第6話 梨乃からの誘い
「しかし、良いよなぁ、修太郎は。あの東城梨乃の婚約者になったんだもんな」
「は?」
その日、俺は一日の日程が終わった学校で、クラスメイト達と雑談をしていた。
「良いって言ったか? 今」
「当たり前じゃん、なんで不機嫌なんだよ?」
そう言ったのは、この教室で一番仲の良い友人――
朔の発言に、会話に参加していた他のクラスメイト達も、うんうんと同調している。
「あの大企業の経営者一族、東城家の婿養子になったってことだろ? そんなの、人生安泰じゃん」
「逆玉の輿確定なんだから、羨ましがって当然だろ」
「いや、そんな良いとこばかりじゃないんだけどな……お前等、俺と立場代わりたいか?」
「「「代わりたいに決まってんじゃん!」」」
俺の発言に、今度はクラスメイト達が怒りを露わに叫ぶ。
「そもそも何よりも! あの東城さんと将来を誓い合う仲になったってことなんだぞ!」
「あの滅茶苦茶美人の東城梨乃さんの! 俺、一年の時からずっと好きだったのに! 俺の方が先に好きだったのに!」
「そんなの、お前以外にも何人もいるわ! 東城さんに憧れてた奴!」
「気品に溢れた雰囲気! 大和撫子を絵に描いたような存在感! どこか近寄りがたいミステリアスな感じで、本当に同じ人間なのかも疑わしい!」
「ほんとほんと、人形にしか見えないよな」
「俺は別世界からやって来た異種族のお姫様だと思う」
「それはお前の妄想だろ」
などと、クラスメイト達は口々に好き勝手な事を言っていく。
やはり、所詮外からはその程度の認識なんだな、と、俺は思った。
東城梨乃と婚約する。
その結果陥る艱難辛苦を、こいつらは知らないのだ。
「で、東城さんってどんな感じなんだよ、修太郎」
そこで、朔が俺の肩に腕を回し、顔を寄せて聞いてきた。
「ん? どんな感じって?」
「決まってんだろ、俺達の話聞いてたか? 東城さんって、まったく生活感が見えないだろ? どんな人間なのかわからないというか……そもそも、俺達じゃ日常会話すらさせてもらえないというか」
「話し掛けに行きゃいいじゃねぇか」
「行けるわけないだろ! 恐ろしい! 気安く近寄れるか! でさ、東城さんって普段どんな感じなんだ? どういう会話するんだよ、お前。なんつーか、その……婚約者っぽい話とか、するのか?」
「………」
さて、どう答えたものか。
普段の梨乃は、俺を自身の伴侶に育てるために、生活スタイルから行動、服装から歩き方に至るまで細かいところまでネチネチと指示してくる――そんな監視と支配に満ちた、夫婦や恋人どころではない生活をしていますと、正直に言ってしまって良いのだろうか、いやそんなわけがい(反語)。
そんなことを素直に口にすれば、その時点で俺の命はない。
梨乃からどんな『矯正』……いや、どんな折檻がされるかわかったものではない。
「んん……そうだなぁ、普段かぁ……」
ここは、どう答えるのが正解か。
間違いなく、梨乃とは仲良く、円満で幸せに満ちた生活を送っている――と、そう答えるのが正解だ。
だから、俺はそう嘘を吐く。
「仲良くやってるよ。一緒に勉強したり、遊んだり……」
「へぇ、東城さんと、どんなことして遊ぶんだ?」
「え? あー……か、カラオケとか?」
「カラオケ!? 東城さん、カラオケに行ったりするのかよ!」
おっと、先日蜜香と一緒にカラオケに行ったばかりだからか、その時の記憶を思い出してしまった。
「んん、まぁ、そればっかじゃないけどな」
「他には?」
「後は、あー……家でゲームしたり?」
「あ、あの東城さんがお前の家で一緒にゲームとかするんの!?」
しまった、まただ。
蜜香との記憶が差し込まれてくる。
やっぱり、楽しい幸せな記憶を思い出そうとすると、あいつとの思い出ばっかり出てきちゃうんだよな。
「はぁー……なんか、意外だな。というか、お前そんな楽しい生活送ってるくせに、よくそんな平気な顔してんな」
「こいつさっき、代わりたいか? とか言ってたぜ?」
「自虐風自慢かよ、腹立つ」
「………」
俺の話を聞き、朔及びクラスメイト達は嫉妬に満ちた目を向けてくる。
いや、さっき話したのは全部存在しない記憶なんだけどな。
