第7話 蜜香と昔

「あ、これなんかどう? テニス」

「いやいや、すぐに道具が揃わないだろ。今この場でするなら、手早く出来るやつの方が良くないか?」

「確かに……んー、中々難しいね、いざ共通の趣味を持とうってなると」


 本日、俺は蜜香の家にやって来ていた。

『結婚ごっこ』チャプターナンバー3、『共通の趣味ごっこ』をするためである。

 簡単に説明すると、料理やお酒など、共通の趣味を持って一緒に勉強するという、夫婦のたしなみの一つをやってみているのだ。

 で、いざやろうということになると、俺と蜜香は初めて気付く。

 何気に、俺達には共通の趣味が無い。

 蜜香はアクティブな運動部系で、俺はどちらかというとインドア派である。

 一緒にゲームやったりとか、遊戯施設で遊んだりすることは多々あるが、『趣味』と言えるほどガッツリしたもので共有しているものは特にない。

 なのでまずは、どんな趣味をはじめてみようかと、探すところから開始しているのである。


「っていうか、趣味ってさ、コレやろうって言って始めるものなのかな?」


 蜜香の部屋のパソコンを操作し、検索エンジンで「趣味 夫婦 おもしろい」とか色々と探している最中、蜜香がそう呟く。


「なんていうか、趣味ってもともとそれに興味のある人間が自発的に初めて、その中で共通の趣味を持つ者同士が出会っていくっていう形式だと思うんだよね。おすすめとか、あんましたことないんだよね、アタシ。自分から人にやってみなよとか、あんまり言わないタイプなんだ」

