アから始まる物語

@8163

第1話

 芥川竜之介の作品に、精神を病んだ母親を見て、ギャッと叫んで逃げ出したと、読んだ記憶があるのだが、探しても見つからない。

 「点鬼簿」には母親のことも書かれてはいるが、顔を覗いて逃げ出した記述はない。どの作品だったのか思い出せないが、その内にどこかで見つけるだろうと、青空文庫を暇を見つけてはタップしている。

 畢竟気違ひの子だつたのであらう。と、「遺書」にあり、だから死んでも惜しくはないのだと、また、自死の原因のひとつでもある、とでも言いたいのだろうか。母親の精神の異常が心の奥底に潜んでいて、自分も何時かは……と、怖れていたのかも知れない。

 気質は遺伝するが病は遺伝はしない。と、心理学の本にはある。芥川も発病はしていなかったと思う。神経症から被害妄想になり、鬱状態だったのは間違いないが、社会生活が不可能にはなっていない。だが、徐々に難しくなっていたのは文章にも表れていて、短い文は文節に近く、描写がなくなり放りっぱなしだ。室生犀星と散歩していて、ふと上を見たら足がぶら下がっていて逃げ出した。なんて記述もある。「凶」とか「歯車」とか、題名ですら尋常ではない。それでもそれを記述できるのは、普通は過ぎ去ってからだと思うのだが、渦中で出来るのなら、やはり発病はしていなかった証しになるだろう。

 こだわるのは、私の母も精神病だったからだ。兄や姉たちは母の正常だった頃の記憶があるようなんだが、末っ子の私にはそんな記憶、ひとつとしてない。物心ついた時から、所謂、正常な母を知らないのだ。よって異常な母を異常だとは思っていなかった。だから掃除も洗濯も食事の支度も、何一つ出来なくても、学校に入って同級生の親と比べるまで、おかしいとも感じていなかった。そのうえ、普段は何の異常も感知できない。ところが、授業参観日は違った。みんなには着飾って化粧をしてソワソワして落ち着かない母親が来るのに、ウチは誰も来ない。運動会だって、弁当を持って来るのは祖母だ。入学式も写真を観ると祖母が写っている。何か変だと気づいた。けれども、気づいても、どうしようもない。それでも低学年のうちは全く気にしてはいなかった。バアちゃん子だったので祖母に世話をされていて不自由は無かったのだ。

 子供だから母親に甘えたかったのじゃないのかと言われそうだが、甘える事は出来た。食べ物とか飲み物をねだるとか、褒められたり叱って貰うとかはできなかったが、抱きつけば撫で返してくれたし、膝に頭を乗せての耳掻きはして貰えた。

 本当は耳掃除なんて大嫌いで、始まってしまえば何て事ないんだが、あの、耳の穴に耳掻きの棒を入れられる瞬間の゙音゙と、それに付随して粟立つ鳥肌。想像するだけで恐怖心を起こさせる。正座した母親の膝に頭を乗せれば、自然と体は縮まり、自分の膝を折って抱え、胎児のような姿になってその時を待つ。そんなに嫌ならよせば良いのに、月に何度も耳掻きを持って母親の傍に行き、耳掃除をせがむ。

 しつこいと母親も嫌になって「耳垢はもうない」と、拒否するのだが、そうじゃないんだ、耳掃除は嫌いで、されたくはないんだ。膝枕で寝転がりたいだけなんだ。それを母親は解っていたのかどうなのか、どちらとも言えない。時に解っているのか、好きなだけ膝枕をしてくれて、また別の日には直ぐに両手で頭を挟んで退けられてしまう。まるで、受け入れたら負けだと言わんばかりで、多分、悲しい顔をして見詰めただろうに、母親は顔を背けて独り言を呟き始める。もう、こうなると元には戻らない。意味不明になるのだ。

 ただ、悪い事ばかりではないと思っている。ひと言ふた言でも、会話が通じる時は良いが、通じない場合もあり、自然と顔色を窺って忖度をするようになり、指示や命令がなくても相手を慮り行動する習慣が付いた。欲しいのか欲しくないのか、イエスかノーか、訊いても分からないので此方が判断するしかない。合っていればニコッと笑い、違っていても食べ物なら、そのまま文句も言わずに食べてしまう。否が言えないのかも知れない。

