第2話 東城梨乃

 俺と梨乃が婚約者の関係になったのは、一ヶ月程前のことだった。

 俺の家――大日向家は代々、家業の会社を経営している。

 とは言えそこまで大それた会社ではない。

 なんとか頑張って経営を切り盛りしている、中小企業の中でも「小」。

 小も小の方に分類されるような会社だ。

 だからだろう。

 物価高に、荒れ狂う世界情勢。

 不景気に不景気が重なる今のご時世、大日向家の会社の経営はかなり厳しい状態に陥ってしまっていたようだ。

 俺も、なんとなくその気配は察知していたが、それでもそこまで大変な状況になっているとは思ってもみなかった。

 ある日、俺は親父とお袋に呼び出され、会社の運営がヤバい事になってしまっている旨を告げられ、そして続いて、頭を下げられた。

 潰れる寸前の我が家を、支援してくれる人が現れた。

 それが、東城グループ。

 代わりに提示された条件は――俺が東城家の令嬢、東城梨乃の婚約者になることだったのだ。

 当然、最初にその話を聞かされたときは驚いたし、何故自分が……とも思った。

 東城梨乃が同じ学校に通う同級生であることも知っていたし、ともかく驚きに驚きが重なって混乱状態だった。

 雲上人の考えはわからないが、だが、確実にわかっているのは、俺が東城家に売られれば、我が家は持ち直すということだった。

 ……本当は、断りたかった。

 でも、今まで世話になった両親を裏切るわけにはいかないし、何より、俺には妹がいる。

 中学生の聡明な妹だ。

 ここで交換条件を呑まず、会社が潰れれば、彼女の将来にも当然影響が出る。

 妹にも、望むように進学や人生設計をさせてあげたい。

 なので話し合った末に、俺は要求を呑み――かくして、東城梨乃の婚約者となったのだ。

 最初こそ、あの東城梨乃の婚約者になったという状況は、ふわふわとしていて現実味がなく、いまいちちゃんと把握できていなかった。

 友人達からも驚かれると同時に、逆玉の輿だ、将来の東城グループの重役だと、羨ましがられたりもした。

 しかし、その実態は喜べるようなものではなかったと、すぐに知ることになる。

 結論から言うと、俺と梨乃の相性は最悪だった。

 性格が合わない、価値観も合わない、常識も合わない、そんな彼女に振り回される日々。

 何より、梨乃は性格がきつい。

 遠目に見ている者にとってはミステリアスで上品な、どこか現実離れした美少女のように思えるかもしれないが、実際は俺を人間として認識しているのかも怪しいほど冷酷で厳粛だ。

 あくまでも東城家の一人として、俺を将来の東城家を担う人員の一人として教育してくる。

 そこに、愛情らしきものは見当たらない。

 普段の生活や、格好、仕草や思考にまで口出しをしてくる。

 本人はそれを強いり、ペナルティーを科して体に染みつかせる事を『矯正』と言ってはいるが、俺にとってはかなり精神が参る行為である。

 今風に言うなら、モラハラとかに当たるんじゃないだろうか?




 ■□■□■□■□




 本日、俺は梨乃と共に東城家を訪れていた。

 理由は、梨乃の家族にお呼ばれしたためだ。

 大豪邸と呼んで差し支えない、西洋風のお屋敷。

 長大なテーブルを前に、梨乃と横並びで座る俺。

 そしてテーブルを挟んだ向こう側には、梨乃の父親がいる。

 白髪の交じった髪をオールバックにし、口ひげを蓄えた、厳めしい雰囲気の人物。

 皺の深い顔。

 高校生の親というには結構歳が行っていそうだが、そこが如何にも大富豪という感じがする。しない?

