妹の彼
原田なぎさ
妹の彼
彼が我が家にやって来たのは、一月最後の日曜日だった。
呼び鈴がなり、テレビドアホンを見ると、線の細いブレザー姿の男の子が立っている。
「斎藤圭介と申します。美穂さんと同じ慶明学園高校の同級生です。お線香をあげさせて下さい」
遅すぎるという苛立ちと、来てくれたという喜びで、全身が粟立つ。
妹の美穂が私鉄のホームから転落したのは、去年のクリスマスイブだった。商社勤務で中央アジアに駐在している父と、母の帰国を待ち、年の瀬に慌ただしく葬儀を済ませた。
母は憔悴しきっていた。無理もない。去年の春まで、母は私たちと同居していたのだ。美穂が受験を終えた後、もう何年も単身赴任している父と暮らすため、現地へと旅立った。
「何で美穂の死がお母さんの責任なの? 関係ないよ。私は一人で大丈夫。落ち込んでいるお父さんを支えてあげて」
葬儀の後、日本に残ろうかとつぶやく母に、そう言い聞かせた。それでどれぐらい納得したかは、わからない。父から遅れること一週間、母は結局、中央アジアに戻っていった。
美穂の遺骨が残るこのマンションに、私は今、一人で暮らしている。
ドアを開けると、圭介は深々と頭を下げた。
「……とりあえず、顔を上げて中に入って。そんな格好、近所に見られたらどう思われるかわからないでしょ」
それでも圭介は、五秒ほど同じ姿勢を崩さなかった。
いいから早く、と彼の手を引き、ドアを閉めた。不意をつかれた圭介が、よろけて私に倒れ込みそうになる。切れ長の目、整った鼻筋、薄い唇。近づいた彼の顔を見て、美穂の美的センスは悪くないな、と改めて私は思う。
右足で踏ん張って、姿勢を立て直した圭介が、靴を脱ぐ。きちんとかかとをそろえて並べる自然な所作に、育ちの良さが感じられた。
「……美穂……さんのお姉さんですよね。ご両親は?」
「海外。いるのは私だけ」
「まずくありませんか?」
「何が?」
「いや、僕、一応、男ですし……」
「死んだ恋人の線香をあげにきて、その姉に欲情する変態と、妹が交際していたとは思いたくないな」
「もちろん、そんな気は微塵もありません」
「当たり前でしょ。警察に捕まる前に、美穂に呪い殺される」
「……はい」
「お葬式にも来なかった恋人のことを、とっくに恨んでいるかもしれないしね」
「……本当に申し訳ありません」
「事情は後で聴くから、まずはお線香あげてやって」
まだ仏壇はない。遺影と遺骨は、白い布をかけた細長い机の上に置かれている。圭介は座布団に正座して、そっと手をあわせた。斜め後ろに、私はペタンと腰を下ろす。
線香に火を着ける圭介を見て、ゆっくりと美穂の遺影に視線を移した。妹の笑顔の写真は少なかった。去年の春、旅立つ母を見送りに行った際、私がスマホで撮った家族写真を葬儀屋が加工した。抜けるような白い肌に、まだ伸びる前の短い黒髪。薄紅色の整った唇は、圭介に優しくふさいでもらえたのだろうか。
「コーヒー、紅茶? 緑茶もあるよ」
「いえ、本当におかまいなく」
圭介の声を聞き流し、私はキッチンで湯を沸かす。マグカップに、匙ですくってコーヒーの粉末を入れた。
「……すいません」
「インスタントだけど、いいよね?」
「もちろんです」
小さく会釈し、促されるまま一口すする。
「で、どんな言い訳を聞かせてくれるの?」
向かいに座った圭介は、うつむき、しばらく黙ったままでいた。
「……怖かったんです」
やがて、絞り出すように言葉を紡ぐ。
「何が?」
畳みかけると、圭介は再び沈黙した。線香の煙に仏花の匂いが溶け込んで、室内はむせるように甘い。たっぷり三分は待っただろう。彼は再び重い口を開いた。
「……美穂さんは、僕のせいで自殺したんじゃないかって」
あの日、私は隣町にある屋内プールで泳いでいた。市営の短水路で、夜九時まで営業している。高校生は二百円と格安だ。私学と違い、私の通う県立野ケ崎高校には屋外にしかプールがない。だからオフシーズンの水泳部は、筋トレが中心になる。
