63 救いたい

 ネリクの翼がバサリと開くと同時に、おびただしい量の聖力が放たれる。


 暗雲の如く立ち込めていた瘴気が、瞬時に浄化されていった。


 ネリクは私を腕に抱いたまま、翼を羽ばたかせる。ネリクの翼が、私たちを取り囲む瘴気をぐんぐん消し去っていった。すごい、すごいネリク!


 光の差し込まない地の底のような黒雲の中に閉じ込められていた空が、ネリクが風を切る度に本来の水色を取り戻していく。


 瘴気の雲の隙間から日光が差し込み、安堵を覚える温かさに思わず笑みがこぼれた。


「ネリク! 私たち、空を飛んでる!」


 ネリクが笑顔で応える。


「うん、覚醒した時に翼が生えたんだ! おかげで、間一髪瓦礫に埋まらずに済んだよ!」

「えっ! 埋まる!?」

「下を見て!」


 ネリクに言われて、目線を下に向けた。眼下に見えるのは、多分地下牢があった城塔の残骸だ。私たちがいたと思われる場所を中心に、瓦礫が円形状に吹き飛んだ跡がある。――え、なにあれ。


 驚いてネリクを見た。


「あんな大きな建物がどうやって!?」

「聖力の量が多すぎたみたいで、建物が崩れちゃったんだと思う!」


 アハハ、と照れくさそうに笑うネリク。思わず顔を引きつらせる。


「嘘でしょ……」

「俺も驚いたよ! ああでも、少しずつ制御の仕方が分かってきたから安心して!」

「う、うん……っ!」


 うわあ、あれを壊して出てきたのか。聖力って破壊もできたのかと驚いたけど、よく考えたら私の光の矢も規模は全然小さいけど攻撃力は高い。聖力は浄化や治癒ができるからそちらの印象が強いけど、癒やすのも壊すのも表裏一体なのかもしれなかった。


 私が下を見て青褪めたのに気付いたのか、ネリクが眉をキリリとさせる。


「俺が守るから、ルチアはしっかり掴まってね!」

「……絶対離さないよーっ!」


 そりゃあ万が一落ちても、私の場合は多分死なないとは思う。マルコが突き落とした崖よりは、高さはないし。それにネリクが聖力をたっぷり注いでくれたから回復もできると思うけど、でもそういう問題じゃない。


 痛いのは、嫌なものは嫌。もう二度と落ちるのは勘弁だった。


 ヒシ、とネリクの首にしがみつく。世界で一番安心できる場所にようやく辿り着けた幸運を、もう二度と手放したくない。


 その直後。


 巨大な弾丸となった瘴気の塊が、横から飛んでくる!


「うわっ!」


 ネリクはひらりと躱すと、翼を羽ばたいて聖力の雨礫で攻撃を返した。瘴気の弾丸にボコボコと穴が空いていき、ファ……ッ! と黒いもやが掻き消える。


「一体どこから攻撃が!?」

「あそこだ!」


 急旋回して、攻撃してきた方に向き直る。こちらに向かってものすごい速さで飛んできているのは、ネリクの白と対である黒い翼だった。


「――やっと出てきたわね!」

「ロザンナ様!」


 大きな黒い翼の中心にいるのは、長い黒髪を風になびかせた赤目のロザンナ様だ。瘴気を纏わせている姿に、新たなる聖女と言われていた時の面影はもうどこにもない。


「どうして覚醒しちゃったのよ! しかも聖女が生きているってどういうことなのっ!」


 癇癪を起こした子供みたいに髪を振り乱しながら、ロザンナ様が叫んだ。


 私に向かってビシッと指を差す。


「聖女! 貴女だけは許さない!」


 ロザンナ様の身体から、膨大な量の瘴気が浮き上がった。瘴気がうねりながら集まり、巨大な剣を象る。鋭利な切っ先が、私たちに向けられた。


「死ねえーっ!」


 ロザンナ様の叫び声と共に、剣が一直線に向かってくる!