「あー、なるほど。でも、自分が好きなものとかを人に勧めて、その相手がドはまりとかしてると結構嬉しかったりするぞ」

「それはある! 沼に落としてやったぜい、って感じがするよね!」

「十分理解してんじゃねぇか」


 とか、色々と話している内に、とりあえず今回はスポーツをしようということになった。

 あまり場所や道具を必要としない、そんな手頃なやつ。


「じゃあ、ストレッチとか、ヨガとか?」

「そうそう、でも、もっとすぐに知識が無くてもできるような……あ」


 俺と蜜香は顔を見合わせ、同時に同じ言葉を口にした。


「「ランニング」」


 というわけで、一緒にランニングをすることに。

 とりあえず俺は一旦家に戻り、運動用の格好に着替えてくる。

 マンションの玄関前で合流しようという話をしていたので、準備を終えて向かうと――。


「よ、準備万端?」


 既に、蜜香が来ていた。

 上は通気性の良さそうなパーカー仕様のランニングウェア。

 下はぴっちりとしたランニング用のスパッツ。

 足下はスポーツシューズ。

 ウェアの胸ポケットにスマホを仕舞い、耳にはイヤホンを装着している。


「完全装備じゃんよ」

「んふふ、アタシ、これでもスポーツ部なので。運動関係の装備は取り揃えておりますのよ」

「いいなぁ、俺なんか中学時代のやつ引っ張り出してきたんだぞ」


 上はTシャツ、下は伸縮性の高いパンツ。

 運動用のスニーカーで、ウエストポーチに色々詰め込んでやって来た俺に、蜜香は「いいじゃん、似合ってるよ」と微笑んで言う。


「じゃ、早速行くか?」

「その前に準備運動。ストレッチしよ」

「ああ、そうだな」


 俺達は互いの体をほぐし合い、準備運動を終える。

 そして、マンションの玄関前をスタート地点とし、とりあえず近くの運動公園を目指して走ることにした。

 距離にして、3キロくらいだ。


「ペース、これくらいで大丈夫?」

「ああ、大丈夫大丈夫」


 運動能力は蜜香の方が上だ。

 だから、蜜香が俺にペースを合わせてくれる形である。

 太陽の光が差す、日本晴れの清々しい時間帯。

 俺と蜜香は、隣り合って走る。

 途中、向かい側から同じようにランニングをしているご夫婦がやって来た。


「こんにちは」


 ご夫婦に会釈され、俺と蜜香も「こんにちは」と返す。

 うーむ、なんて爽やかなやり取り。

 やはり、運動は人の心を清らかにする効果があるな。


「ね、ね、修太郎」


 挨拶を交えたご夫婦を後ろに見ながら、蜜香が呟く。


「あの人達、あたし達のこと仲の良い夫婦だって思ったかな? 自分達と同じみたいに」


 そう言って、にししと蜜香は嬉しそうに笑う。


「いや、流石にそうは思わんだろ。どう見ても学生だし、俺等」

「えー、そうかなー」

「まぁ、仲の良い夫婦には見えないだろうけど、仲の良いカップルとは思われたんじゃないか?」


 俺が言うと、蜜香は顔を赤くして「そ、そっかー。まぁ、しょうが無いか。確かに夫婦には見えないよなー。カップルに見えちゃったか、仕方がないなー」と、どこか浮ついた調子で言う。

 加えて、走りながらスキップする。

 こいつ、結構走ってるのに滅茶苦茶喋るな。

 俺、実は息が上がり始めてるんだが。


「でもまぁ、それはそれで嬉しいけどね、恋人同士に見られるのも」


 蜜香は満足顔を浮かべている。

 ………。

 そう、俺はそもそも、蜜香と恋人になりたかったのだ。

 でも、それは叶わないから、蜜香の『結婚ごっこ』という遊びに乗る形で、彼女と一緒に時間を過ごす口実を得た。

 でも、叶うなら。

 その願望も、満たしたい。


「着いたー!」


 そうこうしている内に、運動公園に到着。

 俺と蜜香はランニングを止め、クールダウンのため歩きながら風景を見て回る。

 木々に覆われた、適度な静けさに満ちた公園の中。

 隣を歩く蜜香は「はぁ、はぁ」と感覚の短い呼吸をしている。

 頬や首元に浮かぶ汗が艶めかしい。


「あ、あんまりジロジロ見るなよー」


 といって、慌ててタオルで拭う。


「しかし、結構汗掻いたな」

「そりゃ、何気に三キロ走ったわけだしね。うわー、ウェアの中むわむわだよ。下着も汗まみれ。嗅いでみる?」

「え? いいの?」

「ひゃー、へんたいー」

「お前から言ってきたくせに」


 俺は、自分のTシャツの胸元を摘まんで引っ張る。


「嗅いでみるか?」

「やったー! くんかくんか」

「お前こそへんたいじゃねーか」


 などと口先だけで戯れていたところで、俺はピタリと足を止める。


「ん?」

「どしたの、修太郎?」


 足を止めた俺につられ、蜜香も歩を止める。

 そして彼女も、俺の視線が向いている先に何があるか気付いたのだろう。

 同じく、そっちを向いたまま停止した。


「なぁ、蜜香」

「言わなくていいよ、修太郎。何考えてるか、わかるから」

「流石だな」

「一発逆転だからね、アタシ達」

「以心伝心な」


 もうニアピンさせる気もねぇだろ。

 何はともあれ、俺は思った事をそのまま口にする。


「俺達はお遊び夫婦であるけど、恋人関係を経由していないだろ」

「うん」

「だからさ、夫婦っぽい事も大事だけど……その前提である、恋人っぽいことも必要だと思うんだよ」

「なるほど。おっしゃるとおり」

「お遊びの恋人関係も踏まえたことをしよう」

「つまり?」

「つまり……」


 俺達の視線が向けられた先。

 そこにあるのは、スーパー銭湯。

 運動公園の中にある、スポーツで汗を流した人間のために用意された施設。

 屋根の上から湯気が上がり、ポカポカのお湯が沸いていますよとアピールしている。

 更に、このスーパー銭湯は中に食事処も営業しているため、入り口近くのノボリには「期間限定ケーキバイキング開催中!」という文句が踊っている。

 そんなものを見せられてしまったら、食欲大魔神の蜜香など既に目の中にハートを浮かべてゴクリと喉を鳴らしている。


「食欲大魔神というか食欲サキュバスだな」

「ま、汗も流したしな」

「そうだね、汗も流したしね」

「腹も空いてるしな」

「そうだね、お腹も空いてるしね」


 俺と蜜香は顔を見合わせる。


「銭湯からのスイーツデート、キメちゃいますか」

「ラブラブ恋人ごっこ、ばんざーい!」




 ■□■□■□■□




 というわけで、俺達は早速スーパー銭湯で汗を流す。

 そして、中にあるケーキバイキングの店に突入し、デザートを食べる。

 食欲大魔神改め、食欲サキュバスの蜜香は、ホールに並ぶケーキ達を手当たり次第に食い荒らし(文字通り)、しっかり堪能したようで「もう、お腹いっぱいだよー」とうっとりした顔で、膨らんだ腹部をさすっていた。