平泳ぎで特に大切なのは、脚の内側にある内転筋と、肩関節の上の僧帽筋だ。これらの筋肉で、水を蹴り、搔きわけて、前に進む。ただ、泳ぎながら蓄えた筋肉と、陸上での筋トレでつけた筋肉では、微妙に質が違うのだ。
五歳からスイミングに通い、中学校では水泳部に所属した。国体出場経験のある顧問の教師が「筋トレでついた筋肉は、柔軟性に欠ける。スイマーは泳ぎながら鍛えるのがベストなんだ」と教えてくれた。
クリスマスイブといっても、恋人がいない私には、普段と変わらぬ土曜日だ。コンビニのバイトを六時半で終え、そのまま自転車でプールに向かった。
水はいい。黙々と泳いでいると、雑念から解放される。何より、体が軽くなる。
二時間で十キロ泳ぎ、パーカーに着替えたところでスマホの着信履歴に気がついた。末尾が「0110」の番号が、八時過ぎから計四回。私に電話をかけてくる友だちは多くない。ましてや見知らぬ番号だ。バスタオルで短い髪を拭き、無視しようと思ったところで、胸騒ぎがした。
美穂のことだ。
理由なく、直感した。
「デートで帰りは遅くなる」
昼、そう言って家を出て行った。私は番号をタップする。何度か呼び出し音が続いたあと、「はい、武蔵台警察署です」と乾いた声が聞こえた。
自宅まで引き返し、自転車を置いて、最寄り駅から下りの私鉄に乗る。JRと交差する武蔵台駅までは十五分だ。
スマホで検索し、歩いて数分の武蔵台警察署にたどり着く。底冷えのする寒い夜で、時刻は十時を過ぎていた。入口に立つ警察官に生徒手帳を差し出して、「さっき折り返しで電話した高見沢美穂の姉です」と名乗った。
受付前でしばらく待たされる。やがて、制服姿の女性警察官が階段を下りてきた。恰幅が良く、年の頃は母と同じぐらいだろうか。
「生活安全課巡査部長の鈴原明子といいます」
そう名乗った警察官の後ろには、中年の男性と、若い女性が立っていた。女性は目を真っ赤に腫らしている。教師には独特の匂いがある。案の定、慶明学園の教頭と担任だった。
「ご両親は海外だと伺いました。緊急連絡先の携帯番号も、先生から。身近なご家族がお姉さんだけなので、心苦しいのだけれども、確認してほしいことがあり、夜遅くですがお呼びしました」
職業的な気遣いではなく、本心から申し訳ないと感じているように聞こえた。
大丈夫です、と私はうなずく。
建て直してからまだ日が浅いのだろう。警察署は清潔で、地下に続く階段も、明るい照明に照らされていた。細長いリノリウムの通路が、私のスニーカーに踏まれるたびに、きゅっきゅっと乾いた音を響かせる。
教師二人を外に残し、鈴原さんに促され、安置室に立ち入った。教室の半分ぐらいの窓のない空間に、ベッドが一つ置かれている。まがまがしく、白いシーツが人の形に盛り上がっていた。刑事ドラマで見たことがあるけれど、本当にこんなふうになっているんだ。
「打ちどころは悪くありませんでした。お顔はほとんど無傷です」
鈴原さんが白いハンカチのような布の両端に手を掛ける。
「いいですか?」
私は黙って首を縦に振った。ゆっくりと布が取り払われ、生まれた時から知っている小さな顔が現れる。
「どうでしょう?」
――妹です。
そう答えたところで、緊張の糸がぷつんと切れた。倒れかけた私の体を、鈴原さんが支えてくれる。それからしばらくの記憶がない。
気がつくと、私は警察署のソファに寝かされていた。時計の針は十二時近くをさしている。
「目が覚めましたね」
傍らに鈴原さんの困惑交じりの笑顔があった。毛布から半身を起こし、えずくように泣く私を、鈴原さんは優しく抱いて、背中をさすり続けてくれた。
あんまりなクリスマスイブだ。妹の遺体を送り届けるサンタなど、一体だれが望むというのだろう。
美穂。
あなたは最期の最期まで、姉にこんな思いをさせるんだ。
「僕が警察署から解放されたのは、お姉さんが寝ていた頃だと思います」
