第9話 男の友情は焼き肉で育まれる

「なんだ、修太郎。随分お疲れじゃん」

「おう、お疲れだ」


 学校にて。


 教室の中、机に突っ伏して虚空を眺めていた俺に、友人の館上朔たてがみ・さくが声を掛けてきた。


「なんか久しぶりだな、お前のその顔見るの。ここ最近は、結構調子よかったのにな」

「まぁ、ちょっと聞いてくれよ、朔……現在俺を悩ませる東城梨乃の超束縛生活の話を」


 定期試験までの間、俺は学校と東城家を行き来し、基本的に東城家で寝泊まりする生活を強いられている。


 空いた時間のほとんどは梨乃と共に勉強をする時間となり、これが中々のストレスになっているのだ。


「はー、そりゃまぁ、大変だな」

「だろ?」

「前、東城さんと婚約できて幸せじゃん、とか言ったけど、そういう話聞くとちょっとお前の気持ちもわかる気がするわ」

「やっとか! むしろ遅すぎるくらいだぞ!」


 そこで、俺はハッとして、周囲にババッと目配せをする。


「……梨乃さんに聞かれてないよな」

「めっちゃ疑心暗鬼になってんじゃん」

「それくらい、洗脳されてるんだよ。それに、ここ最近は気晴らしの時間も取れないし」


 はぁ……と、俺は嘆息する。


 そう、それが一番の問題。


 蜜香とまともに顔を合わせて、会話やコミュニケーションを取れたのは、いつが最後だろう。


「なんだ、気晴らしって。お前、なんか趣味あったっけ? 新作のネトゲ?」

「いや、んー、なんつーか……気の置けない腐れ縁の幼馴染みからしか摂取できない栄養素があるというか――」

「幼馴染みの栄養素ってなんだい?」


 そこで、背後から声を掛けられ、俺はビックリして振り返る。


 気付くと、教室の中がざわめいている。


 そのざわめきの渦中にして、俺の背後に立っている人物は、顔に爽やかなスマイルを浮かべて言った。


「梨乃のスパルタ指導のせいか、かなりお疲れのようだな、修太郎君」

「霧晴さん」


 この学校の有名人。


 東城家の一員にして、梨乃の兄。


 東城霧晴さんだった。


「珍しいですね、二学年の教室に来るなんて。誰かに用があるんですか?」


 俺が問うと、霧晴さんはその顔に柔和で汚れ一つ無い笑みを浮かべる。


「ハハッ、何を隠そう君に用があってきたんだ、修太郎君」

「俺に?」


 一体何の用だろうか?


 もしかして、梨乃から何か言伝でも頼まれたのか?


 霧晴さんを伝言係に使うなんて、なんて贅沢な――等と思っている俺に、霧晴さんは言う。


「今日は、修太郎君に飯を奢ろうと思ってね」

「はい……はい? 飯、っすか?」

「ああ」


 霧晴さんは言う。


「将来の妹婿と、親睦を深めたい気分なんだ」




 ■□■□■□■□




 学校が終わった後、飯を奢る――と言った霧晴さんに連れてこられたのは、街中にある焼き肉屋だった。


 ちなみに梨乃に関しては、霧晴さんが事前に連絡し、今日は男同士で飯を食ってから俺を家まで送ると話を付けてくれたらしい。


 梨乃も、霧晴さんにそう言われてしまえば渋々了承するしかなかったようだ。


 というわけで、俺は本日東城家に直帰すること無く、大手を振って霧晴さんに夕飯をご馳走してもらう流れになった。


 流石は、将来の東城を担う後継者の一人。


 行動が的確で迅速だ。


 人間としての器が違う。


「さぁ、ここだ」


 連れて来られた焼き肉屋を目の前にして、俺は息を呑む。


 なんたって、東城家の子息の一人に誘われたのだ。


 大衆向けのチェーン店とか、個人経営の小さな老舗とか、そういうところには行くわけ無いとは、当然わかっていた。


 しかし、霧晴さんに連れてこられたのは、閑静な住宅街の一角にひっそりと構えられた、真っ黒な外観の高級焼き肉店だった。


 ぶっちゃけ、高校生が足を踏み入れて良い場所なのか、抵抗感さえある。


 こういうところって、女性連れの社長とか、人気芸能人や動画配信者とか、やたら恰幅が良くてサングラス掛けた金髪の40代くらいの男性とかが来そうなイメージがあるというか、まぁ、凄まじい偏見を持っているのだが。