 こいつ、俺が呟いたしょうもない食欲サキュバスのノリに全力で乗っかっている。

 というわけで、適度な運動で汗を掻き、銭湯で汗を流し、スイーツで腹を満たした俺達は大満足のまま帰路についた。


「なんだか、充実した一日になったな」

「ね、『結婚ごっこ』って言葉に引っ張られて、夫婦っぽいことばかり意識しなくてもいいかも。恋人同士みたいなノリでも全然良いよね」

「そこはまぁ、完全にさじ加減一つだけどな」


 俺達の服は、銭湯のコインランドリーで洗濯し、乾燥を掛けて綺麗にしてきた。

 帰りの道はマイペースな速度で歩きながら、という形である。

 そして、俺達の暮らすマンションに到着したところで、だった。


「ねぇ、今から、修太郎の家に行ってもいい?」


 という流れになった。

 時間もまだあるし、特に断る理由ないので、俺達はそのままマンションのエレベーターに乗り、蜜香の家の階よりも上の、俺の家へと向かう。


「ただいま」


 玄関の扉を開ける。

 すると――玄関先に人が立っていた。

 小柄で小さな女の子だ。

 長い茶色の髪に、無垢でいたいけな顔立ちの少女。

 着ている服も、ガーリーでファンシーな、英国のお嬢様っぽいブラウスとワンピースである。


「ああ、胡桃くるみ、いたのか」


 彼女は胡桃。

 中学生で、俺の妹だ。


「あ、おかえりお兄ちゃ――」


 胡桃は俺が帰ってきたのに気付くと、顔を上げてこちらを見る。

 どこか嬉しそうなその表情は、しかし次の瞬間、俺の後ろに蜜香がいる事に気付き、一気に曇ったように見えた。


「あ、そういえば蜜香、胡桃に会うの久しぶりだよな」

「あ、うん、まぁ、そうかもね」


 俺が問い掛けると、蜜香はよそよそしく視線を逸らす。

 あ、そうか。

 俺は気付く。

 最近、しばらく蜜香が家に来ていなかった――というか、胡桃と遭遇していなかったから忘れていたが、蜜香と胡桃が会うと緊張した空気が流れるのだ。

 蜜香自身も実感してるようなので、俺の家に来るときには、できるだけ胡桃と会わないタイミングを見計らっていたのだった。

 胡桃は、やって来た蜜香をジロリと睨む。


「ちょっとお兄ちゃん、婚約者がいるのに他の女の人を家に連れ込んだりしていいわけ? 梨乃さんに告げ口するわよ」


 胡桃は、結構性格が勝ち気で、俺に対しても厳しい言い方をすることが多い。

 思春期だからだろうか。

 ただ、やはり年下の妹ということもあって、かわいいの方が勝るので特に傷付いたりはしない。

 そこが、梨乃とは違うところだ。

 それに、胡桃は頭も良く、いずれは俺と同じ高校に通いたいと目標を立てているくらいに向上心もある。

 そんな胡桃だからこそ、彼女の将来を守らなくちゃいけない、と、俺は梨乃との婚約に頷いたのだ。


「ちょっと、お兄ちゃん、聞いてるの?」

「ああ、すまんすまん、胡桃がかわいいからボウッとしちゃってた」

「か、かわっ!?」

「今日の格好とか、今まで見たこと無いな。新しい服買ったのか? 胡桃に凄く似合ってて、思わず見惚れちゃったよ。な、蜜香」


 俺が振ると、蜜香も「う、うん、アタシも似合ってると思う」と言った。


「え……そ、そう、別にお兄ちゃんに褒められても嬉しくないけど……」


 胡桃は、急に顔を真っ赤にして小声になる。

 そして、「……よかった」と、囁くように呟いた。


「というか、梨乃さんに告げ口するって、胡桃、この前梨乃さんの顔なんて見たくないとか色々言ってなかったか? あ、母さんと話してるのたまたま聞こえたんだけどさ」

「え、え!?」

「てっきり苦手だと思ってたんだが」

「そ、それは、お兄ちゃんの婚約者だからってお兄ちゃんを好き放題拘束して腹が立つからとか、そういうことじゃなくて……ああもう! うるさい、バカ! タンスの角に小指をぶつけて死ね!」