 醸し出すオーラというか、威圧感が凄まじい。

 小市民の俺が平伏せずに相対していて良いものなのか、わからなくなってしまう。

 俺達は、色々と近況の報告などをする。

 実に、息が詰まる空間。

 食事が終わると、退室する。

 そこで梨乃だけが呼び止められたので、俺は一人、部屋の前で待つ。

 正直、食べた料理の味も、何を話したのかも覚えていない。

 しばらくすると、梨乃が出てきた。


「何か……言われたのか?」


 梨乃と父親が何を話していたのか……大体察しが付く。

 俺のことだろう。


「別に」


 梨乃はそう言うが、その態度から、父親に俺の育成が上手く進んでいない事について色々言われた様子が窺える。

 今後、その影響が普段の生活にも反映されることだろう。

 しかし、いつもよりも心の沈みは弱い。

 きっと、蜜香のおかげだと思う。

 家に帰れば、彼女がいる。

 その思いが、精神を安定させてくれているのだろう。


「やぁ、梨乃」


 そこで、東城の屋敷の中――一人の男性が現れた。

 高身長の美男子である。


「あ……」


 梨乃も俺も、その人物を見て驚く。


「君が、噂に聞く梨乃の婚約者か。梨乃、俺にも紹介してくれないか?」

「ええ……修太郎さんも当然ご存じだとは思うけど、こちらの方は……」


 知っていて当然だ。

 彼は俺達の高校で、それこそ梨乃にも引けを取らない……いや、梨乃と双璧をなすほどの有名人である。

 それもそのはず。

 何故なら彼は――。


「彼は東城霧晴とうじょう・きりはるさん。私達と同じ学校に通う三年生の先輩。そして、私の兄よ」

「会話するのは初めてかな、大日向君……ああ、僕も下の名前で呼ばせてもらっても良いかな?」


 爽やかなスマイルを浮かべる霧晴さん。

 こんな端正なイケメンにそんなこと言われてしまえば、男の俺と言えど「そんな恐れ多い事、わたくしの許可なんて必要ありません。むしろ、わたくし如きの名前など、どのようにお呼びいただいても構いません。ドブネズミでも構いません、うへへへへ」と言うしかない。

 いや、違うな、今の返事は。

 これは自己肯定力が極端に低下している今の俺特有のリアクションだ。

 そんな俺の台詞に、梨乃は汚物を見るような視線を向けてくる。

 本当に俺がドブネズミにでも見えているのではないだろうか。

 一方の霧晴さんは「ははっ、面白い奴だな、修太郎君は」と軽快に笑う。

 善い人だ。


「梨乃は、君を随分と気に入っている様子だからね。家ではお付きのメイドに君の話ばかりしているくらいだ」

「霧晴兄様」


 梨乃が鋭い視線を霧晴さんに向ける。


「修太郎さん、霧晴兄様の言葉を本気にしないように」


 続いて俺の方をギロリと睨んできた梨乃に、俺は「わかってるよ」と返す。

 梨乃の言うとおり、霧晴さんの言葉はどう考えても嘘だろう。

 梨乃が俺を気に入っているなんて、まず考えられない。

 お付きのメイドさんに零しているのも、おそらく愚痴の類いだ。

 霧晴さんは俺達の仲を取り持とうと、気を使ってそんなことを言ってくれているのだろう。

 本当に善い人だ、霧晴さん。

 この人と結婚したい。


「修太郎さん、送迎の準備が整ったようよ」


 梨乃が言う。

 使用人が何名か、遠くでこちらの会話が終わるのを待つように待機している。

 俺は霧晴さんに別れを告げる。


「また学校で会うこともあるだろうから、その時は遠慮無く声を掛けてくれ」


 そう言って、霧晴さんは手を振りながら俺達を見送ってくれた。




 ■□■□■□■□




 帰りは、東城家の車で送ってもらうことになった。

 東城家お抱えの運転手がハンドルを握る高級車は、急加速も急発進も急旋回もない。

 本当に車に乗っているのか? 謎の力で水平にスライドする箱の中にでもいるんじゃないのか、と、アホな感想が抱けるほどに快適である。

 そんな後部座席で、俺と梨乃は無言で隣り合っている。

 ……会話など当然無い。

 というか、そもそも、会話を切り出す糸口すら俺には思い付かない。

 思い返してみれば、俺が彼女と会話するときには、俺から話し掛ける必要のある場合を除けば、全て梨乃から発信し会話が始まっていた。

 雑談と言えるような会話も、ほとんど思い出せない。

 多分、最初の内は普通に会話をしていた事もあったかもしれない。

 けれど、趣味も趣向も住む世界も違う俺達の間に、盛り上がれる共通の話題など見当たらない。

 更に、繰り返される梨乃の高圧的な言葉の数々により、徐々に俺は彼女と話すことに対し苦手意識を持つようになってしまった。

 だから、なにげない会話なんてものは、俺達の間には皆無。

 俺達の間にあるのは、梨乃からの『命令』と、俺の『遵守』だけだ。


「………」


 本当に、どんな関係だよ、と思う。

 これが、婚約者――行く行く夫婦になる二人の関係性か?

