第11話 明かされる真実


 一旦家に戻り、外出用の小綺麗な格好に着替えて外に出る。

 マンションの前に、既に梨乃の乗る車が待機していた。


「ご機嫌よう」

「お、おう」


 運転手の人がドアを開けてくれたので、中に入る。

 後部座席に座っていた梨乃が、俺にそう挨拶をしてきた。


「わざわざ、梨乃さんも迎えに来てくれたのか」

「いけなかったかしら?」


 俺は首を振るう。

 梨乃は微笑む。

 なんだか、今日の梨乃はいつも以上に柔和な印象を受ける。

 俺の成績が向上したことが、そんなに嬉しいのだろうか。

 いや、それは当然か。

 梨乃は、親父さんから俺を東城家に相応しい男として、梨乃の伴侶として恥ずかしくない存在に育て上げるよう命を授かっているのだ。

 今まで、俺があまりにも不甲斐なく、彼女はきっと多くの叱責を受けてきたに違いない。

 今回の定期試験の結果は、そんな梨乃の努力がひとまずは叶った、成果が出た証拠なのだ。

 ならば、嬉しいに決まっている。

 そんな感じで、俺達を乗せた車は東城家のお屋敷に到着する。

 通されたのは、最早馴染みのある食事会場。

 つい先日まで、主にここで夕飯を食べていたのだから当然である。

 俺と梨乃は長机を挟んで向かい合う。


「おめでとうございます、修太郎様」


 俺の目の前に置かれたグラスに飲み物を注ぎながら、メイドの千雪さんが言った。


「この度の試験結果、とても素晴らしい成果です。使用人一同を代表し、お祝い申し上げます」

「は、はぁ」


 たかが定期試験で良い順位を取ったというだけで、中々の歓迎っぷりだ。

 それだけ、東城家の上の人達も喜んでくれてるということか?

 正面に座る梨乃も、そんな俺を見て「ふふっ」と笑っている。

 提供された食事は、それはそれは豪勢なものだった。

 一流シェフが腕によりを掛けたような絶品の数々。

 最後には見た目も豪華なケーキまで用意されていた。


「ふぅ……」


 俺は満腹になった腹をさする。

 味も量もそうだが、こんなに満たされたご馳走は久しぶりだ。


「今日はありがとう、梨乃さん。こんな美味い料理、生まれて初めてだ」


 食後、洋梨のジュースを飲みながら、俺は梨乃にお礼を言う。

 梨乃も微笑む。


「楽しんでくれて嬉しいわ」

「しかし、こんなに凄いお祝いまで開いてくれて……お父さんも、相当褒めてくれたのか?」

「………」


 俺の発言を受け、梨乃は表情に影を落とす。

 なんだ?

 何か、余計な事を言ってしまったか?

 そこで、俺のテーブルのドリンクを注ぎに来た千雪さんが、声を潜めて囁く。


「本日のお祝いは、梨乃様が希望されたものです。旦那様は存じておりません」


 ………。

 その言葉を聞き、俺は悟った。

 俺の成績の向上に関しては、一応は、梨乃の働きが出した成果だ。

 けれど、それが梨乃の親父さんにも評価されたかどうかは不明だ。

 いや、おそらく梨乃の表情を見るに、されなかったのかもしれない。

「当然だ」「その程度のことをいちいち報告するな」「むしろ、やっとか」とか、そんな冷たいことも言われていそうな雰囲気がある。

 ……じゃあ、梨乃がこうして祝いの席を設けてくれたのは、本当に俺のためだけってことか?

 成績を上げた俺に、頑張った俺に、素直に「おめでとう」と、ただ梨乃が祝ってくれたのか?