 胡桃は、そそくさと自室に逃げていった。

 それを言うなら、豆腐の角にだと思うが。

 タンスの角に小指をぶつけて死ぬのは中々至難の業かと。

 しかし、流石は胡桃だ、罵倒の言葉もウィットに富んでいる。

 それにしても、胡桃は俺と話すと、よく顔を赤くして逃げていくことがある。

 思春期だからだろうか。


「すまないな、蜜香。胡桃のこと、すっかり忘れてた」

「ううん、アタシは大丈夫」

「というか、胡桃の奴、なんだか梨乃さんのことをやけに敵視してる節があるんだよな」

「ナンデダロウネー」

「やっぱり思春期なのかな?」

「ウン、ソウダネー。オニイチャンヲヒトリジメスルワルイムシガキライナンジャナイカナー」

「どうした、蜜香? 脳をAIにハッキングされたか?」


 蜜香が、カタコトな上に早口で何かを言った気がしたが、聞き返しても「ナンデモナイデスー」としか返してくれなかった。




 ■□■□■□■□




 俺の部屋にやって来ると、蜜香は「ドーン!」と、いつもの調子でベッドの上に寝転がる。

 俺はキャスターチェアを引っ張って、背もたれ側を前にして座る。


「そういえばさ、最近あまり修太郎のお父さんとお母さんと会わないね」

「ああ……仕事で家を空けることが増えたからな」


 俺は、ちょっと言葉を濁しながら喋る。

 両親に関する話題は、正直、口にするのが億劫な部分もある。


「最近は、特にな……というか、俺の婚約が決まってからだけど」

「……あー」


 蜜香も感付いたようだ。

 親の会社のため、家のため、妹のため、俺は梨乃との婚約を受け入れた。

 それは、即ち人生の大きな選択肢の一つを強制されたに近い。

 だから、向こうも気まずいのだろう。

 あまり、顔を合わせなくなった。


「俺も、親父やお袋と、正直普通の顔でまともに会話が出来るか、ちょっと自信が無い。だから、今はこれで良いのかもって思ってる」

「……そっか」


 ランニングをし、掻いた汗を流し、腹一杯甘いものを食べ、俺も蜜香もちょっとウトウトきてしまっている。

 特に何をするでもなく、自然とリラックスタイムに突入した。

 最近あったことなんかを話す。

 部活のこととか、クラスメイトのこととか、また告白されたこととか、たわいない会話を交えていく。


「そういえばさ」


 そこで俺は、先日、梨乃と放課後の時間を一緒に過ごした件を蜜香に話した。


「へぇ、放課後デートに誘われたって事? なんだか、珍しいね」

「ああ、で、更に珍しいことがあったというか……」


 そこで、俺は梨乃に、『自分を好きか』聞かれたことを告げる。


「え、そんなことがあったの?」

「ああ」

「……で、修太郎、なんて言ったの?」


 蜜香は、どこか緊張した面持ちで俺に問う。


「いや、それは……」

「あ、うん、わかってるよ。そりゃ、梨乃さんは修太郎の婚約者だし。将来は夫婦になる者同士だし。支配階級だし。上位存在だし。発言権なんか無いよね。好きだって言うしかないよね」

「……ああ、言った」


 俺は正直に告げる。


「梨乃さんに、好きだって」

「……うん」


 蜜香はうんうんと、何度も頷く。

 わかってる、大丈夫、そんな心の声が聞こえてきそうな所作だった。

 だから、俺は――。


「でも、本心じゃない」

「……え?」

「蜜香の言うとおりだ。俺はその時、なんて答えるのが正解かって、そう考えちまった。自分の本心どうこうではなく、この質問の意図は? 何が目的で? 裏があるんじゃ無いか? そんなことを考えて、素直な気持ちになれる余裕なんてなかった。だから、梨乃さんに対して『好き』だって言ったけど……」


