第16話 以心伝心

『夏前さんはもう、一生シュウ君の偽物しか手に入らない』


 ………。

 逃げ出して、走って、でもどこに向かって走っていいのかわからなくて、部活になんていけないし、結局走ったって何も意味は無くて。

 ふと、蜜香は立ち止まった。

 どこかの歩道だった。

 車も通行人も見当たらない。

 街灯の明かりも無い。

 純然な夜の闇の中で、蜜香はただ一人、立ち尽くす。

 ………。

 認められてしまった。

 梨乃に、修太郎との『結婚ごっこ』を肯定されてしまった。

 それは遊びなんだと。

 偽物なんだと。

 なんだ、そんなくだらないもの――ご自由にどうぞ、と。

 まるで、真剣に熱中し、心を込めて作った工作を、『何そのガラクタ?』と一蹴されたような――心細さと絶望感が心を満たす。

 これから、修太郎と何をしていても梨乃の顔がちらついてしまう。

 あの、勝ち誇った顔が、所詮全部偽物だと、全部遊びでしかないと。

 残飯を美味しそうに漁る野良犬を見るように、嘲笑ってくる。

 くやしい。


「嫌だ……」


 修太郎が好きなのに、本気なのに。

 所詮、全部偽物で、本物は梨乃との方ばかり。

 修太郎が梨乃と手を繋いでいるのが嫌だ。

 腕を組んでいるのだって嫌だ。

 一緒に遊んでいるのも嫌だ。

 微笑み合っているのも嫌だ。

 本気で愛している人に向ける笑顔を、向けているのが嫌だ。

 でも、その未来はいずれやって来る。

 結局自分は遊び相手で、修太郎とは偽物で。

 本物は全部、いずれ梨乃に奪われてしまう。

 息が荒れる。

 欲しい、欲しい、自分だけの、梨乃にも手に入らないような、修太郎の“本物”が欲しい。

 ただ一つ、修太郎にとっての唯一になって、いつまでも心に残り続ける何かが欲しい。

 でも、何が――。


「あ」


 そこで、蜜香は以前、修太郎と交わした会話を思い出した。

『子作りごっこ』の話題が出た時、修太郎の家で交わした会話の一幕。

 修太郎が、最終的な行為に至るのはやめておこうと提案した後に、こんな会話をしていたのだ。


『でも正直、修太郎、どうなの?』


 そういう行為は万が一を考え止めておこうと同意した後、蜜香は修太郎に尋ねた。


『性欲とか、溜まったりしないの? 我慢してない?』


 そう問うと、修太郎は動揺しながらぽつぽつと呟いた。


『んー……そりゃそうだが……なんつぅか、俺にとって蜜香とそういう行為をするっていうのは……結構、重要に思ってる部分があるっていうか』

『え?』

『いや、なんだ、こんな言い方するとアレだけど……』


 修太郎は、恥ずかしそうに頬を染める。


『別に俺だって性欲が無いわけじゃないし、そういう欲求は十分ある。でも、例えば他の誰かとそういう行為に至るのと、蜜香とするのじゃ、自分の中で抱える思い出としての重さが違うっていうか……』

