●ヴェルドーネのオベリスク

 ●ヴェルドーネのオベリスク


 私が彼と出会ったのは、王国に来て数日後のこと。

 レオネール留学相談所のナギは、言葉通りに私の衣食住を保証してはくれた。とはいえ、何の対価も払わない、というわけではない。

 ヴェルドーネ王国の生活について定期的に一定以上の枚数のレポートを書き、留学相談所からの回収人に渡すこと。それが、ナギから言い渡された留学生活保証の条件であった。

 簡単なことのように聞こえるかもしれないが、案外そうでもない。レポートの枚数を稼ぐためには、自ら進んで様々な経験をしなければネタが尽きてしまうのだ。一歩踏み出す選択をした私には、相応しい課題であるようにも思えた。

 異世界留学への扉を開いてこの世界へ来てから、じわじわと、元の世界に残してきた親しい人々を思って胸が冷える思いがする。今更なのは自覚があるが、日常を変える決断へ踏み出せずにいたわりに、頭のネジが飛んでいるかと思うほどに思い切りが良いのも、私の長所であり、欠点でもある。

 自らの選択には責任を持たねばならぬと、半ば開き直ってペンを手にしたものの、王国に来てから部屋に引きこもったままだった私は、その日、レポートのネタを求めて漸く街を散策することにしたのだった。


 下宿先の大家であるドーラの家は運河に面しており、手漕ぎ船が二艘すれ違える程度のそこを、行商人がたくさんの荷物を乗せて行き来している。特に早朝の時間帯ともなると、果物や肉、魚だけではなく、彩豊かな花や衣類を積み込んだ船が運河を鮮やかに染め上げる様は圧巻であった。

 大運河から荷揚げされた品々は小型の船に積み替えられ、国中に張り巡らされた大小さまざまな運河を通って小売店や市場へと運ばれていく。似たような国は元の世界の南欧にもあったが、条件が似れば異世界だろうが文化も似るのかもしれない。

 運河沿いに並ぶのは小売店やギルド、宿泊施設だけではない。飲食店も多く、店ごとに統一されたパラソルのテラス席が並ぶ。昼時にもなればどの店も賑わい、その光景だけを見ていれば、ヨーロッパ観光でもしているようだった。

 船の軌跡が水面に揺れ、乱反射した光が建物の白い壁にも水面を作る。掻き分けられた水が岸に寄せ、丸い音を立てるのが耳に心地良い。

 行き交う人々の靴底が敷き詰められた白い石畳に硬質な音を奏で、そこにテラス席の客たちが立てる陶器の触れ合う音が混じる。

 穏やかな海風がパラソルを揺らし、海鳥が羽ばたき、滑空し、運河の上を滑るように舞う。


 目に映る風景をぼんやりと眺めて歩いていた私は、何処までも運河沿いの道が続くと思い込んでいた。

 踏み出した足が、不意に地面を見失う。

 ハッと我に返った私の眼前には、鮮やかな青い海。ふわ、と内臓が浮き上がったような感覚に囚われる。

 ああ、落ちる。

 そう思った瞬間だった。


「余所見すると危険だよ~」


 若干間延びした柔らかな声がしたかと思うと、ぐいと、力強く腕を引かれ地面に引き戻される。早鐘を打つ胸を抑えて振り向けば、そこに居たのは人形かと思うほどに見目の整った長身の青年が立っていた。

 赤い瞳は左を眼帯で覆ってアシンメトリーの前髪で緩く隠し、白金の長い髪を一つに結っている。掘りは深めで肌は白く、穏やかで品の良い雰囲気を纏っていた。


「君、もしかして、ドーラの所の下宿人かな?」


 肯定と謝辞を伝えると、彼は合点がいったというように頷いた。


「この国は陸路が運河で途切れている場所も多いから、足元には気を付けて。船に巻き込まれたら大変だからねぇ」


 彼の指さす先を、多くの荷物を積んだ船が滑るように通過するのを見て、ゾッとする。元の世界のようにスクリューがついているわけではないが、それでも、追突されれば無事では済まないだろう。

 身を竦める私に一つ笑み、それじゃあ、と去ろうとする彼を引き留めたのは何の因果だったのか。振り返った彼は嫌な顔をするでもなく、穏やかな笑みを刷いて小首を傾げた。

 ナギやドーラ以外で知り合いを作る良い機会だと考えた私は、その時、無意識に女神の前髪を握りしめたのかもしれない。

 この国の名所などがあれば教えてくれないかと頼んでみると、彼は少し考えてから、案内を申し出てくれた。


「王宮、大神殿、噴水広場、あとは流行りのカフェとか、ドラゴン討伐記念のオベリスクもあるにはあるけれど、どこか希望はあるかい?」


 ドラゴン。

 聞き馴染みのある生き物の名、けれども、フィクションでしかお目にかかったことのない生き物の名。青年の言い回しが少々気にはなったものの、ドラゴンへの強烈な好奇心が違和感を消した。

 冷静になって思えば、万が一にも私の想像するドラゴンが実在するのなら、とんでもない脅威なのだが、ライオンや虎といった猛獣ですら脅威を実感するのが難しい環境下で育ったのだ、野次馬程度の感覚しかないのは致し方ないと言い訳をしたい。

 ドラゴンが実在したのかと問うてみれば、青年はやや驚いたような表情を浮かべ、次いで頷いた。


「今は絶滅したはずだけれど、16年前までは確かに存在したよ。では、オベリスクに案内しようか。ついておいで」


 陽光を受けて輝く白金の髪を翻し、青年が歩き出す。

 この時の私は、何の考えもなく好奇心だけで彼の背を追った。

 踵を返す一瞬、前を行く青年の表情が曇ったことにも気付かないままに……

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