第17話 修太郎の覚悟


「………」


 沈黙。

 この広い屋敷の中の、全ての音が奪われたかのような重い沈黙が訪れた。

 永遠のような無音。

 俺はその間、頭を下げ続けた。


「……わ、悪いのは」


 やがて、梨乃が口を開いた。

 声が震えている。


「夏前さんの方でしょ? 『結婚ごっこ』は、彼女の方から誘ったって、そう聞いているわ? 確かに、その関係を受け入れたシュウ君の責任もあるけど、私は――」

「違うんだ、梨乃」


 俺は、自分の正直な気持ちを告げる。


「梨乃には悪い事をした。婚約を結んだ梨乃に、不義理な関係を築いて裏切っていた。蜜香に誘われたからって、それを受け入れたのは俺が本心から望んだことだ。全て、全て、俺が悪い。悪いのは、わかってる」


 でも――と、続け。


「それでも俺は、蜜香を救いたい」

「………」

「それは、蜜香に救われたから、その恩返しだとか、そういう意味じゃない。俺が望んでるんだ。俺自身が、蜜香を一番に想っている証拠なんだ。そして、そうなんだと胸を張って言いたいんだ」


 だから、ごめん。

 俺は、梨乃に言う。


「俺は、蜜香と一緒に居たい。梨乃とは、一緒に居られない」

「……シュウ君」


 迷って、迷って、迷い続けて。

 結局こうなるなら最初からそう言えよと、きっとそう思われるだろう。

 でも、こうならなければ、俺はこの覚悟を抱くことはできなかった。

 それは、この選択が取り返しの付かない事だと、よくわかっているからだ。

 梨乃と婚約を結んだ初期の頃、何度も頭の中に過ぎり、でも、家族や胡桃のことを考えて、選べなかった選択肢。

 そんな選択肢を選んでしまったという自覚は、当然ある。

 梨乃を裏切った上に、更にプライドを傷付けるような事をしている。

 どれだけ謝っても、絶対に許されることはないだろう。

 それでも、俺は自分の気持ちに正直であろうと思った。

 蜜香のために、この道を進みたいと思った。


「シュウ君、自分が何を言っているのかわかってるの?」


 梨乃が、低く重い声を発した。

 その眼光が、鋭く、重く、険しくなっていく。

 ああ、あの頃の、厳格さを武装した梨乃だ――と思った。

 この梨乃には、今まで何度も言い負かされてきた。

 トラウマだろうか……息苦しさも覚える。

 それでも、ここから全てが始まるのだ。

 立ち向かわないといけない。


「一時の感情に身を委ねているのだとしたら、愚かな選択よ?」


 梨乃は言う。

 冷静で冷酷な口調。

 東城家の、酷薄な令嬢の口調。


「あなただって、わかっているはずよ。その選択をすればあなたの大切な人達に迷惑がかかる。怒らせる人間も、何人もいるということを」

「……わかってる」

「いいえ、わかってないわ」


 梨乃は断定的な口調で、責め立てるように言う。


「シュウ君、今なら聞かなかった事にしてあげる。もう一度、よく考えて」

「………」


 梨乃の言葉は適格だ。

 更に、過去のトラウマを想起させられて、俺は自分の方が間違っているのではないかという疑念に襲われ掛ける。

 もしかしたら、俺は。

 ここまで来て俺は、また間違ってしまっているのでは。

 判断を誤っているのでは。

 そんな思考が、脳内に靄のように掛かり始める。

 心が、ざわつく……。


「修太郎!」


 その時だった。

 背後から聞き覚えのある声が聞こえた。


「蜜香、お前……」


 蜜香だった。

 先程、部屋に置いてきたときと同じ制服姿の蜜香が、汗だくで息を荒げながら現れた。


「起きたら修太郎がいないし、『明日の朝には戻るから』って書き置きだけ残されてるし! きっと、ここだと思って、急いでタクシー呼んで来たの!」

「なんで汗だくなんだ?」

「途中でお金が足りなくなったから、そこからは走ってきた! 五キロくらい!」

「お前すげぇな!」


 それでこの短時間でよく辿り着いたな。

 流石、蜜香である。


「修太郎! ごめん!」


 駆け寄ってきた蜜香は、俺の胸に抱きついて叫ぶ。


「ごめんなさい! アタシ、アタシ馬鹿だった! 何であんな事!」


 泣きじゃくり、自身の犯し掛けた過ちを、彼女は必死に悔いる。


「ごめん! 梨乃さんに挑発されて! なんだか、全部怖くなって! アタシ、アタシ……」

「蜜香」


 俺は、そんな蜜香の頭に手を置き、もう片方の腕を背中に回す。

 抱き締めて、頭を撫でる。


「泣くな、わかってる」

「……もういいよ、修太郎」


 蜜香は、ぐずりながら言う。


「修太郎が今やろうとしてること……色んな人達に迷惑掛ける。きっと、修太郎が一番苦労する……」

「それでいい」


 蜜香の体を離し、彼女の顔を見る。