『……修太郎』

『つまり、蜜香とそういうことをするのは、俺にとってそれくらい重要で、大切にしたいって事なんだ』


 その修太郎の言葉は、蜜香にとって嬉しかった。

 胸が高鳴った。

 そうだ。

 修太郎の本物。

 自分にだけ手に入れられる本物。

 あった。




 ■□■□■□■□




 自宅へと帰ってきた後、一人過ごしていた俺のところに突然、蜜香が訪ねてきた。

 まぁ、蜜香がいきなり俺の家にやって来るなんて珍しいことではないのだが。


「どうした? 蜜香」


 玄関で蜜香を出迎える。

 蜜香は、少し強張った顔をしているように見えた。

 でも、俺の姿を見ると普段のような笑顔を浮かべる。


「修太郎、今日、一人? 家族は?」

「みんないねぇ、俺一人の居城よ」


 両親はいつも通り仕事。

 胡桃は別の階の友達の家に遊びに行っている。


「ふぅん、上がっていい?」

「ああ、別にいいぞ」


 俺は蜜香を家に上げ、一緒に自室へと向かった。


「そういやぁ、蜜香。お前、今日部活に来なかったって聞いたぞ?」


 俺は、床の上に広げていた漫画雑誌や服やらを片付けながら言う。


「霧晴さんから連絡が来たんだ。ちゃんと顔出したのか?」

「修太郎」


 俺は顔を上げる。

 蜜香が、俺を真剣な顔で見ていた。


「……蜜香?」

「ねぇ、修太郎」


 蜜香が、俺の名を再び呼ぶ。

 呼びながら、一歩近付く。


「ど、どうした? 怒ってんのか?」

「……うん、アタシ、怒ってるんだよ?」

「なんで……」

「東城先輩のこと」


 蜜香は、呟くように言った。


「霧晴さん? ……俺が、蜜香に黙って、勝手に霧晴さんとの仲をくっつけようとしたことか? いや、アレは本当に……」

「それもある。けど、あれはもういいよ。修太郎、ビンタ受けてくれたから」


 そっちじゃなくて……と、続ける蜜香の顔は、どこかほんのりと上気しているように見える。


「あの時の、修太郎の言葉」

「俺の言葉?」

「アタシのこと、凄く求めてくれた言葉」


 蜜香の隣に霧晴さんが居ることが耐えられない。

 俺の隣で笑っていて欲しい。

 俺は確か、そんなような事を言った記憶がある。

 ……ちょっと思い出すと小っ恥ずかしいが。


「あんな事言われたら……アタシ、我慢出来ないよ」

「蜜香?」


 蜜香は、更に俺に迫る。

 そして、俺の両腕を掴んだ。


「みっ――」


 そして、押し倒される。

 蜜香の想像以上に強い力で組み伏せられ、ベッドの上に背中から落ちる。


「おい、蜜香……」


 至近距離に迫った、蜜香の顔。

 整った顔立ち。

 意外と長い睫。

 桃色の唇。

 濡れた瞳。

 それらを目の前にし、俺も思わず顔が熱くなる。

 心臓が早鐘を打つ。


「しよう、『子作りごっこ』」


 蜜香の唇が動き、吐息混じりにその言葉を口にした。


「いや、蜜香、それは……」

「好き、修太郎」


 蜜香が、俺の首に顔を埋めてきた。

 柔らかく湿り気のあるものが、首筋に触れる。

 そして、強い力で吸い付かれた。


「蜜香! ちょ、ちょっと待て」

「好き、好きだよ、修太郎、大好き、アタシだけを、アタシだけを見て」

「蜜香、落ち着こう。な、一旦、まず」

「好き、好き、修太郎、すき、すき、しよう、しゅうたろう」


 蜜香は、うわごとのように俺の名前を呼び続ける。

 そして、好きと言い続ける。

 俺しか見ていない。

 それ以外の何もかもから目を逸らしているようにも見える。

 枷の外れた蜜香は止まらない。

 俺の首筋に吸い付き、続いて耳元に唇を近付け、耳たぶを口に含む。

 俺の背筋にしびれが走り、思わず腰が浮く。

 蜜香は俺の耳たぶを舌の上でころころと転がし、甘噛みし、耳の穴に舌先を突っ込んできた。