「ほ、本当に良いんですか? 霧晴さん、ここ、結構高いんじゃないですか?」


 俺達は個室に通された。


 控え目なBGMが流れる、薄暗い部屋の中、横長のテーブルを挟んで座った霧晴さんに俺は遠慮がちに言う。


「気にするな、修太郎君は俺にとって弟のようなものだ」


 そう言って、霧晴さんは快活に笑う。


「何より、男の親交は焼き肉で深まる! 今日は遠慮せずに食べてくれ、俺のおごりだ」


 何て太っ腹というか、大きな人なのだろう。


 その上お茶目で、惹き付けられる魅力がある。


 なるほど、これがカリスマという人種なのか、と俺は思った。


「流石、東城先輩! 一生付いていきます!」

「って、なんでちゃっかりお前も一緒について来てんだよ、朔」


 俺の隣で、当たり前のように同席している朔が、キラキラした目で霧晴さんを絶賛している。


「ははっ、気にするな、人数は多い方が楽しいだろう。朔君だったかな? 君も遠慮は要らないよ」


 霧晴さんは大いに笑い、メニューを開く。


 そして、備え付けのタッチパネルで次々に注文をしていく。


「飲み物はウーロン茶で良いかな?」

「あ、はい」


 本当なら俺が注文仕事を請け負いたいところだが、何分こういう場所での所作がわからないので、完全に霧晴さん任せになってしまった。


 しばらくして、店員が部屋に肉を運んでくる。


 大皿、小皿、関係無く様々な部位が机に並べられていく。


「さぁ、食べろ食べろ!」


 熱された網の上にトングで肉を並べ、霧晴さんが次々に仕上げていく。


「ほら、修太郎君! ハツを食べろ、ミノを食べろ、ギアラを食べろ、センマイも食べろ! タンにカルビにロースにハラミにユッケも食べろ!」


 大盤振る舞いである。


 きっと国産和牛だろう。


 肉はどれも脂がのっていて、口の中に入れた瞬間溶けて無くなる。


 甘みと旨味で胃が満たされ、幸福だ。


 内臓系もどれも新鮮で、くさみなんて無く歯ごたえ抜群。


 隣の朔も「うひょー! ご馳走だぜぇ!」とかなりハイテンションな様子である。


 無論、俺も上機嫌だ。


 今まで味わったことのない体験をさせてもらって、実に至福の時である。


「修太郎君、どうだい? 最近は」


 取り替えた網の上で牛脂を溶かしながら、霧晴さんが不意にそう問い掛けてきた。


「正直言うと……結構、疲れが溜まってました」


 俺は、霧晴さんに言う。


 この人になら、正直な気持ちを打ち明けられると思った。


「成績を上げるためなんですから、それだけ勉強しなくちゃいけないっていうのはわかってます。でも、わかっててもやっぱり頭や体は耐えられないみたいで……」

「仕方がないさ」

「でも、霧晴さんに上手い飯食わせてもらって、なんだか心のモヤモヤが晴れた気がします」


 俺が言うと、霧晴さんはニッと笑って「そうか!」と言う。


 人懐っこい、眩しい笑顔だ。


 その後も、俺は霧晴さんと学校の事など、雑談を交えた。


 霧晴さんは、やはり爽快な性格をしており、話が弾む。


 俺も、久方ぶりに楽しい気分になった。


 ちなみに、朔はその間ずっと肉を食いまくっていた。


 こいつは遠慮ってものを知らん。




 ■□■□■□■□




 たらふく肉をご馳走になった後、朔とは別れ、俺と霧晴さんは迎えの車で東城家へと向かっていた。


「さっきは、朔君がいたから話題は避けていたが……」


 車の後部座席。


 満腹感の余韻に浸っていた俺に、隣に座る霧晴さんが話し掛けてきた。


「梨乃との仲はどうだい? 婚約関係は、上手くいってるかな」

「………」


 やはり、霧晴さんも兄としてそこは気になるようだ。


「梨乃も、最近の調子はどうかな? 修太郎君に迷惑を掛けたりしてないかな」

「ええ、まぁ……それなりに」


 梨乃との仲は……本当は、結構難儀しているのだが、それを正直には言えない。


 相手は霧晴さん、梨乃のお兄さんだ。


 これだけ俺に良くしてくれているのに、妹さんとは相性が悪いです、一緒に居ても緊張してたまりません、なんて言われれば嫌だろう。


 俺は霧晴さんが好きなので、嫌な気分にはさせたくない。


 仮に本音を語っても、霧晴さんくらい器のでかい人なら大らかに受け止めてくれるかもしれないが。


「梨乃さんも変わりないですし、少なくとも悪くはないかと」

