61 悪夢からの目覚め

 上下左右も分からない。浮いているような沈んでいるような感覚の中、女が飽きもせずどこかから語りかける。


「ネリク、素直に認めちゃいなさいよ。貴方はこちら側にこられる素質があるの。楽になるわよ」

「ルチア……ッ」


 ネリクを苦しめる頭中に響き渡る大声は、ルチアを想う時だけ小さくなった。


「! ルチアルチアって! どうしてあの女がのうのうと生きてたのよ! やっと追い出したのに、ここでも私の邪魔をする!」


 女は怒ると、ネリクにもっと沢山の瘴気を注いだ。


「うああっ!」


 苦しい、なんでこんなことをされないといけないのか。ルチアに会いたい。ルチアの声を聞いて、ルチアの笑顔に癒されたかった。


 ルチアを心の中に思い浮かべ、嵐のような洗脳をギリギリのところで免れる時間。ただひたすらに地獄だった。


 するとある時、女が言った。


「……あら? 小さいけどあの気配は……ふふ、そう、健気にもネリクを助けようとか思ってるのかしら?」

「……?」


 ネリクはもう、まともな思考ができないようになっていた。だけど、女の声に嫌そうな色を感じ取ると、意識が少しだけ浮上する。


「ほら、感じないかしら? 憎たらしい気配がこちらに向かってきているのを」


 女に言われ、懸命に散り散りになりそうな意識を外に向けてみた。


 ――すると。


 温かくて清らかな、ネリクの光。前はぼんやりとしか感じられなかった気配が、近付いてきているのを感じ取ることができた。


「ルチア……!」

「あら、やっぱりそうよね? ……ああ、いいこと思いついちゃった! 早く来てくれないかしら、ルチアさん」

「ぐ……っ」


 ――ルチア、来ちゃダメだ。会いたい。来ちゃダメ……。


 混濁する意識の中で、ただひたすらネリクの唯一を思い浮かべる。


 ひっきりなしにネリクを誘惑する声にあらがいながら、早く覚醒を、と願った。ルチアが来る前に何とかしないと、ルチアが危ない。


 微睡み、唆され、苦しみ、ネリクの精神は限界に近付いてきていた。


 ルチア――。


 ルチアを思い浮かべると、恐怖が薄れる。だからネリクはルチアの名前を忘れないように、繰り返し呼び続けた。縋れるものは、もうこれしか残されていなかった。


 でももう、疲れた……いっそのこと、声の言うことを聞いてしまったら楽になれるだろうか、と考えた、その時。


 誰かが自分の名前を呼んだ気がした。意識の中の瞼を開く。


 暗闇の中で、誰が泣いている。


 暖かいものが、ネリクの頭を包んだ。


 ……何故だろう。すごく安心する。


 頭の中の黒い自分が、見るなと叫んでいる。何故だろう。


 白い色が、視界に映った気がした。


 ――この色は、好きかもしれない。


 好きなものの色、だった気がする。


 でも、黒い自分がネリクの前で通せんぼをしているから、見えにくい。


「……リク……ッ!」


 聞いているだけで嬉しくなってしまう声が、ちょっとだけ聞こえた。黒の自分に言う。


 退いてよ、声の持ち主を見てみたいんだから。


 黒の自分を押し除けようとしても、ぬるりと形を変えてネリクの前に立ちはだかる。


 すると、突然声が苦しそうな悲鳴を上げ始めた。


 心がざわざわして、ネリクの意識が、ゆっくりと浮上していく。


 一体どうしたんだろう。


 どうして苦しそうな悲鳴を上げているんだろう?


 ――そう考えた瞬間、雷に打たれたように思考が戻ってきた。


 このままじゃダメだ、ここから出ないと! 


 焦燥感がグワッと押し寄せてくる。


 黒い自分を退かそうと身を捩っている内に、悲鳴が聞こえなくなった。どうして聞こえなくなったのか。恐怖が迫ってくる。いやだ、いやだいやだいやだいやだ――!


 と。


 自分の身体から、キラキラした白い光が浮き上がり始めたじゃないか。


 ――え、なに、これは……?


 得体の知れない光なのに、何故か怖くない。目の前の黒い自分の姿が、ぐちゃぐちゃに歪み始めた。苦痛からか身体中を掻きむしって、雄叫びを上げている。


 ふ、と光が唐突に止んだ。


 もう目の前に黒の自分はいなかった。代わりにいたのは、真っ青な顔で身体中を白く発光させてネリクに唇を重ねている――


 ルチアだった。


「ルチア……!」


 ネリクの口が動いたのに気付いたのか、ルチアがゆっくりと顔を上げて弱々しく微笑む。


 ネリクは驚愕に目を見開いた。ルチアの頬から顎にかけて、おびただしい量の血が付いていたのだ。


「ルチア、ど、どう……!」


 血の滲みに沿って、視線が自然と下がっていく。ネリクの色だねと言い合いながら着てくれた、赤い服。胸の所が破けていて、どす黒い血がぐっしょりと服を濡らしていた。


「ルチア! 怪我!」


 慌てて起き上がったら、ネリクにもたれていたルチアの身体がぐらりと揺れた。そのまま後ろへ力なく倒れていく。


「ネリク……よかっ……」

「ルチアッ!」


 咄嗟に抱き寄せて、転倒を防いだ。


 腕の中にいる、最愛の人。ようやく会えたのに、なのにどうして身体が氷みたいに冷たいのか。

 

 死、のひと言が頭に浮かんだ。


「ネリク……愛して……」


 る、の言葉と一緒に、命が抜けていくような静かな息が、ルチアの小さな口から漏れる。


 ルチアの青い瞳から、急激に意思が消えていくのを信じられない思いで見つめていたネリクは。


「……ルチア……?」


 返事はない。


「ルチア……ルチア、あ、あ、……あああああーっ!」


 ――逝かせない……!


 身体の中にルチアによって注がれた聖力が、ネリクの内部に浸透していき。


「…………ルチアーッ!」


 白い爆発が起こった。

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