 俺は、顔に発生した熱を自覚しながら、蜜香に言う。


「お前に言うみたいに、素直な気持ちでは言えなかった」

「……そ、そっか」


 それを聞いて、蜜香は……。


「……んふふふふ」


 蜜香は、ものすごくニヤニヤし出した。

 太ももの間に両手を挟み込み、腰をくねくねとツイストさせている。

 完全に照れている時のリアクション。


「なんか……勝ち誇った女の顔してるな」

「な、なななな、何それ! 人を悪女みたいに!」


 ま、まぁ――と、蜜香は呟く。


「梨乃さんが、少しかわいそうだなぁ、とは思ったよ。修太郎の本気の『好き』は、アタシしか聞けないんだぁ……って思ったら」

「うーわ、悪女だ悪女。悪役令嬢だな、お前」

「シャー! 噛み殺してさしあげますわよ!」

「武闘派だ、この悪役令嬢」


 あはははと、俺達はたわいなく笑い合う。

 しかしその後、蜜香はゆっくりと口を開いた。


「でも、アタシなんとなく思うんだけど、梨乃さんは純粋に、修太郎に自分が好きなのか聞いただけなんじゃないのかな?」

「……なんで、そう思う?」

「なんとなく」

「………」


 それは。

 それは、俺も、なんとなくわかっていた。

 いや、わかっていた――と言うのは違う。

 どこかで、梨乃が本当に、ただ純粋にそう聞いただけだという可能性も、考慮していた。

 だが、それをあえて意識しないようにしていたのは。

 もしもそうなら、俺は最低の答えを言った――そう思ってしまうからだ。

 本音じゃ無いけど、仕方がないから『好き』だと言った――なんて、最低の選択をしてしまったと、そう思う。


「修太郎は、誠実だよね」


 蜜香が笑う。


「普段はがさつで適当で鈍感で忘れっぽいのに、なんだか、変なとこだけ誠実で真面目」

「……うるさい」

「ねぇ……修太郎」


 蜜香が言う。


「もしも、修太郎が梨乃さんを本気で好きになったら、いいよ。アタシとの関係なんて、忘れちゃって」

「え?」


 俺は思わず、驚きを顔に出してしまった。

 ベッドの上に両手を置き、少し背中側に重心を傾け、俯き顔となっている蜜香。

 眉尻を落とし、どこか儚げな表情を浮かべている。


「だって、それが一番正しい形だもん。そもそも、アタシ達の関係は、そういう契約だし。修太郎が辛そうで、苦しそうで、だから、アタシがその逃げ場所になりたかった。がさつで鈍感で適当なくせに、変なところで真面目だから……辛くて苦しいのに、それでも胡桃ちゃんや家族のために梨乃さんの婚約者になることを選んで、梨乃さんの婚約者として相応しい人間になろうと四苦八苦してる、そんな修太郎が心を休められる場所になりたかった。それが、『結婚ごっこ』の切っ掛け」

「………」

「だから、修太郎が幸せになれるなら。梨乃さんを好きになって、梨乃さんと幸せな本当の、ごっこなんかじゃない結婚ができるなら、アタシはすぐに身を引くから」


 えへへ、と、蜜香は無理をするように笑う。


「遠慮無く言って。アタシは、それでいいから」

「……蜜香、お前」


 俺は言う。


「なんか、お前、いい女だな」

「都合意のいい女?」

「言うなよ、自分で、そういうこと」

「そうでも言わないとやってられませんからな!」

「本音爆発じゃないっすか、蜜香さん」


 そして、俺達は軽快に笑い合い、この話はそれで終える。

 引き続き、とりとめも無く、たわいのない会話を交えていく。

 それが、そんな時間こそが、互いに最も求めているものだというように。


「そういえば、昔の話だけどさ」


 そんな折、俺はふと思い出した記憶を口にする。


「中学時代にさ、お前、俺のことを男として意識していない、とか、そういう話を友達としてたことあったよな?」

「え? そんなことあったっけ? あ、そういえばあったかも。多分、アタシと修太郎が仲良すぎて、実は付き合ってるんじゃないかって詮索された時だったかな?」

「そうそう、多分、そんな感じの話してるの、俺たまたま聞いちゃってさ。それでお前、『修太郎はあくまでも幼馴染みで、男として意識したことない』って言ってたんだよ」


 俺は照れ笑いしながら言う。


「それでさ、俺、なんか妙な気分になっちまって。何故かお前に、俺を男として意識させてやろうって、色々仕掛けたりしたんだよ」

「あー、なんか思い出してきたー。普段香水とか付けないクセに、なんか女受けしそうな匂いのデオドラントつけたり。アタシの家に遊びに来たとき『女が男を簡単に家に上げていいのかよ』とか、そんなキザなこと言ったり」

