは、想い、だ」
思い返せばそれは言語ではなかった。もやもやと形のないもの。
概念。声にならなかった悲鳴。
ただ感覚的になにを訴えているのかは分かる。
「……寒い、お腹すいた、痛い、苦しい」
苦痛と絶望。声を上げても誰にも助けてもらえない。いいや、自分を見つけてさえもくれなくて。生きたい生きたいと、どんなに声を上げても、声はどこにも届かない。
「死にたくない」
――きっとこの声の主は、もう。
「声というよりも」
健斗が言いたいことはなんとなく分かる。
「まだ言語が発達していない子ども?」
「それは嫌だ。それはダメだ」
「分かった。それは考えないでいこう」
「探そう。早く、助けてあげなくちゃ」
「……探す、ねぇ、?」
「う、ん」
脂汗が止まらなかった。けれどそうとしか思えなくて。
「埋めてる、んだ、たぶん。だから……」
「悟。それ以上は考えない方がいい」
「……うん。だよな」
「それより、まずは、このマシュマロちゃんを返さなくちゃ」
先ほど捕まえたチラシの猫――、キャリーバッグの中で丸まって眠ったマシュマロちゃん。本日のサークル活動の目標。佐々木さんに預ければ十万円の報酬金はめでたくこの手に渡るだろう。
「とりあえず、帰ろっか」
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