第15話 本物と偽物

 梨乃の記憶の中には、常に大日向修太郎の姿があった。

 周囲に馴染めなかった幼少時代。

 友達と呼べる存在のいなかった孤独な梨乃に、さも当たり前のように触れてきた修太郎。

 心の中に土足で踏み込んでくる、でも、梨乃にとってはその力強さが魅力的だった。

 そんな彼の理想通りになれない自分に嫌気がした。

 両親を失い、あれよあれよという内に自身の出生の秘密を知り、東城家へとやって来た激動の時代。

 東城の一員になるため、祖父から厳格な教育を授けられた。

 過酷な環境、その中で、頭の中には修太郎の面影だけがずっと残っていた。

 もしも、この家の名に相応しい女性になれたなら。

 上品で気高く、他者よりも一段上に立てるような存在になれたなら、彼は自分を見てくれるだろうか?

 あの太陽のような少年は、自分に心惹かれてくれるだろうか?

 そう思っていた。

 そして、高校時代。

 進学した先で、梨乃は修太郎と再会した。

 運命だと思った。

 幼少の頃に憧れた人が、変わらぬ笑顔を携え、またあの日と同じように気さくに声を掛けてくれた。

 止まっていた初恋が、再び時を刻み始めた。

 今度こそ、彼の理想通りの、彼に相応しい相手になろうと思った。

 彼に近付きたくて、手に入れたくて、自分に出来る手段の全てを尽くした。

 一途だった。

 結局、彼の理想通りの女性になる……という点に関しては、若干自分が空回りをした結果になってしまったが……それでも今は、本音を語り合って、彼とはまた一から関係を築き始めている。

 絶対に、誰にも渡さない。

 自分の人生の中で、彼だけは誰にも渡したくない。




 ■□■□■□■□




「んぐ……」


 小鳥の囀りが聞こえて、俺は目を覚ました。

 朝だ。

 そして、自分が眠っている場所が自室ではなく、これまた見覚えのある東城家の客室であるということにも気付いた。

 そうだ、俺は昨夜、梨乃に夕食へ誘われた後、強烈な睡魔に襲われて……。


「申し訳ございません、修太郎様」

「うお!」


 そこで、俺はベッドの近くにメイドの千雪さんが控えている事に気付いた。


「朝食の時間に合わせ、修太郎様を起こそうとしたのですが、ぐっすりと泥のように眠られていたようで」

「は、はぁ……」


 なるほど。

 どうやら千雪さんは俺を起こすために部屋に来て、けれど全く俺が目を覚まさないため、今まで部屋の中で待機していたようだ。


「起床のベルを鳴らしたり、肩を揺すったり、鼻下に唐辛子を近付けたり、ヘッドロックや腕ひしぎを掛けてみたりしたのですが、効果は無く……」


 え? 俺眠ってる間に結構ボコボコにされてた?