 調べた限り、心理学には二通りの考え方があり、一方は疾患は疾患であり、社会生活に適合出来なければ病気として扱い、治療する。もう一方は精神分析を粘り強く行ってゆくようなやり方で、こちらの方が文学的で面白いのだが、それはもっと後の事。子供の頃に父親が連れていったのは前者。精神安定剤を処方され、薬が効いている間はイエス・ノーの問題ではなく、半分寝ているようなものなので、甘えるとか膝枕どころか、独り言も興奮する事もなく、ボンヤリとしている。喋らないのだ。周りとしては手間要らずで誠に扱い安い。生活するにはこの方が良いに決まっているが、物足りないし納得出来ない。そして薬が切れれば元の木阿弥。元通りで何ら違いは見いだせない。

 自分の母親だが、薬を服用している間は母親ではない。心が読めないのだ。嬉しいのか悲しいのか、怒っているのか泣いているのか、笑いもしないし、普段なら一点を見つめ何かを思い出しているような瞬間もあるのだが、そんな素振りもない。喩えは違うかもしれないが、嗅覚を失ってする食事のようなものなのではないかと想像する。それとも、味覚を失った食事に近いのか。必ず食べなきゃならぬ食事だが、味とか香りを失ったら、もう餌に近い。どうせなら、旨いものは旨く、不味ければ不味いと分かる方が、絶対に良い。不味い物があるから旨いものが益々旨くなり、楽しくなって心も弾む。所謂、ドーパミンなんぞが脳内を駆け巡って快楽も感じるだろうに、それのない食事はどんなものか。社会性もなく会話もなく、家族の関係すらも無くした生活はどんなものなのか。加えて、薬で思考も感覚も麻痺させられて、何の楽しみが残っているんだ? 本当はここで、子供の成長が唯一の楽しみ、などと言ってほしいのだが、そんなおとぎ話は子供でも夢みない。姉に聞いた話しでは、背中に僕を背負い、姉の手を引いて列車の踏み切りを行ったり来たり、母と歩いた記憶があると言う。

 言うなれば、死を選ばず、心神喪失を選んだと言えそうだが、心中を思いとどまった真意は分からないし、今さら突き詰めても意味を成さない。生きてるから。

 とにかく、生きていてくれただけで有難い。母のない子ではないからだ。一生いなくなった母親を求めてさ迷うなんて真っぴら。御免被りたい。

 ただ、それと精神を病んだ状況を把握するのとは違う。どうなったら狂うのか、防ぐにはどうしたら良いのか。誰が悪いのか。まあ、芥川も自殺するのは自分の全てでそうするのであって、特定の原因ではないと言っているので、探っても仕方のない事かも知れないが、断片的にでも解れば繋ぎ合わせて理解の一助にはなるだろう。特に、祖母が父親を悪く言っていたので、その刷り込みから、そうなのかも知れないとも思っていて、祖母と父親の確執までは考えが至らなかった。

 複雑なのだ。母は祖母の夫の弟の子供だ。自分には子供がなく、貰った。養女だ。父親はその養女の婿養子。つまり姪に婿を取った訳だ。田舎なのでそんな事があるのか、分からないがそうだから仕方がない。けれども、今でもある。私の姉の次女は姉の夫の姉、義理の姉の養女になって婿を取った。先祖からの土地と財産を身内に遺したいからだ。やはり他人に遺すのは先祖に申し訳なく思うのかも知れない。

 だから母は養母とは血の繋がりはない。芥川も叔母が養母なので、ワガママを言えなかったみたいで、自殺するのが初めてのワガママだと書いている。

 反抗できなかったのだろう。祖母の悪いところは、口に出して「面倒を看て貰うために養女にしたんだ」と、言うのを躊躇わなかった事だろう。実の子供には言わない科白だと思うが、酷薄すぎ。どうしてそんな言葉が出るのか理解できない。夫に頼まれて仕方なく養女にしたのだろうか。欲しくはなかったが子が無く、納得できぬまま承知したのだろうか。そんな事も考えるが、それにしても、愛情からではないと、宣言しているようなもので、人間不信の種を植え付けるようなものだ。そんな人が親ばかりではなく、夫や子供を愛せるものだろうか……。

 父は母が選んだ相手ではない。祖母が選んで来た。従って自分が気に入って選んだ相手と仲違い、喧嘩をするようになったのだ。それは、もう、よくある話なんだろうけど、中に挟まった母は堪ったもんじゃないだろう。特に面倒を看なければならない祖母がいるから夫婦で独立する訳にも行かず、子供がいたので離婚も出来ず、どちら側に味方しても自分も、どちらも納得できないし、曖昧にしておけば、どちらからも責められる事となる。夫と母親の喧嘩のとばっちりを受けた訳だ。それで精神が引き裂かれたのではないかと、考えている。