「事細かに言うなよ……なんか、当時の俺をシバキたくなってきた」

「でもまぁ、その努力は実ったよ、修太郎君」


 蜜香は、「んふふ……」と、甘い声で笑う。


「そのおかげでアタシ、ちゃんと修太郎を男として意識するようになったから」

「そうか……」

「でも酷いよ、修太郎。なんだか、アタシが悪いみたいに言ってるけどさ、それは元はと言えば、修太郎がアタシのこと女として意識してないって、そう言ったからでしょ?」

「え? そうだったっけ?」

「しかも、アタシに直接だよ」


 マジか……。

 昔の俺、やっぱりシバかせろ。

 なんつぅデリカシーの無い発言してんだ。


「多分、照れ隠しだったんだろうけど。だからアタシもムキになって、友達にそんなことを言っちゃったんだよ……本当は、ずっと前から修太郎を、男として意識してたに決まってるのに」


 そう言って、蜜香は唇をとがらせそっぽを向いた。

 ……なんとも、こそばゆく恥ずかしい空気が、部屋を満たす。


「……蜜香はさ」


 なんだろう。

 そんな話をしたからだろうか。

 俺はそこで、なんだか気分を止められなくなった。

 目の前の蜜香を、女として意識しまくって、問い掛けてしまった。


「蜜香は、なんで俺を好きになったんだ?」


 俺が問うと、蜜香は既に赤い顔を、更に真っ赤っかにさせ、ジッと虚空を見詰めて停止する。


「えー……」


 しかし、彼女も俺と同じ気分だろう。

 俺を男として、今一度意識しているのだろう。


「修太郎、昔……それこそ、幼稚園くらいの時だけどさ……」


 蜜香は少し考えた後、俺に言う。


「アタシのこと、ミッカって呼んでたでしょ?」

「え? ミッカ?」

「そう。他のみんなは蜜香、蜜香、って言うのに、修太郎ってばずっとミッカって言ってて、それで気になったんだよね」

「……え、そんなこと?」

「いや、これはあくまでも切っ掛けだよ? 修太郎っていう存在を気に掛け始めた」


 そこから、蜜香は俺との思い出話を次々に口にしていく。

 学校での遠足や社会見学、修学旅行。

 一緒に遊んだ、俺でも忘れてしまっている、事細かい記憶まで。

 数十分、俺との思い出話を楽しそうに語り、そして積み上げてきた俺への感情を伝えてきた。


「……うわ、恥ずかし! アタシ、修太郎のこと大好きみたいじゃん!」


 やがて、話の途中で我に返ったのだろう。

 蜜香は両手をぶんぶんと振り、照れ隠しに笑う。


「も、もうこれくらいでいいでしょ!? 十分伝わったでしょ! アタシがずっと、どれだけ修太郎を好きだったか!」

「………」

「ん? 修太郎?」

「………」

「え、なんで落ち込んでるの?」


 過去の思い出を嬉々として語る蜜香を前に、俺は落胆していた。

 他の誰でもない、自分自身にだ。

 ああ、俺はバカだ。

 バカだから、蜜香と居ると楽しいとか、気が合うとか、ただ漠然と好きだって、そう思ってた。

 けど、こいつは、俺のことをどれだけ好きなのか、こんなに詳しく説明できるんだ。

 なんだか嬉しいと同時に、酷く自分が悲しくなる。


「どしたの? 修太郎」

「いや、なんか、申し訳ないな、って」


 梨乃からの育成の賜か、ここ最近の俺は自己肯定感が低い。

 昔は、特に深く考えず気楽に生きていたのだが、ふとした瞬間に自分に落胆して自己嫌悪を覚えることがある。

 でも、ある意味そのおかげで、俺は自分がどれだけ蜜香が好きなのかということを、今一度意識できたのかもしれない。


「俺も、蜜香のことがどれだけ好きか言いたい……のに、上手く言葉が作れない」


 蜜香は、そんな俺を切なそうに見詰める。

 胸の中心に手を当て、跳ねる心臓を押えようとしているように見える。


「……まぁ、修太郎には無理でしょ」


 やがて、落ち着きを取り戻した声で、蜜香は言う。