 蜜香の息遣いと、粘ついた音が耳腔を支配する。


「蜜香……」

「んふふ……いつもアタシのもうそうのなかで、しゅうたろうがしてたこと、おかえし」


 抗おうとする俺の手を、蜜香は掴んで離さない。

 俺の手に自分の手を重ねて、指と指を絡めて、ギュッと握り絞めて捕まえている。

 凄い力だ。

 動きを封じられた俺は、迫り来る気持ち良さに耐えるようにギュッと目を瞑る。

 すると、蜜香の髪の匂いが、爽やかなシャンプーの香りが、鼻腔をくすぐる。

 全身の自由が、蜜香に奪われる。


「しゅうたろう、かんじてる?」


 しばらく俺の耳を舐めていた蜜香が、体をびくつかせている俺に気付き、甘い声を漏らした。


「……うれしい、アタシでかんじてくれてるんだ、しゅうたろう、かわいい……すき」

「蜜香……」

「アタシ、しゅうたろうにキスされるの、すきだった、しゅうたろうとのキス、きもちよかったよ……」


 蜜香の唇が、遂に俺の唇に重ねられた。

 それだけでなく、自身の唇で俺の下唇を挟み、悪戯するように摺り合わせてくる。

 くすぐられているような、ねぶられているような……ともかく、狂おしいほどもどかしい。


「きもちよくなってくれて、うれしい……アタシ、しゅうたろうのなかのきもちいいおもいででいられるよね……」

「……蜜、香」


 俺は、乱れた呼吸の狭間で蜜香の名前を呼ぶ。


「しゅうたろう……」


 俺の左手を握り混んでいた、蜜香の右手が離された。

 その指が、細くしなやかな指が、俺の胸に触れる。

 薄いTシャツしか着ていない俺の胸先に触れ、つつぅ……と腹筋の方へと向かい、脇腹を撫で……。


「わぁ……」


 俺の太ももの間に至ったところで、蜜香は喉から歓喜の嬌声を漏らした。


「しゅうたろう、これ……アタシで、こうなってくれたの……」

「………」

「すごい、あつい……うれしい、すごくうれしいよ、しゅうたろう、アタシ……」


 蜜香は、それ以上声を作れず息を着いた。

 乱れに乱れた呼吸のリズムを、もう自分でもコントロールできていない。

 俺の上に乗った蜜香の全身が、火のように熱い。

 部屋の中が、くるいそうなほどの熱と湿気で満たされている。


「しゅうたろう、しゅうたろう……」


 蜜香は、自身の胸を俺の体に乗せる。

 形の良い乳房が、俺の体の上で潰れる。

 両足が、俺の太ももを挟み込む。

 下腹部を、腰の出っ張った骨のあたりにこすりつけてくる。

 今までの人生で、蜜香から一度もされたことのなかった行為の数々。

 これが、蜜香の本気の求愛行動なのかもしれない。


「蜜香……」

「しよう、ね、しゅうたろう、だいじょうぶだよ」


 浅い息遣いの狭間から、蜜香は俺を求めてくる。


「あんぜんびだから、きょう、だいじょうぶ、ちゃんとかくにんするようにしてたんだ。ね、いいよね、しゅうたろう」

「蜜香……」

「アタシのしょじょ、あげる。しゅうたろうのはじめて、ちょうだい」

「蜜香……」


 俺は――。

 俺はその時、蜜香の目を見ていた。

 いつも晴れ渡った青空のようだったその目の奥に、今は暗い何かが沈んでいた。


「蜜香……お前、辛いのか?」


 俺は言った。

 蜜香の息が止まった。


「苦しいのか?」

「……なんで、そうおもうの?」

「わかるよ」


 俺は、自由になった左手を持ち上げて、蜜香の頬を撫でる。




「俺達、以心伝心だろ」




「―――」


 その言葉を聞いた瞬間、蜜香の目の奥で、光が明滅した。


「……アタシ、何してるの?」


 正気を取り戻したように、蜜香は呟いた。

 しかし、直後。


「いや……」


 そんな正しい感覚を嫌がり、振り払うように、蜜香は頭を振って俺の服の裾に手を掛けた。


「落ち着け、蜜香!」


 やはり、蜜香の様子はまともじゃない。