 それでも、例えば、妻が居るのに愛人が出来て、二人から責められれば、最終的にはどちらかを選ぶだろう? 愛情なのか打算なのか、本人にしか解らないだろうが、とにかく選んで、そちらと暮らすだろう。近所の同級生の家も、そんな風だったらしく、ずっと母子家庭だと思っていたのに、死んだら愛人宅から戻って来て、葬式は同級生の家で営まれた。なんて事もある。

 朗らかで、屈託も無さそうに見えたのに、そんな家庭の事情があったなんて思いもよらず、あれだけ一緒に遊んでいたのに、何も知らずに、気づきもしなかった。むしろ、オモチャも何でも買って貰えて羨んでいたのに、母親が自分に引け目を感じていて、それを補うために甘やかしていたのだろう。分からないものだ。

 それでも、親父の商売が上手く行ってたなら未だ良かったのかも知れないが、左前になり、それと共に祖母の不満も高まって募り、親父は酒を飲んで帰るようになった。そのうちに酒量が増え、べろんべろんに酔っ払った親父は暴力を振るうようになって暴れ、二人の関係は最悪に。同時に、それまで興奮する事など無かった母が激昂して発作を起こす姿を何度も目撃した。酔っ払って玄関の土間で寝てしまう父親を起こして助けようとする母親に祖母が放っておけと叱りつけ、どうして良いのか分からなくなりパニックになったのだ。

 血走った目を大きく開け、おろおろ歩き回って意味不明な言葉を呟き、時々深く頷いて「そうだ、そうだと」納得したのか、しないのか、それとも自分で興奮を静めているのか、それから後でも時々は「そうだ、そうだ」と、呟く事もあり、そんな時は大抵、あの時の興奮を思い出しているのか、目を視ると充血しているのが分かる。多分、そんな事の積み重ねで、催眠術なら、益々の催眠効果の深みに掛かって行ったのだろう。もう寛解は期待出来ない。そんな事は子供でも気づくのに、二人は解らないのか、気づいても、もう諦めてしまっていて治す気が無いのか、それとも母親は目に入らず、お互いを責めるのに夢中で無視しているのか。そんな事より、どんな事より、ふたりで協力して娘を、妻を治すのが大事だろう。けれども、多分、ふたりとも逃げた。そうして、遂に治る事はなかったのだ。

 中学1年の時に祖母は死に、片方の軛は外れたのに、それで母親が治る事はなかった。それでも、発作を起こして目を充血させるほど興奮する事は無くなり、穏やかに過ごすようになり、やはり祖母の存在は重かったのかと想像され、少しは此方の世界に戻るつもりがあるのかと考えなくもなかった。つまり、気違いのフリをしているのじゃないのかと、疑っていた訳だ。不思議に思われるかも知れないが、母としての思いやりを感じる思い出があり、そんな時には確かにお互いの心は繋がっていて、言葉は無くても母に愛されていて、無条件の信頼があったのだ。

 ひとつは、保育園か小学校に通っていたのかどうか、覚えはないが、母といっしょに寝ていて嘔吐したらしく、吐瀉物が布団に垂れ、口の回りにも着いていて、微かに記憶があるのだが、それでも眠くて眠くて、ゲボゲボ言いながら寝惚けマナコでいると、母は起こさないように優しく口をぬぐい布団を拭いてくれていた。汚なくて胃酸の、あの酸っぱいような臭いもしてたろうに、普通なら起こして寝巻きを着替えたりシーツを代えたりするだろうに、枕カバーか何かで拭って始末し、そのまま寝かせてくれた。世話をされたのは、その一回だけだ。粗相をしても世話を焼いてくれるのは祖母だったから。


 母親の無償の愛は信じている。精神を病んで社会とも家族とも断絶しているのに、いざとなれば意識が戻り、吐瀉物どころか排泄物でも構わず処理をしてくれるのではないだろうか。それどころか、危険が迫れば身を呈して庇ってくれるのは間違いない。認知としては、パラレルワールドかバーチャルな世界に住んでいて、そこから此方の世界を眺めている。そんな風に思っていたが、此方が成長して高校生になると、変化が見えた。母親の方が此方の様子を窺いながら、気を使うような場面も見られるようになったのだ。きっかけは貧血だったと思う。風呂で逆上せて倒れたのだ。