「あー、いいな、代われるなら代わりてぇよ。俺だって東城さんの婚約者に――」
「私が、何?」
気付くと、梨乃が俺のクラスを訪ねてきていた。
クラスメイト達がたむろしていた俺の机の近くまでやって来ており、そこで自分の名前が出たので反応したのだろう。
梨乃が居る事にそこで初めて気付いた俺もクラスメイト達も、慌てふためく。
「と、東城さん!? あ、いえ、な、なんでもな……」
「……修太郎さん」
梨乃は、あわあわするクラスメイトを無視し、俺を見る。
「帰りましょう」
「あ、ああ」
俺は急いで立ち上がり、鞄を掴む。
後ろで「お、俺、初めて東城さんと会話しちゃった!」「いや、してねぇだろ」と騒いでいるクラスメイト達を尻目に、梨乃と共に教室を出る。
「め、珍しいな、俺のクラスに来るなんて」
梨乃の方から俺を迎えに来るなんて、初めてのことだ。
いつもは、集合場所を決めて合流していたから。
「……何の話をしていたの?」
前を歩く梨乃が、そう言った。
「あ、ええと」
「私の名前が出たという事は、私の話をしていたのでしょう? 何を話していたの?」
……怒ってる、のか。
いや、当たり前だ。
自分のことを話題にされ、自分の知らないところで勝手に話をされ、良い気分になるはずがない。
俺は短く「ごめん」と謝る。
「その、普段の梨乃さんとは、どんな風に接してるのかとか、どういう風に一緒の時間を過ごしてるのかとか……そんな、どうでもいい話だ。ああ、当然、梨乃さんとは楽しい時間を過ごしてるって、そういう風に、言っておいたけど……」
「……そう」
そこで、梨乃が立ち止まり、振り返った。
「一緒にカラオケに行ったり?」
「……え?」
「家に遊びに行って、ゲームをしたり?」
「あ、いや……」
うああああああ! ガッツリ聞かれてた!
やべぇ! 完全に嘘を吐いたのがバレてる!
「そんなことをした記憶、あったかしら」
「……いいえ、ごめんなさい、無いです、存在しない記憶です」
これは……選択肢を間違ったかな。
当たり障りないようにフォローしたつもりが、梨乃には適当にホラを吹いたという印象を与えてしまったようだ。
どうして俺は、毎度毎度、選択をミスっちまうのか……。
「……つまり、修太郎さんは、そういう風に私と過ごしたいということなのね」
「え?」
そこで、梨乃が小さく呟いた。
俺は、頭半分ほど背の低い梨乃を見下ろす。
美しい、黒い前髪の下――落とされた視線。
微かに、その目尻から頬に掛けて朱に染まって見える。
「修太郎さん」
「は、はい」
「……今日の放課後は、車での迎えはいつもの時間よりも遅らせるように言ってあるの」
「え?」
梨乃の口から出た、思い掛けない言葉。
いつもよりも、迎えの時間を遅らせている?
まさか、今日は長時間を使って俺をなぶろうとしているのか……と思ったりもしたが、なんだか梨乃は様子がおかしい。
「修太郎さんと、少し街を歩きたいと思って」
「ま、街を?」
「息抜きよ」
そう言って、梨乃は微笑んだ。
もしかしたら、はじめて見たかもしれない、梨乃の純粋な微笑みだった。
「修太郎さんも、そういう風に私と過ごしたかったのよね。ちょうどよかったわ」
■□■□■□■□
そして俺は梨乃と一緒に、放課後の街中へと繰り出した。
夕方の、まだ日が落ちきる前。
家路に向かう人々の雑踏に混じって、学生同士、たわいない時間を共に過ごす。
つまりは、放課後デートである。
……放課後デート、でいいのだろうか。
いや、梨乃にそんな認識は無いと思うが……。
「修太郎さん、なんだか、クレープが食べたいわね」
特に行く当てがあるわけでもなく彷徨っている内に、幾つものテナントが集合した大型商業施設の敷地に辿り着いた。
そこの広場に停まっている、クレープ屋のキッチンカーを見掛けた時、梨乃がそう言った。
「あ、ああ、ちょっと待ってて」
そう言われたなら、俺の取る行動は一つだ。
キッチンカーに向かい、メニューボードを借りて帰ってくる。
そして、梨乃に何が食べたいかお伺いを立て、それを買ってくる。
ちなみに、梨乃は今回もチョコミントアイスのクレープを選択した。
前回でハマったのだろうか?