 ……なんだか、申し訳ない。

 梨乃だって、頑張ってる。

 こんな俺を、だらしなくてがさつで頭も悪い俺を、成長させようとしてくれてるのに、褒められないなんて。


「修太郎さん」


 食事が終了し、梨乃が席を立つ。

 俺はハッとして、梨乃を見る。


「この後、私の部屋に来てもらっても良いかしら?」




 ■□■□■□■□




 食事の会場を出た俺は、梨乃に連れられ彼女の部屋に向かう。

 ここも、もう何度も訪れた、馴染みの場所。

 俺にとっては、勉強部屋という印象だが。

 部屋に入ると、梨乃は無言でベッドの方に向かう。

 そして、その手前で立ち止まる。

 俺に背中を向けた状態だ。

 俺も、ただ黙って、その背中を見ていることしかできない。


「……修太郎さん」

「は、はい」


 梨乃が、口を開いた。


「私って……その……女として、魅力が無い?」

「へ?」


 梨乃が、おずおずと呟いた言葉に、俺は思わず聞き返してしまう。


「ここ数日……私、その……ちょ、ちょっと修太郎さんに喜んでもらおうと思って、思い切った格好をしたり、していたの、だけど……」


 あの挑発の数々か?

 あれは、俺の集中力を奪うための作戦じゃなかったのか?


「しゅ、修太郎さんは、はしたないと思った? そんな女は、嫌い? だから、あの日、あんなに怒ったの?」


 梨乃の声が震えている。

 どこか、涙声にも聞こえる。


「いや……それは……」


 これは、どんな裏がある質問なのか?

 何と答えるが正解なんだ?

 俺の頭が、梨乃と会話をする時の思考を始める。

 梨乃の狙いを察知し、読み解き、彼女の意向に合った、正しい答えを口にしなくてはいけない。

 ……そう、思ったはずなのだが。

 俺はその時、ふるふると震える梨乃の小さな背中を見て、そんな思考をかなぐり捨てた。

 今彼女は、本音を口にしているんじゃないのか?

 本当に、俺が彼女に見向きもしなかったことが不安で、怖くて、ただそれだけのことを聞いているんじゃないか?


「そ、そんなことない」


 俺は、ごちゃごちゃ考える前に思ったことをそのまま口にした。


「俺は、梨乃さんの姿に目が奪われそうになってた」

「う、嘘、だって、全く私の方を見てなんか……」

「必死に耐えてたんだよ! っていうか、梨乃さんがそうやって俺の集中力を奪って、俺に指導しようとしてるんじゃないかって思ってたんだよ! ごめん!」

「え……じゃ、じゃあ、私……修太郎さん、私の格好を見て……」

「ぶっちゃけ興奮寸前だったよ! だって、梨乃さんすげぇ綺麗だから!」


 もうこうなったら全力だ。

 すまん、蜜香、今だけは許してくれ。

 俺は、目の前で不安でいっぱいの女の子を……それが、今まで散々俺を苦しめてきた梨乃だったとしても、ないがしろにはできない。

 俺の言葉を聞き、梨乃は振り返る。

 その目はやはり涙に濡れていたが、驚きに染まった顔が、一瞬にして真っ赤に染まった。


「き、綺麗……う、嘘嘘! 嘘よ! わ、私、胸もお尻も小さいし、痩せてるし……」

「本当だって! 胸だって全然小さくないって! むしろ形が良くてそそる! スタイルが良いから、お尻も小さくてかわいい! 何より脚! 細くてしなやかで艶めかしい! それで生足晒してるんだから本当に目に毒!」

「う、うるさい! 汚らわしい! 変態! 見損なったわ、修太郎さん!」

「なんで!?」


 怒濤の勢いで怒られた!?

 梨乃を称えていただけなのに、どうしてだ!?


「どうして怒るんだよ! 素直な気持ちを言っただけだろ!」

「え、そ、それは……だって、修太郎さんは、こういうこと言われるのがいいんでしょ? 冷たく、厳しくされるのが好きなんでしょ?」

「だから、なんで梨乃さんは俺がそんな異常性癖を持ってると思ってるんだよ! 普通に傷付くって!」

「え……」


 その言葉を聞いて、梨乃はショックを受けたような表情になる。

 え? まさか……嘘だろ?


「梨乃さんが今まで俺に厳しかったのって……俺が、そうされると喜ぶと思ってたから?」

「ち、違うの? だって、昔、修太郎さん『大人びてクールな女性が好みだ』って……『どこかツンとしていて、言葉遣いも鋭い、そんな女の子が好き』だって……」


 ??????????

 なんだ?

 何が起こってるんだ?

 梨乃は、何を言ってるんだ?

 俺がいつ、そんな台詞を……。

 ………。

 ………昔?