 バタンと音がして、母親の異常に気づき、洗濯機が置いてある脱衣場に駆けつけて見ると、風呂から上がったお袋が裸のまま倒れていた。眼を覗き込むと瞳孔が開いていて焦点が合っていない。長湯をして貧血を起こしたとは思ったが、普段から血圧が低いので血栓かも知れなかった。そのまま両腕で抱き上げて寝室の布団の上に運んだのだが、気が動転していた所為もあるのかも知れないが、軽くて、身体も小さくなり、想像していた体重よりも軽くて驚いた。

 下に降ろした時には、もう意識を取り戻していて、目の焦点も合っていたが、念のため右手、左手とグーパーとさせ、動く事を確めた。脳の血管は大丈夫だ。

 「水、持って来るから」そう言って部屋を出たのだが、頷いて返事はしたが、目を大きくして少し驚いたような顔をしていた。何だろうと考えたら、此方が小さくなって軽いと感じたように、お袋も、この間まで耳掃除をせがんでいた末っ子が、軽々と抱き上げ、逞しくなったと驚いたのではなかろうか。もう男になったのだ。

 時々、頼られるような視線を感じるのは、多分、あの時からだ。親子の心理的な立場が逆転して、より大きな心持ちで母親を見なければならないような雰囲気は、妙に面映ゆい。それでも、母親に遠慮などしたことはないが、母親の方は息子に遠慮するのだろうか。老いては子に従えと言うのは、こう言う事かも知れないと考え、認められるのが親離れ子離れの終着点らしいと思い、もう甘えられない母親を実感した。


 思春期には、本人は大真面目なんだが周りの人には理解されず、突飛に映り、自分だけの悩みなので相談もできず、もっとも、相談したら止められるのは必定で、密かに計画し実行する。なんてこともある事件を経験する羽目に陥る事もある。

 高二の冬、家出した。それは純粋に形而上的な悩みだと本人は考えていたのだが、そんな上等な物じゃなかったのかも知れない。勿論、気取って形而上などと言っているが、頭でっかちな噴飯ものの理論の組み立てで、狭い道、細い道へと突き進んで、結論は死ぬしかなくなり、心の何処かで死に場所を探していて、夢遊病者のようにさ迷い出ただけなのかも知れないが、とにかく、放浪が必要だった。それが心理的には精神の異常をきたした母親を巡る世間の圧迫から逃れる術ではないと言えるのかどうかは分からないが、家を出る前にはファンヒーターに灯油を補充し、誰かが帰って来るまでに母親が寒くならない様にはして家を出た。みんなの忙しい年の暮れを狙って家を出たのだ。家出少年などに構っている暇などないだろうからだ。

 みっともないのは、さして遠くへ行かない内に補導されて連れ戻される事だ。目的地は東京。人混みに紛れて痕跡を消そうと目論んだ。ただ、駅で補導員に見つかるのは御免なので、リュックとかボストンバッグは持たず、荷物はショルダーバッグひとつ、肩に掛けて歩いていれば職務質問される恐れは無いだろう。さらに用心して、新幹線は使わず、在来線を乗り継いで行く。予定のある、急ぐ旅でもないので……。


 東京駅の構内は足早に通り抜け、八重洲口を出て銀座に向かった。出ればもう補導される心配はない。そう考えて一息つき、速歩きをやめて通りを見渡すと、歩道に沿ったビルの一階が美術館になっている。゙こんな所に?゙と、驚くと共に、どんな物が展示されているのかと興味が湧いた。絵画には興味があって、油彩の道具を高1の冬に郵便配達のアルバイトをして買ったくらいだ。入った。

 ずいぶん暢気な家出だとお思いだろうが、本人は形而上の問題で悩んでいると考えていたので、そうなると芸術は無関係ではない。むしろ問題の核心であるべきで、無視して通り過ぎる訳にはいかなかった。

 のちのち調べてみると関根正二や小出楢重、ピカソやカンディンスキーなどもあったらしいのだが、覚えていない。観てないのかも知れない。入口の彫刻に魅了されてしまったからだ。

 30センチ位の小さな彫像だった。正面は長方形で赤みがかった茶色のチャート岩だろうか、硬そうで滑らかな岩肌に線描で、傾げた頭に持ち上げた腕、胸、腹、腰、脚。マヤの文字のように長方形にキッチリと収まっている。だがレリーフのように立体的に彫られている訳ではなく、本当に黒い線で描いたような模様があるだけだ。せっかく岩に彫刻しているのに、胴の丸みも窪みもない。手の指だって彫ってはない。線描だ。ところが、ロビーの真ん中に展示してあるので回り込んで後ろから見るとアッと驚いた。力強く四角い尻が突き出ていたのだ。そこには正面で省略されていた立体のエネルギーが全て集まっていて、太ももの裏側は力士の脚のように太くて力強い。