「その代わり、さ」


 蜜香はベッドから立ち上がると、両手を伸ばし俺の両頬に触れてきた。


「行動で示してくれたらいいよ。修太郎が、どれだけアタシを好きなのか」

「蜜香……」

「ほら、修太郎の好きって気持ち、アタシに表現してよ」


 心地良い疲労に満ちた体は、暖かいお湯に浸かって清められ。

 甘味で胃と脳が癒やされ、まったりとした時間に没入していた。

 ……甘いものには媚薬効果があると、何か物の本で読んだ記憶もある。

 そこで、互いを男と女として意識し合う――そんなコミュニケーションを経て、俺達は出来上がっていた。

 蜜香に誘われ、俺は共にベッドへ腰を下ろす。

 蜜香は薄く微笑んだまま、俺を前に何もしない。

 でも、俺がする事ならなんでも喜んで受け入れるという、そんな気持ちが伝わってくる。

 わかっている。

 以心伝心だからな、俺達。


 俺は蜜香に口付けをした。


 触れ合わせた唇を軽く擦らせるように動かすと、くっついた粘膜がまるで互いを強く求めるように引っ張り合う。


「ん……あん……」


 自然と、蜜香の口から、そんな声が漏れ聞こえる。

 俺は一旦、動きを止める。

 当然、この程度じゃ終わらない。

 終われない。

 俺の蜜香に対する気持ちを、もっと強烈に伝えるには、もっと、もっと――。


「あ、や、やっぱり……」


 その時だった。

 蜜香が、俺の肩に手を置いた。

 突き放す――というわけじゃ無いが、抵抗の表れであるその行為を察し、俺は、蜜香の唇から自分のそれを離す。

 蜜香は顔を真っ赤にして、視線を逸らしている。


「どうして?」

「だって……」


 蜜香は、おずおずと言う。


「修太郎は、本当は梨乃さんを好きにならなきゃいけない、でしょ?」

「………」

「アタシ達、本当の結婚は出来ないんだから」

「………」

「本物の恋人にもなれないし」

「………」

「修太郎が、アタシのことをどれだけ好きでも、正しい道を歩まないとダメだって、そう思えてきて……」

「にしては、お前、どこか優越感丸出しだぞ」


 俺が指摘すると、蜜香は「んふふ」と照れ臭そうに笑う。

 自分自身に呆れているようだ。


「だって、だって、修太郎を無理やり奪っていった梨乃さんより、修太郎がアタシを一番好きだって、そう聞いちゃったらさ……」


 どこか、ヨコシマな喜びに満たされてしまった――のだろう。

 蜜香はどういう顔をしたらいいのかわからない様子で、はにかむ。


「アタシ、最低だね」

「………」

「クズだね」

「蜜香、お前……今更負い目を感じてんのか?」


 俺が問い掛けると、蜜香は「そ、そりゃあ……」と口籠もる。


「安心しろ」


 俺は微笑んで見せる。


「そんなお前と共犯を犯してる、俺だってクズだよ」


 俺達は邪道な関係を築いている。

 でも、その根底……その原初の想いは、『救い』だった。

 蜜香は俺を救いたくて、そうした。

 目の前に苦しんでいる人間がいたから。

 痩せこけて腹を空かせた子どもが目の前に居て、手にパンを持っていたから、それを与えた。

 蜜香は、それをしたに過ぎない。

 そして、そのただただ純然な優しさを、俺は受け入れたのだ。

 蜜香が罪を犯したというなら、それを受け入れた俺も同罪。

 だから、俺くらいは蜜香を肯定しないといけない。

 クズでも最低でも、そんな蜜香が俺は好きだ。


「そっか……うん、そうだよね。そんなの、わかった上でアタシは、こうしてるんだから」


 蜜香は胸を張る。


「そうだ、アタシなんで弱気になってんだろ! ごっこだって遊びだって、そういう関係を修太郎と楽しむって、そのつもりなのに! あーもー、無し無し! シメっぽいのは無し! っていうか、むしろ、開き直るくらいの気持ちでいよう!」


