第5.5話 東城梨乃の日課


「お嬢様、最近どうですか? 修太郎様との仲は」


 東城の屋敷の一角に、まるでファンタジーの世界から抜け出してきたかのような、優雅なテラスがある。

 日の光が目映く差し込む、ガラス張りの壁と天井。

 温室の役割も満たしているようで、そこかしこに芳しい花や青々とした植物が育っている。

 どこからともなく小鳥のさえずりが木霊す、幻想的な風景の中。

 その中心に設置された、これまた優雅な意匠のテーブルと椅子に腰掛け、二人の女性が向き合っていた。

 片方は、梨乃。

 もう片方は、使用人だった。

 金色の長い髪で、前髪で片目を隠している。

 メイドのエプロンを纏った彼女は、テーブルの上のティーポッドを手に取ると、カップに紅茶を注ぐ。

 その所作は手慣れたもので、一分の隙も無い。


「ありがとう、千雪ちゆき


 差し出されたカップをソーサーから持ち上げ、梨乃は口元へと運ぶ。

 適温で淹れられた紅茶を嚥下し、堪能したように吐息を漏らすと、梨乃は改めて口を開いた。


「進捗は、残念ながら順調とは言えないわ」


 梨乃は、自身の婚約者――修太郎が、自身の夫――即ち、東城に相応しい人間として育っているか……。

 そんな話を、お付きのメイド、千雪と話していた。


「教育は着実に進んではいる。でも、まだまだよ」


 そこで、梨乃は傍らから原稿用紙の束を取り出した。

 彼女が修太郎に課した『矯正』――ここ最近書かせた、反省文の数々だ。


「直近だけで、これだけ反省点が出た証拠。彼を東城の名に相応しい人材に育てるには、まだまだ道のりは長そうね」

「………」


 そう言いながらも、手にした反省文に目を落とす梨乃の表情が、どこか満足げというか、嬉しそうなのは気のせいだろうか。

 と、千雪は思う。


「お嬢様」


 自身も紅茶を口に含み、千雪は言う。


「修太郎様を婚約者に選んだのは、お嬢様です。今更言うことでは無いかもしれませんが、お嬢様には、東城家の女でありながら修太郎様を自身の未来の配偶者に選んだという責任があるのです」

「……無論、わかっているわ」

「修太郎様に対しても、ですよ」

「………」


 修太郎は、梨乃の家――東城家の運営する企業、その下請けも下請けの子会社を経営する家の息子である。

 そして、今回の婚約は、梨乃が自ら進んで当主――梨乃の父親に提案したことなのだ。

 修太郎が梨乃の婚約者になったのは、表向きは大日向家の会社の支援の引き換え――つまり、借金のカタのようなものという事になっている。

 だが、よく考えてみれば不自然だろう。

 何故、大企業の経営者一族である東城が、自身の支配する下請けも下請けの子会社のせがれを、血族の婚約者などに選ぶのか。

 支援と引き換えとは言うが、そもそも取引として成立していないように見える。

 真実は単純だ。

 修太郎を婚約者にしたいと言い出したのは、梨乃の選択なのだ。

 当然、梨乃の父は勿論、関係者の多くから猛反対を受けた。

 それでも、梨乃は修太郎を婚約者にすると言って譲らなかった。

 結果――喧々囂々、数々の物議と騒動を経たものの、梨乃の希望は通った。

 但し、梨乃には、そこまでして選んだのであれば、修太郎を東城の一員として一人前の存在に育成せよと、それが将来の伴侶の勤めだと、役目が課せられたのだった。


「旦那様から言われております。もし、お嬢様が下らない理由、何かの悪ふざけで修太郎様を婚約者に選んだと漏らすようなことがあるなら……」

「私は本気よ」


 梨乃は言う。

 その眼力は、生半可なものでは無い。


「私は本気で、修太郎さんを未来の伴侶に選んだの。だから、その為に必要な教育、その為に必要な『矯正』を施しているの。先日も、食事会の席でお父様から手酷い言い草をされたけれど、私は諦める気は無いわ。千雪、それだけは絶対よ」

