●二枚目の扉は猫を殺すか
●二枚目の扉は猫を殺すか
今、その瞬間に決断しなければ二度とできない経験があるとする。
強烈な興味を引く未知の扉、慣れた日常へ戻る扉。どれだけの人間が、どれだけの割合で、どちらの扉を選ぶのだろう。
「レオネール留学相談所はね、必要としている人がいる世界、時間、場所に繋がるの。とは言っても、必要としている人が一人とは限らないから、扉を開くのは早い者勝ちかしらねえ」
つまりは、たまたま私が相談所の扉を開いてここに居るが、別の誰かが先に開いていたら、私は相談所の建物すら見つけることはなかった、ということらしい。
ナギの言うレオネール大陸とやらに、来訪者が留学してもしなくても、チャンスは一度きり。まさに、幸運の女神には前髪しかない、である。逃せば二度と掴むことはできない。
都合の良い話だと思う反面、好奇心を満たす未知の可能性を捨てきれずにいた。
「信じるも信じないも自由よう。あなたが留学に求めるものがここに無いのなら、元来た扉から出て行って構わないわ」
私が留学に求めるものは何だったか。語学力を磨くだけならば、今の環境でも自分の努力次第で何とでもなる。ナギが問うているのは恐らく、もっと本質的なことだろう。
環境を変えたいとか、スキルを増やしたいとか、様々な経験をしてみたいとか、きっとそういうことではなく、もっとずっとシンプルなこと。
現状の私は、何かと理由をつけて立ち止まり、もっともらしく否定することで自分の矜持を守り、高い壁を超えようと足掻く前に不可能だと背を向ける。たった一歩前へ踏み出す勇気が、今の私にはない。
そういうことかと一人頷けば、答えを見つけた私の様子に一つ笑み、ナギはカウンター奥の扉の前へと私を招いた。
彼女の手がそっと、鈴蘭の花束のような形をしたノブを示す。
「進むのならば、こちらから。あなたの望みに相応しい留学先に繋がるわ。どこへ出ても、レオネール留学相談所が責任を持って衣食住も帰還も保証するわよう」
ナギを信じたわけではない、と言いたいところだが、好奇心に負けて二枚目の扉の前に佇んでいるのだ。全てが作り話でも、今更だろう。
ここまででも十分に、自分が自分に何を求めているのか見つめ直すことができた。それだけでも収穫だ。
しかし、目の前の扉を開いた先にもしも本当に異世界があったら。
もしも真実なら。いやまさか。
矛盾する思いを抱え、最終的に私が出した答えは、”一歩を踏み出す”であった。
ちらりとナギの微笑を見やり、ノブに手を伸ばす。
鈴蘭型のノブを握り、ゆっくりと扉を開いた。
「あなたの勇気に敬意を、あなたの決断に祝福を。人生を変える一歩はあなた次第。素敵な異世界留学になることを、レオネール留学相談所は心からお祈りしているわよう」
開いていく扉の隙間から、光が溢れだす。
ふわりと流れ込んできた微風は爽やかな海の香りを孕み、向こう側の音がフェードインで私の耳に届き始めた。
扉の先に何かがある。どこへ繋がっているのだろう、この先に何があるのだろう。
途中で止めて扉を閉めるという選択肢も、後に思えばあったのかもしれない。しかし、ナギの優しい声を背に受けて、私は完全に扉を開いた。
その瞬間。
強風に押された時のような感覚。
そして私は、見知らぬ場所に佇んでいた。
抜けるような青空に映える白い建物が幾重にも連なり、降り注ぐ光を受けた運河を船が行き来する。ぼんやりと佇む私の横を明らかに日本人ではない人々が往来し、活気のある商店街に来た時のような威勢の良い商人たちの声が響いていた。
ハッとして振り返るが、確かに先ほどまで居たはずのレオネール留学相談所はどこにもなく、つい今しがた開いたはずの扉すら消えている。
スッと、心臓が冷えたような感覚に陥った。
流石に何が起こったのか理解が追い付かずに、地に足のつかないような、じわじわと蝕むような不安が全身に回り始める。
今更後悔しても遅い。あり得ないことが、今、目の前で起こっている。
知らず知らず呼吸が浅く早くなり始めた頃、不意に、肩を叩かれた。
「ようこそヴェルドーネ王国へ、留学生さん」
振り返った私の視界でナギが微笑んだ。
こうして、私の異世界留学生活が始まった。
思いがけず長期にわたりこの地で暮らすことになるとは、この時は想像もつかなかったが。
突然迷い込んだ異世界で、私は様々な人々と出会い、一人の一般人としてヴェルドーネ王国の歴史に関わっていくこととなる……
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