 もう一度正面に戻って作者を確認した。

 【オシップ・ザッキン】

 全く知らない名前だった。

 わざとだろうかと考えた。像の正面には輪郭の線しかなく、見えない後ろに質や量が集中している。作為的だとすると、目的を理解しないと意味が分からない。いや、狙いでない訳がない。それとも何かの練習をしたのか? つまり習作で、絵画で言えばデッサンみたいな物なのか? だから未完成なのだと……。

 もうひとつの考え方がある。エコールドパリの画家モジリアーニは彫刻から絵画に移ったのだが、多分、石は高価だし場所を必要とした。それで仕方なく絵画に移行したのに、すっかり諦めて彫刻をやめた訳ではなく、小さな石でカリアティード、ギリシャやローマで建物の梁を支える柱に装飾された人物像を作っている。それを思い出した。首が曲がり、両腕を上げて何かを支えるようにしているので、カリアティードなのかも知れない。だとすると背面の力強さも納得するのだが、カリアティードなのだとの説明はされてない。でも、そんな事を非難したいのではない。説明も作者もどうでも良いのだ。正面を線描にしたから、その簡略化が背面のエネルギーを生んだのなら、ふたつはセットとして考えないといけない。そして順番もある。線描が先で、逆はダメだ。背面を先に見たのなら、こんな感動は無かったに違いない。彫刻も絵画も観る順番があるのだろうか。ひょっとしたら、こうして出奔して生活のリズムを壊すのは、自分の人生の順番を乱して順序を入れ換えているのかも知れず、本来の流れを乱しているのかも知れない。しかし、それは自分の意思でしたのであって、順番通りは嫌だと、言わば神に逆らっている訳だ。

 もう学校も家族も生活も、友達も母親も捨てたのだ。そして、どうしようと言うのだろう。自分の出した結論は唯物論らしい。虚無だ。それは、情動や熱狂、聴覚も視覚も触覚も、感覚の全てをも否定するようなものだ。生きている意味をなさない。これから先は読むもの聞くもの見るもの凡てがそれを補完し補強し、確信を裏付けるだけになるのかも知れない。それでも生きるのか?


 街中を歩いた。田舎とは異なり人混みは絶えない。だが、誰一人として此方を気に留める人はいない。田舎だと知り合いならば声を掛けられるだろうし、知り合いでなくても顔くらいは見たことのある人ばかりで、いつ何どき、口の端に上らないとも限らない。そんな事も気になり、散歩も気軽には出来ない。母親もおかしいが息子も普通じゃない。なんて言われているのじゃないのかと想像すると、もう、それを押し退けてまで出掛けようとは思わない。勿論、被害妄想とは解っているが、根拠のない妄想では無いのだ。散歩をして、そんなこんなを心の奥に仕舞い込んで溜め込むよりも、散歩などしない方が良いに決まっている。

 ところが、東京では繁華街ですら余分な心配は無用だ。人混みに紛れて歩いてる限り誰何される事もないし、誰も此方の事情になんて興味はない。孤独を求めて絶海の孤島に行く必要もなく、大都会こそが独りになれる場所なのだ。

 頭の中はある詩人の言葉で一杯だった。『泣きながら黄金を眺めていた。だが飲めなかった』

 黄金とは世間的な成功とか詩人として有名になる事なのかと思っていたが、どうやら違うらしい。自分が求めてきた真理、考えてきた結論を納得して実行してしまうとダメらしい。

 それは死んでしまう事なのでダメなのだ。そんな物を求めた訳ではなく、真理を求めた筈なのに、どうしてこんな風になってしまったのか。どうして本質を掴んだのに死ぬ事になるのか。真理を解明したのなら気分もハレバレ、爽快な気分で過ごせる筈ではなかったのか?