「ただいまのお時間から登校の準備を始めた場合、朝食を取られている時間は無さそうですが構いませんか?」

「ああ、全然大丈夫ですよ」


 眠りこけてしまったのはこちらの責任だ。

 俺は恭しく謝る千雪さんに気にしないよう言って、学校へ向かう準備に入る。

 客室の机の上には、既に制服が用意されていた。

 どうやら、新品のものらしい。

 しかも、俺のサイズにピッタリである。

 通学鞄は、使用人が俺の家まで回収に向かったので、学校で受け渡しするそうだ。

 流石、東城家。

 本当に、至れり尽くせりである。

 俺は制服に着替え、玄関へと向かう。

 そこで、既に梨乃が待っていた。


「お待たせいたしました、お嬢様」

「まったく何をやっているの、千雪」


 梨乃は、頭を下げる梨乃に嘆息を漏らす。


「シュウ君に迷惑を掛けたわね」

「申し訳ございません」

「そんなことで私のお付きが務まると思っているの? たるんでいるんじゃないの?」

「あー、大丈夫だって、梨乃」


 千雪さんを叱責する梨乃に、俺はすぐフォローに入る。


「そもそも帰るって言ったのに寝入っちゃったのは俺の責任だ。千雪さんは時間通り起こしに来てくれたんだ。それで起きなかった俺が悪いんだし」

「でも、シュウ君、朝ご飯を食べ損なってしまったわ?」

「いいって、朝飯くらい。昨日の夜、たらふくご馳走になったんだから」

「……そう。シュウ君が気にしていないなら、それでいいわ」


 梨乃は柔らかく微笑む。


「言い過ぎたわ。ごめんなさい、千雪」

「いいえ、わたくしの責任ですので」


 仲直りした二人を見て、俺はホっとする。

 梨乃は、俺がかつて言った『クールでツンとした女の子が好み』という記憶に倣って、そういう性格を演じていた部分があった。

 しかし、それが間違いだと気付いた後の梨乃は、気位を意識しつつも物腰が柔らかくなった。

 格段に接しやすくなった気がする。


「さぁ、行きましょう、シュウ君」


 俺達は高級車の後部座席に乗り込み、学校へと向かう。




 ■□■□■□■□




 そして、時間は流れ――。

 放課後。




 ■□■□■□■□




 夕日が空を橙色に染め上げ、下校する生徒達の喧噪が遠くから聞こえてくる。


「………」


 誰も居ない空き教室の中で、梨乃は一人佇んでいた。


「えーっと、ここで合ってるのかな……失礼しまーす」


 静寂が包む空き教室の扉が空いて、一人の女子生徒がおずおずと入ってくる。

 短くボーイッシュにカットされた茶髪。

 女子にしては少し高めの背丈。

 蜜香だった。


「ここで合っているわ、夏前さん」

「あ、梨乃さん……」


 部活に行く前の蜜香を、梨乃が呼び出したのだ。


「えーっと、お話というのは……あ、修太郎はいないんだね」

「ええ、シュウ君は呼んでいないわ。夏前さんにだけ、伝えたいことだから」


 梨乃は、蜜香へ自然な様子で話を切り出す。


「ねぇ、夏前さん。最近、思うのだけど、なんだかシュウ君の笑顔を見る機会が増えた気がするの」

「え? あ、そう、かな」

「ええ、砕けた風に私に接することも増えて、なんだかとても良い雰囲気で……きっと、幼馴染みの夏前さんがシュウ君の良いお友達でいてくれているからだと、そう思って」

「え、えへへ……そうでもないですよ」


 いきなりの褒め言葉に、蜜香は照れたように笑いを零す。


「以前にも話した通り、これからもシュウ君の良い理解者でいてあげて欲しいの」


 梨乃の言葉に、蜜香は笑いながら頷く。


「うん、アタシなんかでよければ、頑張ります!」

「ふふふ、あ、そうだ、夏前さん」


 蜜香の笑顔に応えるように笑って、梨乃は言った。




「『結婚ごっこ』って、どちらから先に提案したの?」




 夕方の五時を知らせるチャイムが、茜空に鳴り響いた。

『夕焼け小焼け』。

 その音楽が響き渡る中で、梨乃と蜜香は見詰め合ったまま静止していた。

 梨乃は薄らとした笑顔を湛え、蜜香は表情を硬直させている。


「あ、え……と」


 蜜香が、やがて口を開く。


「な、ええと……何? 『結婚ごっこ』って……あ、子どもがよく遊びでやるやつ?」

「またまた、誤魔化しちゃって」


 梨乃はおかしそうに笑う。


「あなたとシュウ君が私に隠れてやっていた事でしょ?」

「………」


 ハッキリとそう言われ、蜜香の顔が青ざめていく。


「違和感があったの。あなたのシュウ君に対する接し方。どう考えても、ただの仲が良い幼馴染みのそれというには、ちょっと度が過ぎていたわ。シュウ君は、あなたらしい単なる悪戯だと言っていたから、そういうものだと納得していたけど、まさかこんな事を隠していたなんてね」

「………」

「あなた、婚約者のいる男性に近付いて、まるで愛する者のように、夫婦のように振る舞う遊戯をしていたのね。それって、私は不健全だと思うのだけど……これ、私が間違っているのかしら?」

「………」

「もしもし、蜜香さん? 質問をしているのだけど? 日本語がわからないわけないわよね? ねぇ、教えて? 間違っているのは私なのかしら? それとも夏前さん? シュウ君と正式に婚姻を結んだ私が、単なる一介の友人でしかないあなたとシュウ君との浮気じみた関係を糾弾するのは、見当違い?」

「………」

「いつまで黙っているの? 私はハイかイイエで答えられる質問をしているのよ? 夏前さん。ねぇ、教えて? あなたは――」

「い……」


 蜜香が、唇を震わせながら声を発した。


「言ったの? ……修太郎が」

「質問の答えになっていないわよ、夏前さん? 今、私はあなた達の――」

「修太郎が言ったの? 『結婚ごっこ』のこと」


 蜜香は呼吸を整えると、今度は真っ直ぐに梨乃を見て、そう言い放った。

 その強い眼差しが、梨乃の心を逆撫でする。


「……シュウ君が言ったわけじゃない。調べてわかったの」

「そっか。修太郎が言ったわけじゃないんだ」


 蜜香は、どこか安心したように呟いた。

 何故、安堵する?