「はい」
「ありがとう」
俺は、買ってきたチョコミントアイスのクレープを、キッチンカー横に設置されたテラス席に腰掛けている梨乃に渡す。
ちなみに俺は今回、ソーセージサラダというのをチョイスした。
レタスやツナのサラダの中に、ホットドッグよろしく熱々のフランクフルトの挟まれたものである。
学校終わりで結構腹も空いていたので、ガッツリしたものを食べたくなったのだ。
梨乃は、俺の手に持つソーセージサラダのクレープを見て、ギョッとした表情をしている。
「クレープって、おやつではなかったかしら」
「いや、こういうのもあるんだよ。ミールクレープっていう種類で」
「そうなのね」
チョコミントアイスのクレープを、小さな口でパクパクと啄みながら、梨乃は言う。
「今度は、それを頼んでみようかしら」
「お、おう……」
ミールクレープを食べる梨乃。
想像がつかない。
前回クレープをご馳走したのが切っ掛けで、もしかしたらクレープそのものにハマってしまったのかもしれない。
「ごちそうさま」
クレープを食べ終わると、梨乃は視線を持ち上げた。
彼女の目は、広場の上に吊された大きな看板に向けられている。
それは、この商業施設内にある映画館の告知看板だった。
「映画館に行きたいわ、修太郎さん」
「え……」
梨乃が、映画を。
珍しい……。
と思うが、よく考えたら違う。
梨乃だって、別に映画を観ないはずがない。
好きな映画や、観たい映画だってあるはずだ。
彼女にそんな印象がないのは、俺が梨乃の趣味や嗜好をまったく把握していないからである。
彼女がクレープを食べただけで驚いていた俺だ。
俺は現状に至るまで、婚約者である梨乃の事を何も知らなかったのだ。
……まぁ、それも無理からぬ話といえば、そうだと思えるのだが。
「映画……ちょうど、そこのエスカレーターで三階に上がれば、すぐに映画館だな」
俺は、梨乃に問う。
「何か、観たい映画があるのか?」
「……特に無いわ」
無いのかよ。
俺はプラスチックチェアの上で体勢を崩しかける。
「修太郎さん、おすすめの映画を教えてちょうだい」
「え、俺?」
「それを観たいわ」
……もしかして……と、俺は気付く。
俺は今日、試されているのか?
クレープのメニューに、映画のチョイス。
そういったもので、センスの善し悪しを計られているのでは。
だとしたら、コレはよくよく考えないといけないぞ。
終わった後に、『こんな映画を観させるなんて、あなたの低俗な感性には呆れて反吐が出そうだわ』とか言われかねない。
いや、そこまで言われるかはわからないけど。
「そ、そうだな……」
俺は公開中の映画のラインナップを見ながら考える。
最近のドラマやアニメの劇場版なんてもってのほか。
チャラチャラした恋愛映画や、R指定のあるホラーやサスペンスなんかも除外。
となると……これだな。
俺は、昔の名作海外映画のリバイバル上映を選択した。
■□■□■□■□
………。
退屈な映画だった。
聞いたことのあるタイトルだと思って選んだが、白黒だし、画像は粗いし、間とかテンポなんかもなんだか冗長だし。
いや、仕方がないのだろうけど。
昔の名作とはそういうものなのだろうけど。
思い入れがなくちゃ楽しめないだろうし、何より別に好きで観た映画じゃないし。
でも、梨乃のお眼鏡には敵ったんじゃないかな?