「そうか」


 霧晴さんは、俺の曖昧な言い方にも言及することなく、ニコッと笑う。


 きっと、全てが順調ではないとは、彼もわかっているのだろう。


 だがあえて何も突っ込まず、霧晴さんは言う。


「修太郎君、何か困ったことがあったり、悩んでいることがあるなら、俺に相談してくれて構わない。学校の休み時間でも、ああして肉を囲いながらでも、俺はいつでも大丈夫だ」

「ありがとうございます」


 本当に爽やかな人だ。


 俺は素直にそう思った。


「ところで、だ」


 するとそこで、霧晴さんが若干声の調子を上擦らせ、ボソッと漏らした。


「実は、俺からも一つ、修太郎君に相談したいことがあるんだが、いいかな?」


 意外な発言だった。


 霧晴さんの方から、俺に相談なんて。


「ええ、全然構わないですよ。俺で良ければ」

「ああ、ありがとう」


 霧晴さんは、少し思い詰めたような、ちょっと緊張しているような、そんな表情になって言った。


「君は、夏前蜜香君と仲が良いんだったか」


「え?」


 俺は思わず戸惑いを見せる。


 何故、ここで蜜香の名前が?


 そう思った次の瞬間、霧晴さんの口にした言葉を聞き、俺は息を呑んだ。


「君と夏前君が、手を繋いで街中を歩いている姿を見たという生徒がいるんだ」

「………」


 見られてたのか。


 きっと、『休日デートごっこ』の日だ。


 もしかしたら、俺達が遭遇したクラスメイトのカップルのどちらかが、学校で何気無しに口にしたのかもしれない。


 ……まさか、霧晴さんは、俺と蜜香の仲を疑っているのか?


 だから、ここでそんな質問をしたのか?


「ああ、はい、まぁ、なんていうか、あいつ、俺に婚約者がいる事をわかってて、そうやって悪戯してくるんですよ」


 俺はすぐさま、以前言ったように誤魔化しの台詞を口にする。


「昔っからの幼馴染みなんで、それくらい仲が良いというか、腐れ縁の悪友といいますか。正直、女として意識したことはないんですけどね。向こうも、俺に対してそんな感じなんですよ、本人が言ってましたけど」


 のべつ幕無しに俺は言う。


 こういった場合が訪れた時のために用意していた言い訳の数々を。


「そうか」


 すると、そんな俺の言葉を聞き、霧晴さんは何故だろう――どこか安心したような顔になった。


「じゃあ、君とは気兼ね無く、この話が出来る」

「え?」


 なんだろう……。


 先程までとは別の意味で、嫌な予感がする……。


「実は……」


 霧晴さんは言う。




「最近、彼女の事が気になるんだ」




 目線を少し伏せ、照れ臭そうに頬を掻きながら。


 その瞬間の俺の顔を見られなくて、本当に良かった。


 俺は思わず、目を見開いてしまっていたからだ。


「彼女、女子バスケ部に所属しているだろう? 俺は男子バスケ部で、同じ体育館を使って部活をしている。だから同じバスケ部同士、交流もあってね。彼女とは、ここ最近よく話すんだ」


 霧晴さんは、語る。


「最初は、元気で明るい後輩の女の子、と、それくらいの感覚だった。当然、彼女は容姿も良くて、多くの生徒達から人気が高いのは知っていたから、正直目が引かれることはあったが、本当にそれくらいの気持ちだった」

「……あ、はぁ」

「でも、あの明け透けな性格や、俺にも気兼ね無く接してくる感じが、なんだか新鮮でね」


 霧晴さんは、学校内でも滅茶苦茶人気の高い男子生徒だ。


 そりゃ、東城家という家柄や甘いルックス、勉強も出来てスポーツも万能、男子バスケ部ではポイントガードで司令塔を務めている。


 そんな人、ファンが何人居たっておかしくない。


 なんなら、女性教師の中にもガチ恋勢がいるなんて噂も聞くほどで、最早フィクションの中の王子様みたいな人。


 でも、蜜香はそんな霧晴さんにも、普通に接しているのだという。


「彼女のあの、人懐っこくて、幼くて、当たり前のようにボディタッチもしてくる感じが……その……なんだ、かわいくてね」


 霧晴さんは照れたように笑う。


 いつもの、自信に満ち溢れたイケメンオーラ全開の彼が、少し蕩けた表情をしているのが、なんだか新鮮だ。


「この前も、コンビニで買ったっていう新作のお菓子を分けてくれたりしてね。そういうところに、何か好感を抱いて……そして、いつの間にか彼女の存在を気にしている自分に気付いたんだ」