 涙と汗と、鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を見て、俺はおかしくなって笑った。

 愛おしい蜜香の顔だ。


「お前のおかげだ」

「……修太郎」


 そして、俺は今一度梨乃に向き直った。

 決意は変わらない。

 何なら、蜜香が来てくれたおかでより強くなった。


「梨乃……さっき、俺の判断は、多くの人間を怒らせる、大切な人間に迷惑を掛けるって言ったよな?」

「ええ、その通りでしょう? あなたの家族は――」

「もう、掛けた」


 その言葉に、梨乃は目を見開いた。


「まさか……」

「ああ」


 俺は言う。


「梨乃との婚約を破棄したいって話は、もう俺の家族に話してある。無論、『結婚ごっこ』のことも含めてな」

「……え」


 一瞬の間。


 その直後。


「ええええええええええええええええ!」


 顔を真っ赤にして、声を上げたのは蜜香だった。

 まぁ、そういう反応になるよな……。




 ■□■□■□■□




 蜜香と霧晴さんをくっつけようとして、後悔したあの日。

 実のところ、あの日から俺は既に行動を開始していた。

 もう、蜜香の傷付く顔を見たくない。

 行き場のない袋小路。

 その行き止まりの壁に穴を空けるため、俺は拳を打ち付けることにした。

 俺がまず真っ先に話をしたのは、両親だった。

 基本は会社の仕事で家を空けることの多い二人に無理を言って、自宅に帰ってきてもらった。

 大切な話があるからと言って。

 そして、俺は梨乃との婚約破棄を希望する事。

 蜜香を好きな事。

 加えて……蜜香との間に『結婚ごっこ』という関係を築いていた事まで、洗いざらい吐いた。

 クソ恥ずかしかった。

 でも、それは俺達の互いの思いを伝えるためには、仕方がない……いや、一番強く伝わる事だと思ったからだ。

 当然、俺の親父もお袋も驚いていた。


『母さん……』

『お父さん……』

『若いな……』

『若いわね……』


 二人は顔を見合わせ、そんなコメントを交わしていた。

 ……死ぬほど恥ずかしい。

 二人とも『結婚ごっこ』に興味を引かれている様子だったが、それよりも何よりも、問題なのは梨乃との婚約を破棄する方だ。

 それは東城家に対する不義理でもあり、会社の運営を支援してもらった恩にも背く形となる。

 どんな報復が待っているか……。


『賛成よ!』


 しかし、その時だった。

 家のリビングで話し合っていた俺達のもとに、胡桃が割って入ってきたのだ。


『婚約破棄、賛成!』

『胡桃……』

『それに、お兄ちゃんが蜜香さんと付き合うのも賛成!』


 胡桃は、そう言った。


『だって、行く行くお兄ちゃんが蜜香さんと結婚したら……蜜香さんが、私のお姉ちゃんになるってことでしょ!』


 そう、興奮気味に言っていた。




 ■□■□■□■□




「胡桃、蜜香のことが大好きだからな」

「え、そうだったの!?」


 俺が言うと、蜜香は驚いたようなリアクションを見せた。

 胡桃は昔から、よく遊びに来る蜜香のことが好きだった。

 スポーツ万能で溌剌として、美人なお姉さんだ。

 成長するにつれ、強い憧れを抱くようになったのだという。

 しかし、恥ずかしくて普通の態度で接することができず、それをいつも気にしていた。


「嘘……アタシ、てっきり敵視されてるとばかり……胡桃ちゃん、修太郎のことが大好きだと思ってから……」

「まぁ、あいつツンデレだしな」

「そのツンデレ、アタシに対してだったの!?」


 胡桃は、俺の味方になって両親に熱弁した。

 そんな後押しもあり、親父もお袋も、俺の思いを汲んでくれたようだ。


『わかった』

『わかったわ』


 穏やかな表情で頷いた二人は、俺に言う。

 元より、家のことで俺の人生の大切な選択を決めさせてしまったことに、後ろめたさを覚えていた。

 そんな俺から逃げるように、家にも帰らず朝も昼も夜も働いていたのは、罪滅ぼしに近い感覚だったのだろう。


『どんな結果になろうと、俺達はお前の味方だ』

『ええ、蜜香ちゃんを、幸せにしてあげなさい』

『親父……お袋……』

『ところで、修太郎……『結婚ごっこ』についてもう少し詳しく話してくれるか?』

『ん?』

『そうね、一体どんな事をしたの?』


 ……まぁ、仕方がないといえば、仕方がないのだが、俺はその後両親に『結婚ごっこ』の詳細を語った。

 話を聞いた父と母は、なぜだかほくほくした様子だった。

 なんなら、『『結婚ごっこ』、俺達もやってみようか?』『もう、お父さん。私達はもう夫婦なんだから……するなら、『新婚ごっこ』でしょ?』と、なんだか仲良くなっていた。