「修太郎さん」
映画館を出た直後、梨乃が言った。
「今の映画、本当に修太郎さんが観たい映画だったの?」
「……え」
「修太郎さん、上映中居眠りをしていたわよね」
「………」
どうやら、梨乃にはバレバレだったようだ。
「私は、修太郎さんの観たい映画が観たいと言ったのよ」
「ごめん、梨乃さんなら、どんな映画が好きかと思って」
俺は正直に言う。
言い訳をしたって、最終的には俺が怒られる流れになるのだ。
なら、余計な事は言わず最短の会話にする。
しかし、そこで、梨乃は目を見開いた。
驚いたようなリアクションだ。
「私の……好みに、合わせてくれようとしたのね」
そう言って、そっぽを向く。
「それは……ありがとう」
「あ、いや」
「でも、残念ながら私の好みでもなかったわ」
梨乃はもう一度、修太郎を見る。
「今度こそ、修太郎さんの好きな映画を選んで」
というわけで、俺達はそこから、もう一本映画を観た。
最初の映画が30分の短編映画だったということもあり、時間的な余裕はあった。
次に俺が選んだのは、海外のアクション映画。
最新のCGをふんだんに使った、派手な内容のものだ。
蜜香と、面白そうだな、と、この前盛り上がって観に行こうと言っていたのだ。
「とても迫力のある映画だったわね……」
上映が終わり、俺達は再び映画館の外に出る。
そこで、梨乃がそう感想を漏らした。
胸を押え、どこか疲れているようにも見える。
「梨乃さんは、あまり楽しめなかったか」
やっぱり、俺と梨乃では趣味が合わないようだ。
ごめん、と、俺は謝る。
「そんなことないわ、楽しめたわよ」
するとそこで、梨乃が振り返り、少し興奮した様子を見せる。
意外なリアクションに、俺は驚く。
「修太郎さんの好きなものが知れて、楽しかったわ」
梨乃は、そう言った。
■□■□■□■□
その後、俺達は商業施設の四階に向かった。
そこは屋上で、造花や観葉植物が並ぶ広場となっている。
観葉植物にデコレーションされたイルミネーションが輝いており、夜空の下、幻想的な風景が作り出されていた。
俺と梨乃は、ベンチの一つに腰掛ける。
………。
ただ黙って隣り合い、時間を過ごす。
そういえば、迎えの時間を遅らせたと言っていたが、いつ帰るのだろう?
それを聞いていなかった。
ただただ梨乃に引っ張られて、ここまで来てしまった。
「梨乃さん、帰りは――」
そこで、気付く。
梨乃の視線が、真っ直ぐ前を向いている。
その視線を追うと……目前を通行中のカップル、その繋ぎ合わされた手を見ていたようだった。
「修太郎さん」
「あ、うん」
「手を、繋いでいるわ」
「あ……うん」
「手を繋いでいるわね」
梨乃は繰り返す。
……体への接触は、婚前では御法度のような発言が以前あったのだが。
でも、これだけ言ってくるということは、そういうことで良いのだろうか……。
「手、繋ぐ?」
俺は、恐る恐る聞いてみる。
梨乃は、小さく頷く。
俺達は、ベンチに腰掛けたまま手を繋いだ。
以前、俺は蜜香とベンチに座った状態で手を触れ合わせた事がある。
今回の相手は梨乃なので、その時よりも緊張感が強い。
それでも、俺が触れると、梨乃の手は一瞬ピクンと反応し、そして、震えながら俺の手を握り返してきた。
蜜香の指よりも細く、そして、冷たい。
まるで彫像に触れているような、すべすべとした滑らかな触り心地だ。
……俺は今、梨乃と手を繋いでいる。
なんだか珍しいことをしているようで……不思議なドキドキが、心中に訪れる。
「あ……修太郎さんは」
そこで、だった。
梨乃の口が開き、小さな呟きが漏れ聞こえる。
彼女は顔を真っ赤にし、たどたどしく言葉を紡いでいる。
「……私のこと、す……」
「え?」
「す、好き……え?」
「え?」
「え、え?」
「え? ええ、え?」
「……え?」
緊張しているのか、混乱しているのか、梨乃は自分の発言すらよくわからなくなり、パニックを起こす。
結果、会話が滅茶苦茶になる俺達。
「え? ええと……え?」
「え? す、好き? 修太郎、さん、私が、え? 好きなの?」
「え? いや、なになになになに、どうした、梨乃さん?」
梨乃よりも先に、まず俺が一旦冷静になろう。
俺は今、彼女から好きかどうか聞かれている。
「そ、それは……」
「え……え? 好きじゃ、ないの?」
梨乃は俺が戸惑いの表情を浮かべているのを見て、悲しそうな顔になった。
いつも鉄面皮で、凜然としていて、何事にも揺るがなさそうな梨乃の顔が、悲哀に満ちている。
その顔を見て、俺は素直に胸を締め付けられた。
と同時に、混乱する。
これは、どういう意図の質問だ?