 俺は多少乱暴だとは思いながらも、もう片方の手も振り払い、蜜香の肩を掴んだ。


「いや! 離して!」

「『子作りごっこ』ってお前……本当に子どもが出来たらどうするんだ」

「……産む」


 蜜香は、ハッキリそう言った。

 もう、こんなことを口にしている時点で、今の蜜香が完全に常識も理性も失っているのは明らかだ。


「蜜香、お前……自分が何言ってるのかわかってんのか?」

「欲しいよ……修太郎」


 ぽたり、と、俺の頬に落ちたのは、蜜香の涙だった。


「私にも、修太郎の本物が欲しいよ」


 瞬く間に、蜜香は嗚咽を漏らし始める。


「なんで。なんでなの。アタシの方が好きなのに。アタシの方が絶対に、修太郎のこと好きなのに。嫌だよ。なんで、なんで」

「蜜香……」

「嫌だよ、修太郎。アタシ……もう死んじゃいたいよ」


 ……子どものように泣きじゃくりながら、蜜香は言った。

 それは、かつて俺が蜜香に零した弱音と同じだった。


「蜜香……何があったんだ」


 俺は、泣き崩れる蜜香をベッドに座らせ、背中をさする。

 涙が、辛さが収まるまで、いつまでも。




 ――そして、俺は蜜香の身に何があったのかを聞いた。



 ■□■□■□■□


「………」


 ベッドの上で、蜜香は泣き疲れて眠ってしまった。

 その額を、俺は撫でる。


『修太郎のバカ!』


 いつの日か、蜜香に言われた言葉がリフレインする。

 ああ、バカだった。

 俺は本当にバカだった。

 俺の好きな女の子を、こんな風になるまで放っておいたなんて。

 事態は袋小路に陥っている。

 なんとか、この状況を打破する方法はないか。

 そう試行錯誤している内に、俺の知らない場所で蜜香と梨乃がぶつかり合っていた。

 そして、蜜香は苦しんでしまった。

 痛んでしまった。


「………」


 俺がすべき事は何か、これがそうなのか、これが正しいのか……それはわからない。

 でも、俺の手の中ですぅすぅと寝息を立てている蜜香が、次に目を覚ましたとき、最初に抱くのが絶望した気持ちであるという――そんな現状を破壊したかった。


「覚悟を決めろ、大日向修太郎」


 そして、俺は行動を開始する。

 蜜香を自室で寝かせたまま、机の上に書き置きだけ残していく。

 梨乃にメッセージを送り、返事を待たずにタクシーを呼ぶ。

 マンションの前でタクシーに乗り、しばらく走った後――。

 俺が辿り着いた先は――東城家だった。

 玄関先で名乗ると、俺のことを知っている使用人が中に迎え入れてくれた。

 俺は、ずっと蜜香に甘えていた。

『結婚ごっこ』を提案した彼女に助けられ、こんな綱渡りの関係を築いている事を『遊びだから』と言って説得され、彼女にずっと負担ばかりを押しつけていた。

 その負担の責任は、俺が取る。


「どうしたの? シュウ君、こんな夜に」


 東城家のエントランスで梨乃が出迎えてくれた。

 カーディガンを羽織り、髪を下ろしている。

 傍には千雪さんも控えている。


「梨乃」


 俺は言う。


「蜜香から、話を聞いた」

「………」


 梨乃は驚き、目を見開いている。

 まさか、蜜香が俺にその一件を話すとは思っていなかったのかもしれない。

 俺には黙って、二人の間で戦って終えようと――梨乃は、そのつもりだったのだろう。


「そ、そう」


 俺の言葉に、梨乃は視線を泳がせながらも平常心を保とうとしている。


「シュウ君、その話は、もう少し落ち着いた後にシュウ君にも直接しようと――」

「ごめん」


 俺は頭を下げた。

 そして、何よりもまず先に、俺の想いを伝えた。




「梨乃、俺達の婚約関係を破棄して欲しい」



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