53 邂逅

 王都を通り過ぎ、次に王城の門を潜った。


 眉をひそめたマルコが囁く。


「……ここも全く機能していませんね」


 酒を飲んだり寝ている兵たちの横を、難なく通り抜けた。近くで見ると彼らは土色の顔をしていて、生気が全く感じられない。


 よく見たら眼窩は窪んでいて、鎖骨が浮いている。


 ……瘴気が濃いと、人間でもこんなになるんだ。


 ゾッとすると同時に、あの時もっとアルベルト様に言い返せばよかったのかな、と罪悪感に近い後悔の念が押し寄せてきた。


 このまま放っておけば、遅かれ早かれ彼らは死ぬだろう。ううん、もしかしたら、元々身体の弱かった人たちの中には、もう亡くなっている人もいるかもしれない。


 通り過ぎてきた城下町を振り返る。


 街中に漂っていた悪臭の中には、もしかして死臭もあったんじゃ――。


 マルコがその単語を口にしなかったのは、私に対する配慮だったのかもしれない。


 奥歯を噛み締め、低く答える。


「――好都合です。進みましょう」


 憐れんだところで、今の私は何もしてあげられない。せめて祈祷台まで辿り着けたら、上空を覆う瘴気の雲を少しは浄化できるかもしれないけど。


 でも、私があの量を浄化したら、きっと死ぬ。


 少しずつ浄化する時間を、アルベルト様やロザンナ様が与えるとは思えなかった。


 それに私には、ネリクを助け出すという重大な仕事がある。


 ……ごめんなさい。私はネリクが大事なの、貴方たちを見捨てたい訳じゃないの。


 誰に対する懺悔なのかも分からないまま、心の中で謝り続けた。



 城の敷地内にある中庭を抜けて、地下牢がある城塔に向かう。


 昼間だというのに、瘴気で日光が差し込まないせいで、周囲は夕方のように暗かった。


「あそこが地下牢の入り口です」


 マルコが指差したのは、レンガを積み上げて作られた、大きな円塔の一階部分にある鉄格子の扉だ。


 扉の前には、見張り番がいた。寝ているのか、足を投げ出して円塔の壁にもたれかかり、ぐったりと項垂れている。


 地面の上に力なく置かれた手の上には、鍵束があった。


 私の手を引いたまま、マルコが静かに兵に近寄る。しばらくじっと観察していたけど、小さな息を吐くと突然大胆に手を伸ばし、鍵束を手に取った。


「マルコ!?」


 慌てて小声で呼びかける。すると、マルコが悲痛な表情を浮かべながら振り返った。


「この者は息をしておりません」

「え……っ」


 兵に近付こうとしたけど、腕を掴まれて引き戻される。


 マルコの表情は厳しかった。


「亡くなった人間が瘴気を浴びてどうなるのか、ルチア様はご存知ですか?」

「い、いえ……」


 知らない。考えたこともなかった。だって、瘴気は魔物を生み出すものだとばかり思っていたから。


 マルコはぐいぐいと兵の死体から私を遠ざけた。


「私も存じませんが、生きている人間にもこれだけの影響があるのです。近付かないに越したことはないでしょう」


 マルコの言うことにも一理ある。生きる屍になったら私の浄化でも効果がありそうだけど、元人間を何も気にせずに浄化できそうにない。


「とにかく行ってみましょう。これだけ警備がなっていないのであれば、この鍵さえあれば囚われ中の魔人を解放することも可能でしょうから」

「――ええ!」


 色々と気になることはあるけど、今はネリクが先だ。


 すると、鉄格子を掴んだマルコが、「ん?」と声を漏らす。


 キイ、と音を立てて、鉄格子の扉が開いてしまったのだ。


「え……開いて……」


 マルコが嫌そうに顔をしかめる。鍵束を腰にぶら下げると、代わりに剣をスラリと抜いた。


「襲いかかるような気力が残っている輩がいるとも思えませんが、念の為抜剣していきます」

「え、ええ」

「しばらくは手を繋いであげられません。申し訳ございません……!」


 とても残念そうな声で謝るマルコ。


 そもそも手を繋いでくれと頼んだ記憶はない。


 でも、ここで争っても何の得にもならない。なので、全部まるっと受け流すことにした。


「さ、いきましょう」


 マルコに先に行ってと目で促す。今の私に、先頭に立ってマルコを庇おうなんていう殊勝な気持ちは一切ない。罪悪感も欠片もない!


