47 マルコの懺悔

 マルコの固い親指の腹が、愛おしそうに私の唇をなぞっていく。


 マルコの身体で木に押し付けられている私は、逃げることもできない。だけどそれ以上に、恐怖で身体が竦んでしまっていた。


 ……は? お慕いしていたってどういうこと?


 私の頭の中は、疑問で一杯だった。だって、普通に考えて、好きな相手を崖から突き落とす? いや、ないよね。あり得ない。


 あ、あれかな? マルコは信心深いから、聖女として尊敬していたならまだ分かるかも。あ、そっか、そうだよね、あは、あはは。


 内心非常に焦りながらも必死で納得できる解釈を考えていたら、目の前のことが疎かになっていたらしい。


 反応が遅れたのは、完全に不覚だった。


「ああ、ルチア様……っ」


 それまで私の顔を両手で固定しながら唇をふにふに触っていたマルコが、突然顔を近付けてきて私の唇を奪ったのだ。


 一瞬だった。


 ……は?


「――んん!?」


 ガチ、と歯がぶつかり合った瞬間、マルコが照れたようにフッと笑う。顔を離したので失敗して諦めたのかと思ったら、再びゆっくりと唇を押し付けてくる。……ひっ!


「ルチア様、清らかな貴女を穢す私をお許し下さい……」

「いやっ、やめ……っ」


 唇が、完全に塞がれた。


 涙で濡れるマルコの切れ長の瞳が、私をじっと見つめている。瞳に込められた異常な熱に、ぞくりと恐怖が押し寄せてきた。


 ぎゅう、と押し込むように押し当てられるマルコの唇。その感触が不快すぎて、ここでようやく麻痺していた感覚が戻ってきた。


 な、なにしてるのこの人!? あり得ないんだけど!


「い……いやっ!」


 両手でマルコの顔面を掴み、押し返す。さすがにこれは効いたのか、マルコが怯んだ。


「い……っルチア様っ! やはり私のことを怒っておいでなのですか!」

「当たり前です! 触らないで下さい!」


 今すぐ唇を拭きたい。ここはネリク専用なのにと思った瞬間、今度は悔し涙が溢れ出てきた。言葉を取り繕う余裕なんてなかった。


「マルコの馬鹿! 私のネリクをどうしちゃったのよ!」


 叫んだ瞬間、マルコの表情が一瞬で強張り、無になった。


「ルチア様……『私のネリク』とは一体?」

「とぼけないで! 魔人を連れて行ったんでしょ!?」


 もしあれがネリク以外の魔人だったとしたら、ネリクは絶対に私を探しにきている筈だ。少しでも私から目を離すと不安になるあのネリクが、私を探さないなんてどう考えてもおかしい。


 だから、こんなことは考えたくないけど――連れ去られたのはネリクしか考えられなかった。


 無表情で私を見下ろすマルコの胸を、渾身の力で幾度も叩く。


「赤い目をした黒い髪の魔人よ! 彼は私の恋人なの! ネリクを返して、返して……っ!」

「ル、ルチア様……っ」


 押し付けられていた力が弱まった。支えを失い、私はズルズルと地面にへたり込む。力なく垂れ下がるマルコの腕が視界に入った。


 と、ぱたぱた、と座り込んだ私の膝の上に水滴が落ちてきたじゃないか。不審に思って見上げると――。


「ルチア様のもの……」


 水滴の正体は、マルコの顎から落ちてくる彼の涙だった。


 え……あの堅物自己中マルコが、泣いてる……!?


 寂しそうな掠れ声が降ってくる。


「私が愚かにもルチア様を独り占めしようとした報いでしょうか……?」

「……は? 何を言って」

「貴女の心は、もう他の者のものになってしまわれたのですね……?」


 マルコは肩を落とすと、私の前に膝を突いた。涙を流すさまは、いつもの騎士然としたマルコからは想像もつかないほど弱々しいものだった。


 マルコが、涙も拭わないまま微笑む。


「私は――選択を誤った。臆病風に吹かれて、一度目は貴女の信頼を失い、二度目は貴女の命を奪い私だけのものにしようと欲張り……」


 両手を揃えて、私の前の地面に突いた。


「三度目の今回は、もう貴女を失望させたくありません」


 もう十分失望してるけど。


 口から出かかったけど、辛うじて留める。


 へたり込んでいる私の膝に、マルコが額をつけた。見覚えのあるその姿は、かつて国境に向かう際、マルコが私に許しを請うた時と同じものだ。


「ルチア様、お願い致します。私の罪を懺悔させていただけませんか」


 何を都合のいいことを、と言い返しそうになって、こちらも止めた。


 ネリクを連れて行ってしまったヨハンとかいう男は、先に行ってしまった。あの口調だと、どうやら今回の作戦はマルコが一番上の立場にあるみたいだ。


 ――だったら、ネリクを取り戻すにはマルコの協力があった方が絶対にいい。


 何度も私を裏切ったこの男は、もう信用できない。臆病風に吹かれたら、きっとまた簡単に裏切るだろう。


 でも、でも。


「……分かりました、聞きましょう」

「ルチア様……!」


 マルコが顔を上げる。涙でぐしゃぐしゃになった顔は、まるで叱られて泣く少年のように見えた。こんな言葉で許されると信じる、馬鹿な男。


「その代わり、ネリクを取り戻す手伝いをしなさい」


 私はもう聖女じゃないのに、今でも聖女として見てくるマルコの心を利用する私は、やっぱり聖女の器じゃないんだろう。でも、私は何だってする。ネリクを取り戻す為なら、悪女にだってなってみせるから。


 マルコがコクコクと幾度も頷く。止めどなくこぼれ落ちる涙が、ネリクの瞳と同じ色をした私の膝の上をどんどん濡らしていった。


「ルチア様、ありがとうございます……!」

「早く懺悔なさい。――私の気が変わらない内に」

「ああ、今すぐに!」


 マルコはそれを皮切りに、到底納得できない自分勝手な屁理屈も醜い感情も、全てを吐露した。


 こんなことを考えていたのかと、マルコの信心深さをそれでもまだ信じていた自分の甘さを再認識する。


 マルコは私に縋った。子供のように泣きじゃくりながら、甘えてきた。思い出す度に腹が立ったマルコ。こんなに腹が立って仕方ないのは、それでもマルコは私が許すと信じているからなのかもしれない。


「約束します、ルチア様。もう二度と貴女を裏切らず、貴女の手足となり今度こそ貴女を守り抜くと……っ」


 愛してます、愛しているのです。だから貴女を愛すことだけはお許し下さい、ルチア様――。


 膝の上に、幾度も頬を擦り付けるマルコ。突き飛ばして怒鳴りつけることができたなら、どんなにかスッキリしたことだろう。


 当然、「許す」とは言えなかった。


 代わりに伝えたのは、こんな言葉だ。


「では守護騎士マルコ。その誓いの通り、私の手足となり私を赤い目の魔人の元へ導くのです」

「はい、ルチア様――! 貴女のお心のままに! もう私は二度とお側を離れないと誓います……!」


 マルコは再び私の膝に額をつけると、「ルチア様……っ」と甘えたような吐息を漏らした。

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