「………」


 蜜香は、誰にでも優しく、男女問わず誰とでも仲良くなれる。


 そういう性格のやつだ。


 そういうところが幾多の男子を惑わせて来た事も、俺は知っている。


 別に、今までと変わらない。


 蜜香が気になるという人が現れただけのこと。


 でも、なんだろう。


 明確に、蜜香に好意を持っている男の人が、目前にいる。


 その人は、俺よりも男としてずっと優れていて……。


 俺は、なんだか焦燥感に駆られた。


 心が、モヤモヤする。


「だから、彼女と仲が良い修太郎君に、彼女についてこれから相談することが増えるかもしれない。その時には、是非協力をして欲しいんだ。無論、逆に梨乃について相談したいことがあるなら、何でも言ってくれ。全力で助けになるよ」

「……あ、えと、その……」


 口籠もりつつも、俺は慌てて返答する。


「お、俺でよければ」


 なんとか、平常心を装い霧晴さんに受け答えする事ができた。


 霧晴さんはそんな俺に、ありがとう、と、素直な笑顔で言った。


 ……当然、俺と蜜香の間に築かれた、今の関係性のことなど言えるはずがない。


 霧晴さんには優しくしてもらっているので、罪悪感もある。


 でも……。


 俺の心には、霧晴さんが蜜香に好意を抱いているというモヤモヤが残ってしまった。




 ■□■□■□■□




 やがて、俺達を乗せた車は東城家へと到着した。


「あちゃー……少し怒ってるな」


 窓の外を見て霧晴さんがぼやいている。


 見ると、玄関先で梨乃が俺達の帰りを待ち構えていた。


 腕組みをし、顔は冷たい無表情である。


 どうやら、霧晴さんが俺を連れ回したことが不服だった様子だ。


 車を降りた後、霧晴さんが色々と梨乃に言って機嫌を取っていた。


 その甲斐あって、梨乃は溜息を一つで許してくれたが「今から勉強の時間よ」と、俺を引き連れて自室へと向かった。


 俺は、梨乃の部屋で彼女と勉強をする。


 ……しかし、残念ながら俺は上の空になってしまっていた。


 蜜香のことを考えてしまうからだ。


 ここ最近、ずっとまともに顔を合わせていない、会話も出来ていない。


 何より、霧晴さんの話を聞いたからだろうか。


 今この瞬間にも、蜜香を狙っている男がいるかもしれないと、そんな妄想をしてしまう。


 だってあいつ、少なくとも表向きには彼氏がいない、独り身ということになっているのだ。


 いや……正確には俺だって、正式な彼氏じゃないんだが。


 なら、あいつを狙って、色々とちょっかいを掛けてくる奴がいてもおかしくはない。


 ふと、蜜香の隣に男がいる光景を想像する。


 その男は、霧晴さんだった。


 いつも俺に向けるような笑顔を、霧晴さんにも向ける蜜香。


 どこか火照った、恋い焦がれるような表情を、俺ではない別の男に浮かべている蜜香。


 瞬間、胸の奥に痛みが走る。


 心臓をサンドバックにして、ボクサーがジャブの練習を始めたようだ。


 ふざけるな。


 なに人の心臓を勝手にサンドバックにしてるんだ、出て行け。


 そもそもお前誰だ、どこのジム所属だ。


 ミシッと、シャーペンを握る指にも力が入る。


「集中力が足りていないわよ、修太郎さん」


 隣に座る梨乃が、呆れたように呟いた。


「私が今した質問、聞いていなかったの?」

「あ、ええと……」


 しまった、全く聞いていなかった。


「いや、ごめん。霧晴さんにかなり豪華な食事をご馳走してもらったから、その余韻でボウッとしてるのかな。申し訳ない」

「……ふんっ」


 梨乃は、そっぽを向く。


 確実に不機嫌だ。


 なんで、今日に限ってこんなに機嫌が悪いのだろう。


 俺は、そこで梨乃の姿を見る。


 ……そういえば、なんだか今日の梨乃の部屋着は、昨日までにも増して露出度高めのような。


「……私の姿を見て、何か言うことは無いのかしら? ……って、聞いたの」


 チラチラと、梨乃は俺の顔を伺ってくる。


「何か……」


 そう質問されていたのか。


 いや、そんなこと言われても、なんて答えれば良いんだ?