 蜜香は違う。

 蜜香と一緒に居るときに緊張なんてしない。

 ……いや、あいつが不用意に薄着で現れたり、脇とかヘソとか下着の端っことかをチラチラ見せてくる時には、緊張感が走ったりもするが。

 でもそれは、梨乃と一緒に居るときに味わう歪んだものではない。

 少なくとも、早くこの場からいなくなりたいと、そう思うようなものではない。

 そんな風に思いながら、俺はふとそこで、梨乃の方を一瞥する。


「………え?」


 そして気付く。

 窓の外に視線を向けている梨乃。

 マジックミラーの薄暗いガラスに反射し、その少し悲しそうな顔が見える。

 そして、見間違いでなければ――彼女の目尻に、涙が浮かんでいた。


「……なに? 修太郎さん」


 俺がふと零した呟きが、聞こえていたのだろう。

 梨乃が反応する。


「食事会の席ですら、お父様の目も見られずオタオタしっぱなしで、一言も発しなかったくせに。やっと喋ったと思ったら、間抜けな小声の呟き一つ。知性のある人間とは思えないわ」

「………」


 いつもの一言多い、憎まれ口に満ちた言葉。

 けれど、涙で潤んだ双眸を見れば、そんな口調も強がっているだけのような印象を受ける。

 おそらく、自分が食事の席を立った後だ。

 あの後、梨乃だけが残され、彼女は父親と何やら話し込んでいた。

 その時に何か、手酷い事を言われたに違いない。

 あの時から、梨乃の様子が少しおかしかった。


「………」


 俺が不甲斐ないせい、もあるか。

 そう考えると、申し訳ない気持ちも浮かぶ。


「ごめん」


 そう、俺は謝る。


「何のこと? 何で謝っているの?」


 そう、梨乃は答える。


「いや……なんとなく」

「なんとなくで謝られても、こちらが困るわ。それはつまり、明確な理由もなく、ただその場の居たたまれない空気に靡いて口にしただけの、臆病風の謝罪よ。東城の婿になる人間が、そんなものを軽々しく口にしないで、修太郎さん」

「………」


 やはり、そんな言葉も彼女の強がりに聞こえてしまう。

 俺は、ポケットからハンカチを取り出した。


「ん」


 と、それを梨乃に差し出す。


「涙、拭くといい」


 瞬間だった。

 それまでそっぽを向いていた梨乃が、バッと俺の方に勢いよく顔を向けた。


「な、泣いてなんかいないわ!」


 ……どうやら、梨乃は俺に涙を浮かべているのがバレていないと思っていたらしい。

 いや、この至近距離で、反射率の高い薄暗いガラスに顔が写っているんだ、気付かないわけないだろう。


「大丈夫か? 涙、拭くか?」


 俺はなんだか、そんな梨乃の反応に毒気を抜かれて、ハンカチを持った手を彼女へと伸ばす。


「触らないで!」


 パンっ、と、手を叩かれてしまった。

 俺の手から弾かれたハンカチが、革製の座席シートの上に落ちる。


「ご、ごめん」

「………」


 流石にコレは俺が悪い。

 調子に乗って、ちょっとやり過ぎたかもしれない。

 そう自省する俺の一方、梨乃は数瞬黙った後――。


「……自分で拭けるわ」


 そう言って、シートの上に落ちたハンカチを拾い、目元を拭う。


「このハンカチは、また洗濯してお返しします」

「あ、はい」

「それと、いくら婚約者とはいえ、軽々しくパートナーの体に触れようとするのは、許されないことよ」


 そう呟きながら、梨乃はそっぽを向く。


「互いの体に触れ合うなんて、そんなこと……まだ、ちょっと早いわ」


 至って冷静に努めながらも、微かに見える頬は赤らんでいる。

 そう彼女に言われれば、俺は「はい、わかりました」と言うしかない。

 そのまま家に帰るまで黙り込み、再び二人の間は沈黙で満たされた。


「………」


 けれど、俺はなんだか、少し不思議な感覚だった。

 涙を流す梨乃。

 いつも冷血で鉄面皮な彼女の、意外な表情を見たこと。

 何より、自分が彼女に手を伸ばし、気安く触れようとしたこと。

 今まで、正直緊張と、あまりにも距離感があったため、彼女の体に触れるなんて行為は、しようとする以前に、考えもしなかった。

 それを不意にしてしまった自分の変化に、何よりビックリした。

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