 そんな蜜香の表情が、動作が、梨乃を更に苛つかせる。


「さっきの質問に答えていないわよ。『結婚ごっこ』はどちらから提案したの?」

「梨乃さん、調べたって言ったけど、どうやって調べたの? まさか盗聴?」

「私の質問に答えなさい」

「あ、昨日の夜、修太郎を家に呼んでたよね。もしかして、そこで何かしたの? 無理やり調べたの? スマホのデータとか盗んだの? やっぱり、お金持ちの家って犯罪行為の温床なんだね」

「失礼なことを言わないで!」


 思わず、梨乃は声を荒げていた。


「じゃあ、どうやって調べたの? 本人が言ってないっていうなら、絶対に道理に反した方法を取ってるよね」

「………」

「わかった。言わなくていいよ。でも梨乃さんは、不信に思ってることがあっても修太郎本人に聞かず、話し合わなかったってことでしょ」

「……私を責めてるの?」

「ううん、そうじゃない。それが悪いって言ってるんじゃない。ただ……」


 蜜香は、視線を落とす。


「修太郎が、かわいそうだなって……」

「あなた……どの口で言ってるの?」


 梨乃は、自身の頭に血が上っていくのを実感する。

 目の前の女――夏前蜜香こそ、道理に反する事をしていた。

 それを責める正義は、こちらにある。

 なのに、悪い事をしたとか、修太郎がかわいそうとか……。


「夏前さん、あなた自分が――」

「アタシだよ」


 梨乃の言葉を遮り、蜜香は言った。


「『結婚ごっこ』は、アタシが修太郎に持ち掛けたの」

「……恥ずかしくないの?」


 梨乃は、苦虫を噛み潰した表情で言う。


「そんな、シュウ君を誘惑するような、シュウ君を誑かすようなマネをして」

「……わかってるよ」


 蜜香は、悲しそうな顔になる。

 自責の念はある。

 罪悪感もある。

 そんな感情が、伝わってくる。


「でもね……アタシ、修太郎に笑って欲しかったんだよ。修太郎を、救いたかったんだよ」

「何を言っているの? まるで、悪いのはシュウ君の方だと言っているようにも聞こえるわよ? 今更、シュウ君に責任転嫁しないで」

「違うよ、悪者は――」


 蜜香は、梨乃を見据える。


「悪者は、梨乃さんだよ」

「……何を」

「修太郎は、梨乃さんのせいで傷付いてたんだよ。毎日毎日、梨乃さんに冷たく厳しく責められて、真面目だから真剣に悩んじゃって……アタシ、修太郎の口から聞きたくないような辛い言葉も聞いた。死んじゃいたいって言ってた」