 と、テンションを上げる蜜香。

 そこで、俺を見て「ニッ」と笑う。


「ありがとう、修太郎」

「お互い様だ」


 俺と蜜香は、しばし見詰め合う。

 蜜香は視線を泳がせながら、しかし何度も俺の顔を見る。

 俺は、蜜香が何を望んでいるのかを既に察している。

 それで、あえて手を出さず、こうして観察しているのは、ただ単にそれが楽しいからだ。

 だって、よく考えて欲しい。

 目の前に、自分から熱烈な口付けをして欲しいと希う、かわいい女の子がいるのだ。

 そんなもん、いつまでも焦らして観察したいに決まっている、ああ、決まっている。


「修太郎……」

「………」

「わ、わかって焦らしてるだろ!」


 そんな風にしていたら、遂に頭突きをされてしまった。

 天罰と言われても仕方がない。

 でもまぁ、自業自得か。

 というか、女の子が怒ったからってストレートに頭突きしてくるってどうなんだ。

 まったく、かわいいんだか、かわいくないんだか、よくわからない奴だ。

 俺はそんな蜜香に、もう一度唇を押し当てた。

 しかし、今度は触れ合わせる程度の簡単なものではない。

 俺は蜜香の唇の隙間に舌を侵入させ、するりと彼女の口腔を一周させた。


「!」


 突然、油断していたのだろう、あまりにも一気に深奥まで来られ、蜜香はわかりやすく体を跳ね付かせた。


「ひゃ、しゅ、しゅうたろう」


 混乱まじりの、必死な声が聞こえる。

 そんな声を出されたって、こっちが困る。

 俺は自分の意思に従ってキスをした。

 どれだけ蜜香が好きなのか行動で示すための、熱烈なキスだ。

 これは、蜜香が望んだことだ。

 今更動揺したって、止めてやらない。


「あ、あ、まって、しゅうたろう、は、はげし……」


 最初こそ、俺の方が一方的に攻め立てるように、蜜香の口内をねぶっていた。


「ん、んん……あ、だめ、すご、きもちい、しゅうたろ、きもちいよ……」


 しかしやがて、蜜香の方も応えるように俺の口腔に舌を這わせ始めた。

 室内に、俺の舌と蜜香の舌が絡み合う水音と、蜜香の嬌声だけが響く。


「んん……えへへ、キス、しゅうたろうとのキス、きもちいいよ、しゅうたろ……」


 すっかり蕩けきって、甘い声を上げ続ける蜜香。

 蜜香の喉から、口から、そんな音を聞くのは初めてのことだ。

 先程、昔話をしていたためか、俺の頭の中に、蜜香の子どもの頃の姿が浮かぶ。

 普通の友達のように接してきた、小さい頃からまるでもう一人の自分のように気兼ね無く接してきた。

 いつの間にか、好意を抱き、女の子として接してきた。

 そんな娘が、俺の熱情を受けて快楽に乱れている。

 つまり、俺もヒートアップしてしまう。

 俺は手を持ち上げる。

 蜜香の首筋に触れ、肩に触れ、そして、胸の上――鎖骨当たりで指を止める。


「しゅうたろう、しゅうたろう……」


 重ねた唇の狭間から、蜜香が待てないというように俺の名を呼ぶ。

 俺は、そのまま指を這わせ、彼女の乳房に――。


「お兄ちゃん、そろそろ夜も遅いし蜜香さんを家に送った方が――」


 その時だった。

 部屋の扉が開き、胡桃が入って来た。

 そして、ベッドの上、唇を貪り合っている俺達を目撃し――石化した。

 口をポカンと開けた状態のまま、見事に石像と化した。

 無論、俺も蜜香も、突然乱入した胡桃に気付き、石化する。

 石像三体を、しばし沈黙が包み込み――。


「に、にゅぁああああああああ!?」


 瞬間、胡桃が顔面を真っ赤にして奇声を上げた。


「つ、通報! 通報通報通報!」


 そして、慌ててスマホを取り出し、緊急コールのボタンを押し始める。


「待て、胡桃! どこに通報する気だ!」


 パニックを起こす胡桃を、俺は必死に止める。

 その後、錯乱する胡桃を正常な状態に戻すのに、しばらくの時間を要したのだった。

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