「させないっ!」


 ネリクが巨大な光の盾を私たちの前に出現させた。と同時に、翼を羽ばたかせて光の雨礫をロザンナ様にぶつける。


「ぎゃあああっ! 痛い、痛あああいっ!」


 小さな光がロザンナ様にバシバシと当たる度に、ロザンナ様から瘴気が漏れては、浄化されかすみとなって消えていった。


 ネリクが怒鳴る。


「ルチアに手を出したら許さないっ!」

「いやよっ! ネリクは私のなんだから――っ!」


 ロザンナ様はぼたぼたと大粒の涙をこぼしながら、次々に攻撃を仕掛けてきた。


 だけどその全てはネリクに阻止され、どれひとつとしてこちらに届きはしない。


「ずるいっ! その女ばっかりずるい!」


 ロザンナ様から瘴気が吹き出す度に、ロザンナ様の身体が少しずつ小さくなっていく。


 幼い女の子が人を恋しがって泣いているような姿に、胸が締め付けられる。


「俺はあんたなんか知らない!」


 ネリクは容赦なく光の雨礫をロザンナ様に放ち続ける。当たる度に悲鳴を上げるロザンナ様。


 ……待って。本当にこれでいいの?


 私の中に、疑問が浮かんだ。


 このままだと、伝承の通りになる。ネリクは『黒の神獣が撒き散らし瘴気を浄化し、世界に安寧をもたらす存在』で、黒の神獣は白の神獣に倒される運命にあるから――。


 確かにロザンナ様は国土中に瘴気をばら撒いて、きっとそのせいで沢山の人が魔物に襲われて亡くなった。絶対やっちゃ駄目なことだ。


 ――でも。


 大好きだったお父さんをロザンナ様から奪ったのは誰?


 無理やり望んでいない覚醒をさせられたのは誰?


 ――彼女はどれひとつとして望んでいなかったのに。


「みんな私を神獣神獣って! お父さんだけが、私をただの娘として扱ってくれたのに!」


 ロザンナ様が、幼女の姿に変わっていく。きっと、これまで詰め込まれ続けた瘴気が放出されてるんだ。このまま瘴気が漏れ続けたら、ロザンナ様は――消滅する?


「ネリク……ッ! 待って!」


 泣きそうになるのを懸命に堪えながら、ネリクに呼びかける。


「ルチア?」


 怪訝そうなネリクが私を見下ろした。


 ネリクにとってロザンナ様は、突然自分を攫った上に恋人の私を殺そうとした相手でしかない。


 だけど、私は彼女から聞いてしまった。幼い頃の彼女の思いを。彼女がどれだけネリクの存在に縋りながら生きてきたのかを。


 だから。


「やっぱり駄目だよ、彼女を完全に浄化しちゃ駄目だよ!」

「ルチア、でも、」

「だってあの人はネリクのお姉ちゃんなんだよ!? ネリクに会うことだけが生きる目的だったんだよ!?」


 そんな悲しい人を、ネリク本人が浄化していいものか。


 伝承だの運命だのなんて、クソ喰らえだ――!


 ネリクは赤い目を見開き、じっと私を見ている。


「私は彼女を救いたい」


 ネリクは一瞬驚いた顔をしたけど、すぐに垂れ目をへにゃりと下げた。


「……やっぱりルチアは聖女だね」

「……そういう訳じゃ」


 ううん、とネリクは首を横に振る。


「俺は邪魔なら消してしまえばいいと思っていた。これまでの人生で俺に嫌なことをしてきた奴らも、ルチアを追い出して殺そうとした人間も、みんないなくなってしまえばいいと」

「ネリク……」


 ちゅ、とこめかみにキスをされる。


「俺がただの獣に身を落とす前に止めてくれて、ありがとうルチア」


 ネリクの赤い瞳が、優しい弧を描いた。


「俺を導いて、ルチア。俺はルチアを信じるから」

「ネリク……ありがとう」


 ネリクに微笑みかけると、今や幼い少女になってしまったロザンナ様へ目線を向ける。


 あの姿は彼女が五歳、つまりお父さんと無理やり引き剥がされてしまった年齢なのかな。


 彼女の中で、時はそこで止まってしまったのかもしれない。瘴気が彼女を冒し始める手前まで。


「……彼女の瘴気が抜けた今なら、話を聞いてくれるかもしれない。ネリク、力を貸して!」

「ん!」


 ネリクの耳元に顔を近付けて作戦を話すと、ネリクの目が驚きからか大きく見開かれた。

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