圭介がポツリと言った。コーヒーはすっかり冷めている。淹れ直そうか、と尋ねると、彼は小さく首を振った。
あの日、昼過ぎに美穂と落ちあい、武蔵台のシネコンで映画を見たそうだ。
彼の自宅はJRの沿線にある。お互いにアクセスのいい武蔵台は、よくデートで訪れたという。数年前に再開発が終わり、駅周辺にはタワーマンションや洒落たショッピングモールが立ち並んでいる。つきあって一年に満たない高校生のデート場所としては、手頃だったに違いない。
「美穂の様子はどうだった?」
「普段とまったく変わりませんでした」
同じ話を警察署でも聴かれたはずだ。圭介が端正な顔をゆがめる。
「シネコンを出て、ショッピングモールを散歩して、最上階のイタリアンでディナーをしました」
「随分大人なデートだね」
「初めて過ごすクリスマスイブでしたから……。それに、イタリアンって言っても、一人三千円ぐらいです」
「高校生には十分贅沢だよ。それから?」
「レストランでプレゼントを交換し、モールを出て、武蔵台駅に続くペデストリアンデッキを歩きました」
「クリスマスのイルミネーションが綺麗だったそうね。テレビのローカルニュースがとりあげてた」
「それで、美穂……さんと」
「いいよ、呼び捨てで。そう呼んでたんでしょ?」
「……わかりました。美穂と思い出話をしました。中学は別々ですから、僕らが知り合ったのは慶明学園に受かった去年の春です。僕の一目ぼれでした。クラスだけでなく、部活も同じ文芸部。一緒にいればいるほど、美穂に惹かれていきました。告白したのは五月の連休後です」
「まだそんなに時間も経っていないのに、思い切ったね」
彼はそこでためらう仕草をした。私は黙って言葉を待つ。
「……ウェブ小説って、知っていますか?」
「ウェブ小説?」
「はい。ネット上に自由に小説を投稿できるサイトがあるんです。出版社などが運営していて、多くの人がネットで小説を書き、公開しています」
確か二年ほど前だった。夕食時、美穂がそんな話をしていた覚えがある。あなたも投稿しているの、と母が訊くと、はにかんで首を振った。
「私にそんな文才はないよ。受験勉強もあるし、たまに読むだけ。でもね、ペンネームだからはっきりとはわからないけど、同世代らしき作者の中にも、すごい小説を書く人がいるんだ」
母はふうん、と相槌を打ち、私は聞き流した。それ以上、その話題は深まらなかった。
小さい頃からスイミングに通っていた私と対照的に、美穂は本の虫だった。最初は寝物語に母に聴かされた絵本や童話。小学校に上がると、図書室で小説を借りてきた。
教科書に出てくるような文学作品から、流行りのライトノベルまで。中学生になってお小遣いをもらえるようになると、書店にもよく通っていた。
読書の影響もあるのだろう。美穂は勉強がよくできた。私は何かと比較され、肩身の狭い思いをした。進学校の慶明学園に行きたいと言い出したのも、美穂自身だ。
「あなたも慶明目指す?」
中学三年生の秋、母に訊かれた。その少し前、県大会に進んだ私は、百メートル平泳ぎで大会新を出し、部活を引退していた。
まだ日焼けが抜けない両腕を差し出して、「私が今さら慶明に受かるわけないでしょ」と苦笑した。
そもそも学力不足だけれど、それとは別に、美穂とは違う高校に進みたいと感じていた。私たちは決して不仲には見えなかっただろう。ただ内心、家でも学校でも妹と比べられることにうんざりしていた。
「優等生の妹」と「スポーツ少女の姉」。
そんなふうにワンセットで語られるのが疎ましかった。
父母や先生、友だちに悪気がないのは分かっている。
でも、美穂は美穂。私は私だ。姉妹だけれども、決してひとくくりの存在ではない。
うまく言葉にできなかったそんな思いは、思春期に差し掛かり、胸の中で急速に言語化されていった。きっかけは、恐らく初潮を迎えたことだ。否応なく、私は自分が「女」であることを意識し始める。