 あ、そうだ。

 俺は、言ったかもしれない。

 そんなことを、ある女の子にだけ。


「梨乃、さん……俺達って」

「………」


 俺の前で、梨乃がハッとした顔をしている。

「しまった……」とでもいうような顔。


「俺達って、もう、何年も前に、会ってたり、する?」

「………お、覚えてて、くれてたの?」


 そして一方で、俺のその言葉に驚きとときめきを感じたような表情。

 梨乃が、視線を逸らす。

 真っ赤に染まった顔、潤んだ瞳、胸の前で絡めた指。

 彼女は、コクンと頷く。

 そうだ、俺はそんな話をしたことがある。

 もう、何年も前、小学校低学年の頃。

 当時、俺がよく一緒に遊んだ。

 よく一緒に連れ回していた。

 そして、俺を『嫌い』だと言って去って行った、あの女の子に。


「………ひ」


 おずおずと、上目遣いで、ゆっくり、震える声で。

 梨乃は、あの頃、俺をそう呼んでいたように、俺に言った。


「久しぶり……シュウ君」




 ■□■□■□■□




 俺は、まだ信じられずにいた。

 信じられるはずがない。

 目の前の、東城梨乃が。

 この大富豪の令嬢を絵に描いたような、完全完璧なお嬢様が。

 俺が幼い頃、よく一緒に遊びに連れ回していた、あの近所の女の子だったなんて。

 俺が幼い頃に仲良くしようとして、そして嫌われてしまったと思っていた、あの女の子だったなんて。

 何もかもが違う。

 絶対に繋がらない。

 時空が歪んでいる。

 ……でも、確かに言われてみれば。梨乃の顔には、その姿には、遠い記憶の中、彼女の面影が見える。


「え……え? え? 待って、ちょっと待って」


 俺は額に手を当てて、この状況を必死で分析しようとする。

 しかし、無理だ。

 俺の頭程度じゃ、この事態を飲み込めない。


「説明……してくれるか? 梨乃さん」


 だから、俺は梨乃に丸投げする事にした。

 それが、最善の選択だからだ。


「え、ええ」


 梨乃もまた、動揺を露わに頷く。

 彼女自身、自分が俺の昔馴染みだと、今日初めて告白した。

 今まで黙っていたのにも、何か理由があるのだろうか。

 そこも含めて、ちゃんと教えてくれるのだろうか。


「………」

「………」

「………」

「………? 梨乃さん?」

「あ、ご、ごめんなさい!」


 黙りこくる梨乃に、俺が溜まらず声を掛ける。

 すると彼女は、あたふたとしながら反応した。

 いつもの、あの凜然とした、厳格な、鉄のような気配は全くない。

 そこにいるのは、内気で引っ込み思案で、おどおどした、あの日の、あの少女と同じ雰囲気を持つ少女だった。


「ええと、まず……私のお父さんとお母さんは、駆け落ち夫婦だったの」


 梨乃は語る。

 梨乃の父親は東城家の跡継ぎで、母親はそんな父が恋に落ちた一般人だったのだという。

 身分の違いから一緒になることを反対されていた二人は駆け落ちし、子どもを作り、ひっそりと生活していた。

 だから、あの頃、あんな普通の生活圏に、梨乃が暮らしていたのか。


「私、病弱で……引っ込み思案で、性格も暗くて、なんだか周りにも気を使われて、馴染めなくて……」


 そうだ、俺の記憶の中の少女時代の梨乃は、内気で暗く、引っ込み思案な性格だった。

 いつも寂しそうに、一人で公園の砂場にいた。

 だから自分は、そんな彼女が気になって、引っ張り回すようになったのだ。


「私……嬉しかった。シュウ君は、私を普通に、自然に扱ってくれたから」


 ニコッと、梨乃は微笑んだ。

 その柔らかい笑みに、俺はドキリとした。


「で、でも……梨乃さんは、そんな俺が段々と鬱陶しくなってったんだろ」


 照れを隠すように、俺は言う。


「俺、その頃から無遠慮でがさつで……普通に接するって言ったら聞こえは良いけど、要は気遣いができなかったから。梨乃さんのこといっぱい傷付けて……俺のこと、嫌いだったろ……」

「ち、違うの!」


 そこで、梨乃は辛そうに声を張った。


「確かに、私は段々とシュウ君の言動で落ち込むことが増えてった。でも……それは、シュウ君が嫌になったんじゃなくて、シュウ君の理想通りになれない私自身が嫌だったからなの」