「……そうですか」


 千雪は溜息を吐く。

 彼女の意思は固い。

 ……いや。

 千雪には、『何故、東城梨乃が大日向修太郎を婚約者に選んだのか』――その理由がわかっている。

 だから、今更彼女の想いが冗談や洒落などではないということも、よくわかっている。


「それで、お嬢様。今日は、わたくしに何の相談があって、このお茶の席を設けたのですか?」

「……先程も言ったけれど、修太郎さんの育成は、道のりは長いとは言え順調よ。着実に、東城の名にふさわしい人材に育っているわ」

「そうですか」

「……ただ」


 そこでふと、梨乃が頬を朱に染め、顔を俯かせる。


「最近、修太郎さんが、その……私に」

「……なんですか?」

「私に……ごにょごにょ」

「今、ごにょごにょと言いましたか? お嬢様。実際にその擬音を口に出す人間をはじめて見ましたが。何を誤魔化しているのですか。ハッキリおっしゃってください」

「……修太郎さんが、私の体に触れようとしたの」


 梨乃は、小さく呟くように、そう言った。


「触れようと……それはつまり、梨乃様に肉体関係を迫ろうとした、ということですか?」

「く、口を慎みなさい、千雪! 私達はまだ婚約を結んだばかりの高校生よ!」


 千雪の直接的な発言に、梨乃は声を大にして叫ぶ。


「いや、今体に触ろうとしたと……」

「車の中で、涙を拭こうとしてくれたのよ」


 梨乃はその時の事を千雪に説明する。


「はぁ、それならそうと先に言ってください。紛らわしい」

「それにね、先日一緒にお父様のお知り合いが開催された個展に伺った日、帰りにクレープを一緒に食べたの。修太郎さんが、自分から買ってくれたのよ。私の分も」


 そこで、梨乃はチラリと上目遣いで、千雪を見る。


「ど、どう思う?」

「……どう、とは?」

「修太郎さんは、私を、その、女として意識し出しているのかしら?」


 顔の火照りを押えるように、梨乃は左右の頬にそれぞれ手を当てる。


「つまり、体に触れようとしたり、一緒に美味しいものを食べたり、そういう事をしたいと思うのは、私をちゃんと、自分の妻になる人間だと意識し出したということでしょう?」

「……はい、まぁ、そうですかね」


 ティースプーンで紅茶を掻き混ぜながら、千雪は適当に返す。


「そ、そんなにスカポンタンな事を言っているかしら!? 私!?」

「いえ、別に呆れているわけではありませんよ」


 というのは建前で、実際、千雪は呆れている。

 つまり、梨乃はこういうことを言いたいのだ。

『最近、修太郎が自分にアプローチを仕掛けてきている気がするけど、どうしていいのかわからない』と。


「……妻になるとか、婚約者として相応しい人間に育てるとか、大層なことを言ってはいますが、結局お嬢様は初心な乙女ですね」

「何か言ったかしら、千雪」

「お堅い風に見えて恋愛の『れ』の字もわかっていないポンコツお嬢様だと言ったんです」

「そこまでは言ってなかったでしょう!?」


 梨乃は少し目を潤ませ始める。


「私は真剣に相談しているのよ、千雪! こ、こういう時、私は修太郎さんにどう接すれば――」

「まぁ、それがわからないのは、仕方がない事でしょう」


 困惑する梨乃に対し、千雪は溜息を吐き、言う。


「何せ、お二人はいきなり婚約者という関係になった者同士。恋人という期間を過ごさず、突然夫婦になることを決定づけられたのです。更に、お嬢様は修太郎様を東城の名に相応しい人間に育てる、その事を第一最優先とし今日まで修太郎様に接してきました。不測の事態に陥れば、お嬢様が困惑し、どうすればいいのかわからなくなるのも当然のこと」

「……正直に言うと、あれから修太郎さんにどう接していいか、少し迷っている部分があるの」


 唇を窄め、梨乃は呟く。

 この子どもっぽい表情は、彼女が唯一気を許す千雪の前でのみ見せる顔だ。


「今まで通り、ビシバシ彼を育成する良妻として振る舞えるか、ちょっと戸惑っているわ」

「自分で自分を良妻と言い切れるだけのふてぶてしさがあれば十分じゃないですか? まぁ、とは言え、それならやるべき事は一つでしょう」


 千雪は言う。


「先程も言いましたが、お二人は恋人という期間を経ておりません。多くの者にとって、結婚とは恋愛の延長にあるものと考えられています。恋を交わした者同士が選ぶ、あくまでも未来の選択肢の一つ。なので、お二人の仲を、まず恋人から始め直してみるというのはどうでしょう」

「そんな、恋人から始め直すなんて……」


 千雪の言葉に、梨乃は当惑する。


「そんなことにうつつを抜かしていたら、お父様達に何と言われるか……」

「お嬢様、あくまでも遊びです」


 そんな彼女に、千雪は淡々と説明をする。


「婚約関係は持続しつつ、その傍らに、息抜きとして遊んでいるだけだと。張り詰め過ぎると教育の効率も落ちる。あくまで考えがあっての戯れの類いだといえば、流石に旦那様もそこまで厳しく叱責はしないでしょう。それで修太郎様との仲も良好になり、更に修太郎様自身の育成に対するモチベーションとなれば一石二鳥」

「遊び……」

「そう、言わば……ごっこ遊びを提案するのです」


 紅茶を優雅に嚥下し、千雪は言う。


「つまりは、『恋人ごっこ』です」

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