後天的に得られる学力などではなく、生まれながらに備わった女性性。そんな生得的な部分まで、美穂と比較されるのは堪えられない。
だが、小学校高学年から中学校にかけて、同じく思春期を迎えた男子たちに、圧倒的に受け入れられたのは美穂だった。
「去年の五月、あるウェブ小説のコンテストで入賞したんです」
圭介が語り続ける。彼もまた本が好きで、中学生の頃からウェブに作品を投稿していたらしい。美穂が口にしていた「同世代ですごい小説を書く人」。それが圭介を指していたのか、もっと抽象的なニュアンスだったのか、今となっては確かめようがない。
ペンネームで投稿していた圭介は、入賞があまりに嬉しく、美穂にだけ、その事実を伝えたそうだ。
「好きだ」という言葉とともに。
私が知る範囲でも、中学時代の美穂に片思いしていた男子は片手に余る。そのほとんどが、サッカー部やバスケ部などに籍を置くスポーツ少年たちだった。同じ運動部員で姉でもある私には、何人かから相談さえ持ち掛けられた。そのたびに、答えに窮し、苛立った。
私は私。美穂とは違う存在なのだ。
結局、美穂は誰とも交際しないまま、中学校を卒業し、慶明学園に進学した。
そこで、これまで想われてきた異性とは、まったくタイプの異なる圭介に出会う。ほぼ同じタイミングで、彼はコンテストに入賞した。
圭介に打ち明けられ、美穂が応じたのは、ある意味、必然の成り行きだったのだ。
つきあい初めて間もない頃、私は美穂から直接、そのことを聞かされた。恋を覚えた妹は、私がよく知る美穂とは別人のようだった。二人で撮った写真を見せながら、「圭介っていうんだ。すごいんだよ。もういくつも自分で小説書いていて、将来は作家になりたいんだって」とはしゃいでみせた。
良かったね、と笑顔でうなずきながら、私は内心、かつてない邪悪な感情を抱いていた。
壊れればいい。
捨てられて、涙が枯れ果てるまで、泣けばいい。
美穂、あなたはそんなに姉を否定したいんだ。
中学時代、運動部の男の子たちに見向きもしなかったのは、私への当てつけだったんだろうね。あなたのように、私は可愛い衣服はまとえない。上手に異性にはにかむことも不可能だ。
思春期を迎え、あなたは見た目も心も急速に「女」になっていく。これまでずっと、か弱いあなたを支え続けてきた私を置き去りにして。
休みの日にもコンビニでレジを打ち、勉強も不得意で、想ってくれる相手もいない。ただ他人より、少し速く泳げるだけの、女子高生。
あなたは私に甘えてきた。私もそれに応えてきた。
その「上下関係」は、あっという間に逆転した。
私は今、女として、あなたの遥か下にいる。にもかかわらず、いまだに上にいるような振る舞いをやめられない。
きっと、とっくに見透かされている。見透かしたうえで、あなたは私を姉と慕うふりをしている。
死にたいほどの屈辱だ。妹に情けをかけられる。あからさまに蔑まれるより、それは遥かに私に痛みを与えるものだ。
「……七時半過ぎだったと思います。別れがたくて、僕と美穂は武蔵台駅の改札前で、手をつなぎながら思い出話を続けていました」
圭介が定まらない視線をマグカップに注ぎながら、言葉を継ぐ。
「その時も、美穂に変わったところはありませんでした。恥ずかしいですけど、自分が愛されていることを、彼女の言葉の端々から感じていたほどです。ところが突然、本当にいきなり、美穂は僕の手を振り払い、『圭介とはもう別れる』と言い出しました。改札口に向かって駆けだす美穂を追いかけ、何でだよ、と声を掛けましたが、取りつく島もありません。背後から右手で肩をつかむと、一瞬、彼女が振り向いたんです。僕は声を失いました。美穂は目を真っ赤に腫らし、唇を白くなるほど噛みしめながら、泣いていたんです……」
立ちすくむ圭介を残し、美穂は二度と振り返らず、改札の向こう側へと消えていった。
葬儀翌日、十二月三十日の夜、私は両親と武蔵台警察署に足を運んだ。捜査はその日までに打ち切られていた。