 自分は、俺の理想にはなれない。

 俺が、何がしたいのかも察することが出来ない。

 好みも合わない。

 病弱で行動や出来ることも制限されていて、俺がやりたいこと、したいことにも付き合えない。


「それで、段々と、シュウ君と一緒にいるのが嫌になって……シュウ君が悪いわけじゃないの。一番の理由は、私自身が、そんな自分が嫌いだったから」

「………」


 俺は、どうやら認識間違いをしていたようだ。

 俺は、あの日、梨乃から俺と一緒に居るのが嫌だと告白されたと思っていた。

 しかし、彼女が本当に嫌だったのは、俺の理想に合わせられない自分自身だったのだ。

 そして、どうやらそれを周囲も俺と同じように解釈したようで、周りの女子達も横暴な態度で女の子を傷付けた俺を嫌い、結果、俺は孤立するようになった。


「そして、梨乃さんは俺の前から姿を消して……」

「うん……その頃ね、私の両親が事故死したの」


 壮絶な展開だ。

 その結果、梨乃は実家である東城家に引き取られ、現当主の養子となった。

 俺が梨乃の父親だと紹介されていたのは、正確には梨乃の祖父にあたる人物なのだという。


「ってことは、霧晴さんとも血の繋がった兄妹じゃないってことか?」

「……ええ……霧晴兄様も同じような境遇だから」


 こうして、梨乃は東城家の令嬢として、当時とは違う世界で生きることになった。

 そして、月日は流れ……。


「私は、高校でシュウ君と再会した」

「よく、俺だってわかったな」

「すぐにわかったわ」


 梨乃は、トロンと蕩けた目で俺を見る。


「私、ずっとシュウ君の面影を引き摺ってたから。シュウ君が……その、初恋の人だったから」


 そんな俺と、まさか高校で再会することになるとは思わなかった――と、梨乃は言う。


「覚えてる、シュウ君。高校で、シュウ君が初めて私に話し掛けてくれたときのこと」


 東城家の令嬢である梨乃は、高校でも周囲から特別な目で見られていた。

 言い方を変えれば、壁を設けられていた。


「けれど、シュウ君は普通に、気さくに私に接してきてくれたの。合同授業で私と同じ班になった時、『あの教室の時計止まってない? 電池切れてるのかな?』って」


 ……それが初会話だったっけな。

 思い返してみれば、東城梨乃になんつーしょうもない話題で声かけてんだ、俺。

 梨乃は、うっとりした表情で目を細める。


「シュウ君は、昔のままだった。それが、とても嬉しかった。心の中で止まっていた時間が、もう一度動き出した……そんな感じがしたわ」

「随分、ロマンチックな表現だな……」


 俺が言うと、梨乃は「ふふっ」と、照れ臭そうに笑った。

 そこからの流れは、今までの通り。

 梨乃は俺を自身の婚約者に指名した。

 東城家はてんやわんやの大騒ぎとなったが、なんとか表向きは借金の形ということで、俺を梨乃の婚約者として認めた。

 梨乃が過度に俺へ厳しく接していたのも、俺を教育しなくてはいけないという東城家からの命令もあったが、俺が昔言った女の子の好みに合わせるためだった。

 俺は昔、梨乃に、大人びたクールビューティーな女性が好みだと言っていた。

 どこかツンとしていて、言葉も鋭い、そんな女の子が好みだと。

 如何にも年頃の子どもっぽい好みだった。

 梨乃は、そんな俺の理想を覚えており、そんな女性になろうとしたのだ。


「昔のことを黙っていたのは……私が、生まれ変わりたかったから。昔の私のことなんて忘れて、シュウ君の理想の女性として生まれ変わりたかったから」


 それが、全てだった。

 全てを告白し終わって、梨乃は震えている。


「なのに……シュ、シュウ君。私、酷い勘違いをしてたわ……シュウ君が好きだと思って、私、シュウ君に酷い事や冷たいことを、凄く言ってた……」


 全てを聞き終わり、俺は梨乃を見詰める。

 梨乃は震えている。

 今言ったように、彼女も、自身の行いが度を超えたスパルタだったと自覚していたようだ。

 それでも、それが俺の理想なんだと。