「………っ」


 蜜香は、目を見開く。


「だから、アタシは修太郎を救うために『結婚ごっこ』を提案したの」

「そう……なの」


 蜜香の言葉を聞き、身に覚えがあったためか、梨乃は動揺を見せる。


「私が、悪かったのね。私のせいで、シュウ君は……そんなに、傷付いていたのね」


 自身の心に生まれた傷、痛み、それを自覚し、梨乃は苦しそうに呟く。

 蜜香の言葉に、梨乃も少なからず苦悩を覚えた。

 あの頃、自分の行った言動が、彼をそこまで追い詰めていたとは、思ってもいなかったのだろう。


「……でも」


 しかし、梨乃はギュッと拳を握り締め、言い放つ。


「なら、彼が私のせいで傷付いたというのなら、それを修復するのは、それこそ私の役目のはずよ。夏前さんとシュウ君の関係は、もう必要ない」

「………」


 今度は、蜜香が黙り込む。


「もういいでしょう? 夏前さん。夏前さんも、もう十分、シュウ君に付き合ったでしょう?」

「………」

「もう、私達のことは放っておいて。私達を、正常な状態に戻して」

「………」


 梨乃は懇願する。

 だが、蜜香は視線を逸らし、動かない。

 譲らない。

 なんで、どうして。

 ここまで来て、どうして彼女は引き下がらない。


「シュウ君は、私の婚約者よ」

「……私、修太郎に好きって言われたよ」


 そこで、蜜香は呟いた。


「梨乃さんは、修太郎に好きって言われた?」

「え? い、言われたことくらい、ある、わよ」

「本当に?」

「………」


 修太郎が、梨乃に向けていた好意は、全て梨乃の勘違いだった。

 それまで言った『好き』という言葉は、修太郎が梨乃に気を使い言った言葉だった。

 梨乃は修太郎に一度も、好きと言われていない。

 それは、勘違いも解消した今、これから。

 これから、ちょっとずつ育んでいけば良いと思っていた。

 でも、蜜香は既に、“それ”を持っていた。


「アタシは言われたよ、好きって」

「うるさい……」

「キスもした、熱いキス」

「………」

「ねぇ、梨乃さん」


 蜜香は言う。

 天心爛漫で真っ直ぐな彼女が、瞳に闘志を宿し言う。

 本気で修太郎が好きだから、本気の言葉を言う。


「本当に別れなくちゃいけないのは、どっちなんだろう」

「―――」


 梨乃の頭の中で、ブチッという音がした。


「わかったわ」


 夕日も、ほとんど暮れている。

 空き教室の中には、暗闇が満ち始めていた。


「ねぇ、教えて、夏前さん」


 そんな闇の中で、梨乃は言う。


「これは、遊びなんでしょ?」

「え?」

「『結婚ごっこ』っていう、あくまでも遊び。それだけ、教えて」

「……うん」


 目前の梨乃の様子が変化したことに警戒しながら、蜜香は頷く。


「遊び、ごっこ遊びだよ。だから――」

「そう」


 瞬間、梨乃は顔を上げた。

 その顔には、清々しい笑顔が浮かんでいた。


「それを聞いて安心したわ。なら、全然構わないわよ、夏前さん」

「……え」

「ああ、よかった。最初はビックリしたけど、夏前さんの口からその言葉を聞けて安心したわ。所詮、シュウ君と夏前さんは遊びの関係なのね。つまり、いつかは飽きたら終わる関係ってことでしょ?」


 そうハッキリと言う梨乃の表情を見て、蜜香はズキリと心が痛む。


「いいって……梨乃さん、本気で言ってるの?」

「ええ、本気よ? だって、よく考えたら全然気にする必要なんて無いんだから。私達が結婚するまで、後数年。そうね、高校の間くらいは許すわ。ねぇ、夏前さん」


 梨乃は、蜜香に近付く。

 蜜香は思わず下がる。

 背中が空き教室の扉に当たった。

 接近した梨乃は体を寄せる。

 胸と胸がぶつかる。

 吐息が掛かるほどの距離に顔が迫る。


「シュウ君としたいことがあるなら、好きにしていいわ。これから、何をするつもりだったの? いいわよ。『デートごっこ』でも『キスごっこ』でもお好きなように。まったく問題無いわ。だってそれ、全部お遊びでしょ?」

「………」

「だから、全然、いいわ。せいぜい、優しいシュウ君に遊んでもらって、あやしてもらえば?」


 その言葉に、蜜香はビクッと体を揺らした。


「偽物でも良いから、シュウ君との繋がりが欲しかったんでしょ? 妄想を現実にしたかったんでしょ? シュウ君は優しいから、そんな夏前さんを受け入れてくれたのね。かわいそうな夏前さんの夢を、叶えてくれたのね」

「………」

「私、全然気にしないから。だって、私はシュウ君と本当に結婚できるから。これから時間を掛けて、ゆっくりでも、同じ時を過ごしていけるから。本当のキスが出来るから。本当に愛し合うことができるから。あなたが欲しかった、シュウ君としたかった“本物”、もう全部私が予約しちゃったから」

「………」

「夏前さんがシュウ君と過ごす時間は全部遊び。将来、ひたる思い出も全部遊び。夏前さんはもう、一生シュウ君の偽物しか手に入らない」


 バシン――と、甲高い音が響き渡った。

 蜜香の平手が、梨乃の頬を叩いていた。


「………」

「……ふふ」


 唇の端に血を滲ませ、梨乃は笑う。


「欲求に駆られて、衝動的な行動に走る……やっぱり、動物ね。人間としても偽物なの?」




 ――気付けば、蜜香は梨乃の前から逃げ出していた。



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