鈴原巡査部長と同席した生活安全課の係長という男性警察官が、私たちに結果のあらましを伝えてくれた。
「ホームのカメラには、黄色い線の上をよろよろと歩く美穂さんが映っていました。躓いたようにも、自分から身を投げたようにも見える。映像だけでは、事故か自殺か、微妙なところです。ただ、遺書はどこにもありませんでした。直前まで一緒にいた恋人からも話を聞きました。『泣いていた』と彼は証言しています。でも、喧嘩したわけではないとも言う。彼には当日と翌日、さらにその次の日と、三回にわたって事情を聴いています。話にぶれはなく、彼も憔悴しきっていました。彼が突き落としたわけでないことは、改札口付近を捉えた別の映像からも間違いありません。直接手をかけたわけではない高校生を、これ以上問い詰めるのは、人権上、問題があると考えました」
慶明学園の教師や友人にも美穂の近況を尋ねたそうだ。いじめも視野に、慎重に調べを進めたらしい。今度は鈴原さんが口を開く。
「十数人から話を聞きました。優等生で、可愛くて、誰にでも優しい。私は長く少年事件を担当していますが、これほど悪評を聴かないケースは珍しいです。美穂さんは、みんなに愛される存在でした」
自殺だとすると、動機がない。事件性もない。曖昧なところを残しつつ、警察は事故として処理する判断をしたという。
父と母は、涙ぐみつつ安堵の表情も浮かべていた。愛する娘は誰かに恨まれ、殺されたのではない。追い詰められて、自ら命を絶ったわけでもない。そう確認できたことで、少しだけ心が軽くなったのだろう。思春期の娘を残し、海外に赴任していた後ろめたさもあったに違いない。
私と父母は何度も鈴原さんらに礼を言い、警察署を後にした。
「事故だったと、僕も警察から電話で知らされました。大晦日でしたから、よく覚えています。でも、それはあくまで警察の判断です。やっぱり僕には、自分が美穂を殺してしまったように感じられてなりません……」
圭介が泣いている。あふれた涙が、テーブルに小さな水たまりをつくり、少しずつ面積を広げていった。
いたたまれなくなり、私は窓の外に視線を向ける。黄昏時の冬の空は、血で染めたような紅色で、どこまでも澄んでいた。
「……初めてできた彼女でした」
嗚咽しながら、圭介が言葉を絞り出す。
「一目見た瞬間に、この子を好きだと感じました。笑われそうですが、正直に言います。美穂は、僕が賞をもらった小説のヒロインのイメージそのままなんです。小説なんて、ほとんど妄想です。願望の投影です。絶対に存在しないと分かっていながら、小説を書きました。でも、そのヒロインとそっくりな女の子が、目の前にいたんです」
そこでようやく、彼はハンカチで目元をぬぐった。
「……きっかけは、確かに見た目でした。でも、同じクラスになり、部活でも一緒に過ごすうちに、さらに美穂に惹かれていきました。運動が苦手で、思ったことをなかなか口にできないところも共通でした。コンプレックスというか、人としての弱点みたいなものまで似ている。こんなに分かりあえる誰かがいるんだと、震えるような思いでした」
美穂は圭介に愛されていた。高校で彼と出会い、つきあえたのは、彼女の短い人生の宝物だったに違いない。
「お姉ちゃん、怖いから一緒にきて」
去年三月。慶明学園の合格発表日の朝、美穂にせがまれた。ネットでも見られるんだから、それでいいじゃん、と私は答える。
「ううん。直接この目で確かめたいんだ」
美穂はかたくなだった。
月末に控えた渡航の準備で忙しく、その日、母は体調を崩していた。
「美穂に付き添ってあげて」
母からも駄目を押され、私はようやく腰を上げた。
同じ制服に着替えながら、美穂を疎ましいと感じていた。三日前、私は野ケ崎高校の合格発表を一人で見に行った。もう子どもじゃない。何でこんなことぐらい、自分一人でできないのだろう。
美穂のわがままを許容する、母も母だ。これだから、この子はいつまでたっても自分の足で歩けない。