 俺の好みなんだと、そう思い込んでいたゆえのキャラ付けだった……というわけだ。

 まったく――と、俺は思う。

 怒りよりも前に、なんだか、梨乃がかわいく思えてきた。

 何て不器用な子なんだろう、と。


「そういうことだったのか」


 俺は手を伸ばし、ふるふると震えている梨乃の頭を撫でた。

 無性に、そうしてやりたい衝動に駆られたのだ。

 突然頭を撫でられ、梨乃もビックリしたようだ。

「ふえっ!?」と、上擦った声を発した。

 しかし、直後。


「も、も、もう……い、いきなりそんなことされたら、ビックリしちゃうわ」


 昔の、あの内気だった頃の面影が見えた。

 おどおどしながら、そう恥ずかしそうに、梨乃は笑う。

 と同時に、表情に不安を見せる。


「シュウ君……許して、くれるの?」

「許す?」

「私が、厳しい態度を取っていたことや、真実を黙っていたこと」

「うーん……」


 梨乃の今までのモラハラや、行きすぎた俺の私生活への過干渉、『矯正』の数々。

 それらは、俺の好みの女性であろうとした、それが理由だ。


「や、やっぱり、許してくれない、わよね……」


 そこで、押し黙っていた俺の反応を見て、梨乃は顔を俯かせる。

 そして「ごめんなさい」と、頭を下げた。


「いや、許すよ。梨乃さんだって、勘違いしてたんだもんな」


 俺が言うと、梨乃はおずおずと顔を上げる。


「ありがとう……」


 そう、笑顔を見せた。

 さてと、積もる話もあるのだが、明日も早い。

 もう、時間も深夜だ。

 家に帰らないといけない。

 今日は一旦ここまでにしよう、という流れになった。


「あ、ま、待って」


 そこで、梨乃が俺を呼び止めた。


「その、一つだけ、これだけは言っておかなくちゃいけないことがあるのだけど」

「なんだ?」


 先程までの動揺混じりだった顔から一変。

 まるで覚悟を一新したかのように、いつもの厳格な表情と口調に戻って、梨乃は言う。


「過去がどうであれ、少なくとも私達の置かれている立場は変わらない。私は東城家の娘で、あなたはその婿になる男」

「あ、ああ」

「学校等では、今まで通り接するわ。今までと変わらない態度で、あなたのことも『修太郎さん』と呼ぶ」

「お、おう」

「それに、生活習慣に関しても、これまでと同様、あなたには東城の一員になる自覚を持ってもらい、今まで以上に自分を律し、高める努力をしてもらうわ」

「え、ええ……」


 先程までの、あの甘酸っぱい雰囲気はどこへやら。

 そこに居るのは、今までと変わらない鉄のような婚約者――東城梨乃だった。

 この生活が、ちょっとは軟化するものかと期待していたのだが、どうやらそうはいかないらしい。

 仕方がない。

 彼女の言うことは、確かにその通りなのだから。


「わかったよ」

「……でもね」


 そこで、梨乃は頬を染め、視線をふいっと逸らし、呟く。


「私の本心は……シュウ君が好きだっていう本心は、それだけは変わらないから……」

「………」


 それだけは、伝えたかったのだろう。

 厳めしい表情で自身を押し固めながらも、キュッと力の込められた唇や、真っ赤に染まった肌が、彼女のあどけない本心をこれでもかというほど伝えてくれる。


「ああ、わかってる」


 俺は、そんな彼女の純粋な想いに答える。


「梨乃さんの本心、本当に俺を想ってくれてるってことは、今日のお祝いの席でわかったよ。聞いたけど、俺のために梨乃さんの希望で開いてくれたんだろ?」

「……え、え!? どうして、それを……」

「ありがとう。本当の梨乃さんは、すげぇ優しい人なんだな。安心したよ」

「……~~~~」


 俺の、飾らない本心からの言葉に、梨乃さんは既に赤い顔を更に真っ赤に染め上げていく。

 そして、頭の先から湯気が出そうなほど、その熱気が高まった瞬間。


「きょ、『矯正』! 『矯正』よ、修太郎さん!」

「なんで!?」

「明日までに、英語の問題集を一冊解いて提出!」

「そんな無茶な!?」


 いかん、この子、『矯正』を照れ隠しに使い始めた!