 今日は、いつにも増してセクシーだねとでも言えば良いのか?


 そんなこと言ったら、確実に『矯正』だろ。


 前と同じように、集中力を奪おうとしてきているのだ。


 俺は「いや……別に、いつもと変わらないと思うけど」と言って、目の前の参考書に集中する。


 対し、梨乃は俺の対応が気に入らないようだ。


 顔を赤らめたまま、若干頬を膨らませているような感じがする。


「……私、魅力が無いの?」

「え?」

「なんでもないわ!」


 ボソッと何やら呟いた気もしたが、梨乃はすぐに大声を発し、そして続けて盛大に溜息を吐く。


「まったく、霧晴さんには困ったものだわ。この大切な時期に、修太郎さんを連れ回して遊び歩くなんて」

「……いや、遊び歩いてなんかいないけど」


 そこで、俺は珍しく梨乃に口答えしてしまった。


 腹の中に溜まったモヤモヤ。


 どうにも上手く行かない現状の雰囲気。


 そういったものが原因で、思わず言ってしまった。


 何よりの要因は、好意から俺を食事に誘ってくれた霧晴さんを責められてしまったことだった。


 それは、訂正しておきたかった。


「霧晴さんは善い人だ。悪く言わないで欲しい」


 その口答えが気に入らなかったのか、梨乃の眉間に皺が寄る。


 あ、まずい。


 今までで一番、彼女の機嫌を損ねたかもしれない。


「……修太郎さんの気を散らせるものは、側に置かない方が良いわね」


 冷たい声で、梨乃は言う。


「学校にいる間は、プライベートな会話をする事を禁止するわ。相手が誰であれ。それと、この家に通う期間、スマートフォンは没収します」

「な……ちょ、ちょっと」

「そうすれば、容易く他人と会話することもないはず」

「いや……おい」

「一日の行動は私が決めるから、連絡ツールは必要ないでしょ」

「流石に、それはやりすぎだろ」


 俺は激昂した。


 思わず、声を荒げてしまう。


「それは単に、梨乃が気に食わないだけだろ!」


 もしかしたら、初めてかもしれない。


 俺が、梨乃に向かって大声を張るのは。


 その声に、梨乃はビクッと全身を震わせた。


 目を見開き、驚いた顔で俺を見る。


 彼女の瞳の中に、怒りを露わにしている俺の表情が写っている。


 それを前にして、彼女は徐々に、体を震わせ始めた。


「あ……り、梨乃さん」


 流石に、声を荒げすぎた。


 そう思った時には、彼女の瞳が潤み、そして、涙がじわりと浮かんでいた。


「ご、ごめん! 俺、声を――」


 すぐさま、俺は謝ろうとする。


 しかし、それよりも早く、梨乃は椅子から立ち上がると、てててて、と小走りで駆け。


 そして、ベッドに頭からダイブした。


「あ……」


 おそらく、泣いている。


 彼女は枕に顔を埋め、肩をふるわせている。


 そうなってしまえば、俺がこのままここに居るのも、悪い気がしてくる。


「……ごめん」


 もう一度謝り、俺は部屋を出ることにする。


「修太郎さん……」


 そこで、ベッドの方から、梨乃の上擦った声が聞こえてきた。


「明日までに……反省文100枚……」

「………」


 ……しっかり、『矯正』は出されてしまった。


 俺は部屋を出て、扉を閉める。


 ふと、悪いとは思いながらも、ドアに耳を当てる。


 後ろ髪を引かれる思いで、聞き耳を立ててしまった。


 すると――。


 部屋の中から、上手く聞き取れないが、梨乃の呟くような声が聞こえてきた。




「失敗した……どうしよう……失敗した」




 ………?


 失敗?


 何のことだろう……。


 しかし、それ以上は言葉を聞き取ることが出来ず、俺は自分の客室へと退散した。


 明日の朝までに、反省文を100枚仕上げないといけない。

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