慶明学園までは、電車を乗り継ぎ、小一時間ほどの道のりだった。地下鉄の車窓には、いかにも不機嫌そうな私と、不安げな美穂の姿が映っていた。
その時、前を向いたまま、唐突に美穂が言った。
「お姉ちゃん、私、合格していたら、髪を伸ばすよ」
それはかすむほどの小さな声で、私は聞こえないふりをした。
好きにすればいい。
あなたはあなた、私は私。頼むから、これ以上、苛立たせないでくれないかな。
「ここから先は一人で行って」
学園の校門で、私は言った。
「どうして? 掲示板まで一緒に来てよ」
「ううん。私はここで待っている。合否を確認したら、戻ってきて。一緒に帰ってあげるから」
何度か押し問答を繰り返し、やがて美穂は諦めた。
「……わかった。一人で見てくるから、必ずここで待っててね」
小さな背中が人込みに消えていく。
私はため息をつきながら、校門に背中でもたれた。吐き出す息が、白い霧になり、初春の冷えた空気に溶けていく。
寒い。
怒りを含んだそんな言葉が口からこぼれ、何人かの受験生や保護者たちに一瞥された。
十五分ほど待っただろうか。受験票を握り締め、涙ぐんだ美穂が私のもとに駆けてきた。
「どうだった?」
「受かってた。嬉しい……」
「良かったね」
「高校からは、お姉ちゃんとは別々だね」
「そうだね。まあ、いいんじゃないの?」
「……うん。私もそんな気がしている」
帰り道、私たちは途中駅で下車し、マクドナルドでささやかな祝杯をあげた。ハンバーガーとポテト、シェイクのセットを二人分。お金は私が支払った。
「お姉ちゃん、今日は本当にありがとう。私、一人じゃ怖くて来られなかったよ」
ハンバーガーを頬張りながら、美穂が笑った。
「もう高校生になるんだから、何でも自分でできるようになるんだよ」
ポテトをつまんで私は諭す。
「そうだね。私、頑張る」
薄く微笑み、美穂は自分のシェイクを差し出した。
「飲まないの? シェイク、好きだったじゃない」
「うん。ちょっとダイエットしようと思って」
その時の自分の感情を、今でも鮮明に覚えている。
あれは、私が初めて他人に抱いた「殺意」だった。
「ああ、もうこんな時間ですね。すいません、そろそろお暇します」
制服のズボンにハンカチを押し込んで、圭介が立ち上がった。もう一度、美穂の遺影に視線を送り、両手をあわせる。玄関で靴を履きながら、圭介はためらいがちにつぶやいた。
「……また来てもいいですか?」
「いつでもどうぞ。でも、必ず家にいるとは限らないから、事前に連絡して」
パーカーのポケットからスマホを取り出し、LINEのアプリを起動した。QRコードを表示させ、彼に向ける。圭介が、それを自分のスマホでスキャンした。
つながった――声に出さずに私は思う。
「……早いですよね。一月もそろそろ終わり。あと一か月ちょっとで、美穂と出会って一年になります」
圭介が遠い目をしながらそう言った。
「クリスマスイブの夜、改札前で美穂と最後に話したのも、そんなことでした。三月になれば、あの日から丸一年だね、と」
ああ、そうか。
私には、やっと謎が解けたよ。
美穂が「別れる」と言った理由、そして、死の真相の――。
私の思いは確実に美穂に届いていた。美穂も私に同じような感情を抱いていた。
だからこそ、圭介の一言は死に値するほどの恥辱だったのだ。
「LINE、ありがとうございました。真穂さん、でいいんですよね?」
うん。――次からは、もう呼び捨てで構わないから。
「真穂さんとは、何だか初対面だと思えません」
そうだろうね。
「好きになった瞬間の、美穂とそっくりだからなんでしょうね」
私たちは、心まで通じ合う、一卵性双生児なんだ。
「校門で、小さく『寒い』とつぶやいていたあの日の美穂は、この世のものとは思えないほど、綺麗でした」
妹の彼 原田なぎさ @nagisa-harada
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