 そりゃあ、後味が悪いから死なれるのは嫌だ。でも、マルコが腰を抜かすような何かが起きて、三度目の正直で私を裏切って逃げてくれないかな。


 そんな昏い奇跡が起こるのを願わずにはいられなかった。


 どうして私だけが、あんな滅茶苦茶な言い分を聞かないといけないのかと思う。でも、マルコの執着がちょっとどころじゃなくやばいのは事実だ。


 私が少しでも裏切る気配を見せた瞬間、危ない目に遭うのは間違いなくネリクだ。だから、マルコは裏切れない。


 ……ネリクになんて説明すればいいかな。ネリクを悲しませたくない。でも嘘は絶対に吐きたくない。あんなにも言葉と仕草で真っ直ぐな愛を伝えてくれたネリクに、それだけはしたくなかった。


「――行きますよ!」


 マルコは掛け声と共に、一気に扉を開ける。中に飛び込むと、サッと見回して周囲を確認した。振り返りつつ私にひとつ頷いてみせると、下へ向かう階段を下り始める。慌ててマルコの後に続いた。


 彩光用の小窓から僅かな光が差し込んでいるけど、足元は暗くて見えにくい。


 螺旋状になった階段を、壁に手を触れながら降りていく。


 ……あれ? そういえば、王都に入る前は感じられた澄んだ気配が、今は殆ど分からない。


 ネリクが地下牢に囚われているのなら、もっと強く感じられないとおかしいのに。


 それか、何か聖力が弱まるようなことがあった……?


 不安を覚えつつ、更に下っていく。


 と、突然マルコが止まった。


「わぷっ」


 マルコの背中に鼻先をぶつけてしまい、小さく呻く。


「……マルコ?」


 マルコの身体が強張っているのが伝わってきた。どうしたんだろう。


「……下の方の明かりが点いています」

「え?」


 ひょいとマルコの陰から覗くと、仄かに燭台の炎らしき赤い光が壁を薄く照らしている。


 マルコは口に指を当てて私を黙らせると、じっとして動かなくなってしまった。


 直後。


 突如、真っ黒な瘴気が前方から押し寄せる!


「うわあっ! ル、ルチア様っ!」

「浄化しないとっ!」


 咄嗟に両手を前に掲げた。祈祷台以外で浄化したことはない。でも何とかしないと!


 手に聖力を集中させた瞬間、マルコが私を抱き上げる。


「今は逃げましょう!」


 踵を返すと、階段を戻り始めた。マルコの顔は、恐怖で引きつっている。


「ちょ……っ離して下さい! 下にはネリクが!」


 やっとここまで来たのに、瘴気如きで尻尾を巻いて逃げたくはない!


「ダメです!」


 声が裏返っていた。


「浄化するから! 離してっ!」

「あ、暴れないで下さい!」


 拘束から逃れようと身体をよじる。重心が崩れたマルコがよろけた。


「そんなに怖いのなら、私を置いていきなさい!」


 マルコを睨みつけながら怒鳴った。マルコの顔に焦りが浮かぶ。


「ダメです! 直接こんな量の瘴気を浴びたら、私たちもどうなるか分かりません!」


 この臆病者! と言おうとしたその瞬間。


「――あら、ようやく帰ってきたのね」

「……っ!」


 声がした階段下を振り返る。


 どす黒い瘴気の中艶やかな笑みを浮かべていたのは、アルベルト様を従えたロザンナ様だった。

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