 気分は最悪。毎日鉛を飲んで暮らしていて、なあに、何も望まないで何もしようとしなければ、求めなければ暮らして行けるだろうが、真理を求めて追求し出すと人間性を失って唯物論の罠に嵌まってゆく。物理と数学の正確な記述で事足りる。『なぜ曲がらない』と、科学の進歩を嘆くしかない。

 立ち止まり、空を見上げて、フウーと息を吐いた。薄曇りの空に青さはなく、その空も暮れて来て暗くなるのかと思ったら、東の方は都会の照明が反射しているのか、暗紫色に染まっている。

 どこかに泊まろうか? カプセルホテル? マンガ喫茶? あるのは駅前だろう。雑踏を思い浮かべると煩わしくなり、コンビニでサンドイッチと温かい紅茶を買うと、緑の公園らしき所へ足を進めたが、そこは墓地だった。青山霊園。

 田舎の墓地にも一本二本の樹木は植わっているが、生垣で取り囲んでいたり石の柵で囲ってあったり、その規模がまるで違う。忍び込んで裏に回り石の影になれば、生垣と墓石に隠されて外から見られる事はない。墓石の台座に上がって座り、サンドイッチを頬張り温かくて甘いレモンティーのペットボトルを両手で包み込んで飲み、息を吐くと白くなった。冷えて来たようだが興奮しているのか寒さは感じない。

 『今日の宿屋は大熊座だ』とは、詩人ランボーの一節だ。つまり野宿をした訳だ。それに倣いたい。

 夜はこれからだ。もっと冷えるだろう。横になって寝る訳には行かない。なるべく表面積を少なくして過ごさなければならない。灰色の合成皮革のダブルのコートの腕を抜き、コートの中で膝を抱えて体育座りをして頭を垂れ、コートの襟の中に顔の半分を埋めた。

 すると吐く息が中に籠り、外気を吸って肺を冷やさずに済む。これだけでも随分と違うだろう。だが、眠れやしない。うつらうつらと考えると言うか、朧気なイメージを辿って連想を繋げてゆくしかない。本来なら、これからどうすべきか、学校は仕事は将来は、と、考えなければならないのに、そんな事はひとつも思い浮かばない。そんな事はもうどうでも良いのだ。思考の全てが詩人の言ゔ荒地゙に耳をそばだてて探っても、説明はない。そこから引き返してしまっていて、記述は思い出でしかない。荒地とはどんな世界なのか、想像するしかない。

 アレ地、樹も草もない、乾燥した岩だらけの土地だろう。しかし、そここそが目的の場所だった筈で、そこには留まれないとは、どうゆう事だ? 誰も居ないのだろうか。居そうもないし孤独とかも感じることすら無い全くの人跡未踏の地らしい。じゃあ音もなく味もなく匂いも無いのか? 五感で探る事もイケないのか? けれども生きているんだろう? いや、どうも生きている感覚も認識してはイケないようだ。いや、認識しても思考しても空想しても、それが荒地にバラ撒かれて発芽することもないし形としても残らないのだ。意味も無いし永遠どころか刹那にも留まらない。因果律は成立しないし、従って証明も必要の無い世界らしい。そのうえ、あの世でも無いらしい。思い浮かぶのは母親の、あのパラレルワールドくらいだ。あながち、目も眩む雲上の世界でもないし、意識もない真っ暗な世界、死の世界でも無いらしいが、母親の視点から此方の世界を眺めても真新しい事は何もないのだ。めくるめく狂った世界でも無い。

 目を開き顎を上げてコートの襟から顔を出し、空を見上げたが星空はなく、灰色の雲が都市の明かりに照らされ鈍く反射して暗く、銀色に覆っていた。それに都市の騒音が途切れる事なく、遠く低く、唸るように響いている。

 夜が明けて来た。薄明は思いの外素早く明度を増し、雰囲気が刻々と変化する。空気中の水分が冷えて、それが靄になって霧のように低く立ち込め、そこに薄日が射し込んで常緑樹の葉を輝かせる。オレンジ色の光が眩しくて、太陽を拝みたいのに出来ずに顔を背ける。

 光が暖かい。背伸びをしたら欠伸が出て瞼に涙が溜まった。

 雀だろうか、枝から枝に飛び移りながら囀り、他の小鳥も飛び交っている。

 遠くで車のクラクションが鳴った。都市が寝覚めたようだ。

 結局、何も決められなかった。家出をする決断はついたのに、その後は何も決められなかった。自分が死にたいのか生きたいのか、そもそも何をしたいのか。問題は何故生きているのか、生きなければならないのか、知らないのがイケないのだ。この先、何故生きているのかを知らぬまま生きて行くのか? それも暗澹たる心持ちだ。

 取り敢えず甘い餡まんと温かい牛乳が欲しくなり通りを目指した。 了

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