俺達は婚約関係だ。
将来は夫婦になる者同士だ。
なら、その質問には『イエス』以外の選択肢は無いじゃないか。
本音がどうかではなく、正答が一つしか用意されていない質問だ。
しかも、相手は梨乃。
この質問の裏に、別の意図が隠されている可能性も否めない。
梨乃は一筋縄じゃいかない。
何も考えず、直感で判断してきた結果、俺はいつも梨乃の期待に反する事をしてしまっていた。
その度に梨乃を落胆させてきた。
じゃあ、今回は一体どんな意図が?
俺は悩む。
大いに悩む。
そこで気付く。
いや、悩んじゃダメだ、と。
彼女は俺の婚約者、答えは一つしかないはず……。
けれど、こんな質問は初めてのこと。
考えれば考えるほど、俺は困惑する。
「い、いいえ、いいわ! やっぱり、いい!」
そこで、俺があまりにも言い淀む……というか、悩んでいたため、梨乃は大慌てで前言を撤回しそっぽを向く。
目をギュッと閉じて、恥じらうその横顔が、なんだか妙に切なく、かわいく感じた。
「……好き、だよ」
この質問にどんな意図があるかは、結局わからない。
わからないから、俺は素直に最善解を口にする。
婚約者として、自分は相応しい言動をしないといけない。
梨乃との関係を、狂わせてはいけない。
家族のため、蜜香のため。
だから、ハッキリと答えた。
「そ、そう」
それに対し、梨乃は振り返ると、顔を真っ赤にして顎を引く。
「す、好きなの、私が……」
「あ、ああ」
「……そ、そう」
ぽーっとしている。
いつものキリッとした表情は消え失せ、その顔立ちは、なんだか幼くなったようにも見える。
いや、年相応の顔になった、とも言えるか。
彼女は東城家の令嬢という凄まじい肩書きこそ持ってはいるが、まだ俺と同じ、17歳の女の子だ。
「あ」
そこで、梨乃が何かに気付いたように声を漏らした。
彼女の視線を追うと、前方、目映く輝くイルミネーションに彩られた樹木の影で、一組のカップルが抱き合っていた。
そして、互いに唇を重ねていた。
キスをしている。
夜で人通りが少ないとは言え、堂々としているな。
若いというのは凄い事だ……と、自分達と大して年齢も変わらなさそうなそのカップルを見て、俺は思った。
「………」
一方、梨乃は、そんなカップルの方をただジッと眺めていた。
その視線は、低俗な行為に耽る者達を見下すようなものでも、破廉恥なものを目にしてしまったゆえに軽蔑の意思を飛ばすようなものでも、どちらでもない。
ときめいているような、憧れているような、強い興味に満ちた視線だった。
カップルも、そんな梨乃の視線に気付くと、いそいそとその場から去って行った。
カップルを退散させるほどの目力、流石である。
「………」
「………」
「………」
「………」
「……興味、あるのか?」
不意に、俺はそう呟いていた。
瞬間、梨乃はバッと、首がもげるんじゃないかというほどの勢いでこちらを振り向いた。
「な、ななななな、なな、何を……」
「あ、いや、ごめん……俺としたことが、何言ってんだか……すみません、忘れてください」
俺はすぐに謝る。
余計な事を言って、何度彼女の気を損ねたり呆れさせたりしたことか。
機嫌を悪くさせ兼ねないと、だから俺は即座に謝罪を口にした。
「…………あるわ」
しかし、だった。
次の瞬間、梨乃は視線を斜め下に傾けながら、そう呟いた。
「え……」
「……ある」
「………」
「……ある、わよ」
「………」
「……ある……興味ある」
「あ、ごめん、大丈夫、聞こえてる」
俺が言うと、梨乃はチラリと視線を上げ、俺を一瞥するとすぐに視線を逸らす。
その目は、どこか潤んでいるようにも見えた。
「……修太郎さんは?」
「え……」
「私は……口付けに、興味があるわ。修太郎さんは?」
「………」
これは、つまり、そういうことか?
梨乃は、俺とキスがしたい、と、そう言っているのか?