 ……この両親あっての俺なんだと、改めて思った。


「ともかく、そんな感じで家族への説得は済んだ。そして、次に話し合うべき相手は――梨乃の親父さんだと俺は思った」

「お父様に……?」


 梨乃は驚いている。


「ああ、だから俺と話ができないかアポイントメントを取ってもらってた」

「そんな、私に内緒で、どうやって……」


 そこで、梨乃がハッとした顔で横を見る。


「わたくしが間に入りました」

「千雪……」

「そして、今日……俺は、梨乃の親父さんにお会いする予定だったんだ」


 瞬間、梨乃が振り返る。

 屋敷の奥から、一人の男性が現れた。

 皺の深い顔に、白髪の交じった髪をオールバックにし、口ひげを蓄えた、厳めしい雰囲気の人物。

 梨乃の親父さん……いや、正確には祖父だが、親父さんという立場には違いないのでそう呼ぶ。


「お、お父様……」


 梨乃の呼吸が乱れる。


「電話でも既にさわりは聞いていたが……間違いはないのだね、修太郎君」

「はい」


 威厳のある声で、親父さんは言う。

 俺は彼に言う。

 そして梨乃にも言う。


「梨乃、俺は蜜香が好きだ。梨乃の隣には、居る事ができない」

「嘘……」


 その言葉を、再び聞いた梨乃は。


「嘘よ……」


 梨乃は、首を強く横に振り、必死に否定する。

 先程までの厳格さが、冷酷さが、嘘のように、取り乱しているように見える。

 ……なんだ?

 何か、少し、おかしい。


「嘘よ、シュウ君、嘘って言って。婚約を破棄して欲しいなんて、嘘よね?」


 俺は何も言わない。

 真っ直ぐに梨乃を見詰める。


「言って、夏前さん。遊びだって、ごっこだって、偽物だって」


 続いて梨乃は、まるで縋り付くように蜜香へと言う。

 蜜香も、何も言わない。


「梨乃、俺は……俺達は本気だ。俺は梨乃と――」

「いや!」


 拒絶するように、梨乃は耳を塞ぐ。


「聞きたくない! そんな答え、聞きたくない!」


 その様子は、まるで駄々をこねる子どものようだ。

 動乱し、俺の返答を受け入れられないとでもいうように。

 やはり、おかしい。

 一体、梨乃は何をそんなに恐れて――。


「そこまでです」


 その時だった。

 千雪さんが、口を開いた。


「そこまでです、お嬢様」

「千雪……」


 梨乃は、涙に濡れた目を千雪さんに向ける。


「あなた、私の味方じゃないの?」

「……わたくしは、あくまでも中立です」


 千雪さんは、苦しそうな表情を浮かべている。


「お嬢様のお力には成ります。ですが、過度な肩入れはできません」


 俺が、千雪さんを通じて梨乃の親父さんへのアポイントメントを希望した事を、千雪さんは梨乃に黙っていた。

 けれどそれはそれとして、俺を眠らせてスマートフォンの中身を探る作戦には協力した。

 それが、千雪さんのポジションなのだろう。


「梨乃」


 その時だった。

 エントランスの奥から現れた人物が、そう声を発した。

 誰であろう――霧晴さんだった。

 その姿を見て、梨乃は更に悲しげな表情になる。


「霧晴さん……」


 か細い声音で、梨乃は彼の名を呼んだ。

 霧晴……“さん”?

 梨乃はいつも、『霧晴兄様』と呼んでいたはず……。


「ご説明いたします、修太郎様、夏前様」


 千雪さんが、俺達に向き直り言った。

 梨乃は全てが終わったというように顔を俯かせ、こちらを見ていない。

 息を呑む俺達を前に、千雪さんは続ける。


「まず、あのお方の本当の名前は、佐神さがみ霧晴様」


 千雪さんは、霧晴さんを見て言った。


「お嬢様の許嫁、本当の婚約者です」

「説明しても構いませんね? お父さん」


 霧晴さんは、梨乃の親父さんに言う。

 親父さんは、目を瞑って深く頷いた。

 霧晴さんは、梨乃に歩み寄る。


「ルールはルールだ、梨乃。修太郎君は君に、『婚約を破棄してくれ』と、ハッキリと言った」


 霧晴さんは視線を落とす梨乃に、辛そうな表情を向ける。


「梨乃、修太郎君との『婚約ごっこ』は、もう終わりだ」

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