 これじゃ、容易く褒めたりするのも難しいな……。

 何はともあれ、なんとかその『矯正』に関しては取り止めてもらえた。

 ひとまず俺は、家路につく。


「あ、ま、待って……」


 そこで、再度呼び止められた。


「今度はなんだ?」


 まさか、やっぱり『矯正』を執行されるのか? と、ビクビクしながら振り返ると。


「そ、その、二人きりの時は……シュウ君、って、呼んでいい?」


 梨乃は、おずおずとそう言った。


「あ、ああ、別に構わないけど」

「それでね……逆に、シュウ君は、二人きりの時は私のこと、梨乃、って、呼び捨てで呼んで」


 梨乃からのお願い。

 まるで、この世界で二人だけの、特別な約束を交わすような。

 恋人同士が育むような、そんな約束。

 今まで、梨乃としたことなど無かった、意識したこともなかった、そんなやり取りに、俺は思わず胸が高鳴ってしまった。


「ああ……梨乃さんが、そうしたいなら」

「本当? 嬉しい」


 梨乃は、胸の前で手と手を合わせ、顔を綻ばせる。


「じゃあ、ごきげんよう。おやすみなさい、シュウ君」

「おやすみ、梨乃さん」

「……さん?」

「あ、お休み、梨乃」


 俺が彼女の名を呼ぶと、梨乃は「ふふっ」と、恥ずかしそうに笑った。

 ……なんだか、本当に初めて。

 俺達は婚約者同士になった、そんな気分だった。




 ■□■□■□■□




 梨乃の部屋から出て、扉を閉める。


「お帰りですか、修太郎様」

「おわっ!」


 そこで、背後から声を掛けられ、俺は思わず驚いてしまった。

 振り返ると、そこにいたのはメイドの千雪さんだった。


「送迎のための車は、準備できております」

「あ、ああ、ありがとうございます」


 俺は、目前の千雪さんに頭を下げる。

 何気に、正面からハッキリと顔を見たのは、これが初めてだ。


「……どう思われましたか?」

「え?」

「お嬢様と修太郎様の関係を、お知りになって」

「な、何故、知ってるんですか!?」

「聞き耳を立てておりましたので」


 盗み聞きかよ。

 このメイドさん、意外とはっちゃけたキャラだな。


「修太郎様。いきなりのことで動揺しているとは思われますが、わたくしからこれだけはお伝えさせていただきたいのです」


 千雪さんは、その無表情の顔を、黒く澄んだ瞳を俺に向ける。


「お嬢様は、修太郎様を本気で愛しております。どうか、幸せにしてあげてください」


 そう言って、千雪さんは頭を下げた。


「は、はい……」

「では」


 俺は、去って行く千雪さんの背中を見送る。

 彼女は、梨乃の専属のお付きっぽい。

 きっと、長い付き合いなのだろう。

 よっぽど、梨乃のことを大切に思ってるんだな、と、そう考えた。


「……?」


 そこで、ふと。

 俺は、先程ハッキリと真正面から見た千雪さんの顔を思い出し、何か、違和感のようなものを覚えた。

 なんだろう……。

 彼女、どこかで見覚えがあるような、そんな気がしたのだ。


「……いや」


 それよりも、今は自分の身に巻き起こった衝撃の展開を整理し飲み下すのが先決だ。

 あの梨乃が、俺の幼少の頃のトラウマの切っ掛けとなった少女。

 そして、俺を嫌っていたというのは勘違いで、むしろ今日まで、ずっと俺に初恋を抱いてくれていたということ。

 俺に対し厳しい態度で接していたのも、冷たかったのも、好意の裏返しのようなものだったということ。

 ……ダメだ。

 衝撃の展開過ぎて、いまいち頭が回っていない。

 これは、つまり、どうなったんだ?

 これから、どうすればいいんだ?

 ぼやけた脳味噌で考えるが、正確に考えがまとまらない。

 今尚、夢の中にいるような、判然としない感覚に包まれていた。

 ともかく、今は家路に着こう。


「この事は、蜜香にも話しておいた方がいい……のかな?」




 ――この時の俺はまだ、事の重大さと、迫り来る地獄の気配に気付けずにいたのだった。



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