一体、どういう風の吹き回しだ。
いきなり、放課後デートのような時間を過ごしたいと言い出し、買い食いをし、映画を観て、手を繋ぎ、好きかどうかを確認し……更に、キスをねだられているのか?
いや、婚約者同士なのだから、こういう事をするのも別に何の問題も無いのだけど。
今まで、一度もこんなことなかったぞ。
こんな、普通の恋人同士のような時間。
婚約者というだけの、支配と教育に満ちた日々だった。
なのに、突然、こんな……。
「修太郎さん」
キッと、梨乃が俺を睨んできた。
いや、睨んでいるわけじゃない。
おそらく本気だと。
真剣だと。
そういう意思を伝えるために、顔に力を込めたのだろう。
そして、そんな顔で、彼女は心からの本音を口にする。
「私は、修太郎さんとの……口付けに、興味があるわ」
「………」
蜜香は、いつもどこか飄々としている。
明るくてお茶目で、気兼ね無く友達のように接することができる。
でも、キスをするとき、彼女は自分からは何も言わない。
俺に察させ、俺の方からしてくるように仕向ける。
それは、あいつが実は照れていることや、俺になら何がしたいか伝わるからという信頼の表れでもあるのだが――それに対し、梨乃は違う。
真面目で、頑なで、本気でハッキリとしたいことを言う。
それは彼女の性格もあるだろうが、どこか色恋に慣れていない、幼い子どものような感じも伝わってくる所作であり。
俺は、そんな梨乃に、初めてときめいてしまった。
「修太郎さん」
「……梨乃、さん」
そして、ここで引き下がったり、躊躇すれば、梨乃に怪しまれる。
至極自然な流れなのだから、拒んではいけない。
そんな風に思いながら、俺は、梨乃に顔を寄せる。
鼻先と鼻先が触れる。
俺の唇に、梨乃の柔らかい唇が触れた。
ぷちゅっ……と、そんな音がした。
「っ!」
瞬間、梨乃がものすごい勢いで顔を引く。
多分、唇が触れた瞬間、梨乃が唇を開いたので、それで音がしてしまった。
濡れた粘膜がこすれた音。
別に恥じるようなことじゃない、キスすれば起きる可能性のあることだ――と思ったのだが、おそらく初めてキスをしたであろう梨乃からすれば恥ずかしかったのかもしれない。
両手で口元を多い、顔を真っ赤にして、目を見開いている。
瞳の中に渦巻き模様が見える気がする。
「……気にする必要ない。唇が触れれば、起こりうることだ」
俺は、フォローする。
妙にかっこつけた口調になってしまった。
「そ、そうね……」
梨乃は髪を手櫛で掻きながら、平静を保とうとしている。
俺は、やはりそんな梨乃の姿がおかしく、クスッと小さく笑った。
「……修太郎さん」
そんな俺に、天罰が下った。
「なんだか、修太郎さん、妙にキスをするのに慣れているように感じたのだけど」
「え……え?」
「修太郎さんは、初めてじゃなかったのかしら?」
「あ、いや、ええと……ああ、まぁ、中学時代とか……」
「……そう。いえ、何もおかしな事ではないのだけど」
そこで梨乃は、むっとした顔で俺を見て来る。
なんだか、ご機嫌が斜めの様子だ。
「ところで修太郎さん。もうすぐ定期試験が近付いているのだけど、勉強の方は捗っているかしら?」
「試験? ……ああ、でもまぁ、まだ時間は一ヶ月先だし……」
「一ヶ月先? 随分と余裕ね。私見だけど、修太郎さんにそんな余裕を見せていられるような学力は備わっていないと思うけれど。前回の定期試験の順位は?」
「ひゃ、190位です」
「学年の人数は?」
「……200人です」
「『矯正』が必要ね」
梨乃は目を光らせる。
「今夜から、私が一日の宿題を設定するわ。翌日にはその成果を報告するように」
「………あい」
心の中で、「ぐはぁっ!」と会心の一撃を受けたような声を上げ、俺は項垂れる。
梨乃はベンチから立ち上がると、そんな俺を振り返って見て。
「……私より先に、キスをしてた罰よ」
「え?」
「なんでもないわ。そろそろ迎えの車が来るから、行きましょう」
そう言って足早に歩き出した梨乃の顔は、まだ火照って桜色に染まっているように見えた。
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