45 マルコのたったひとりの聖女

 一歩ずつ強く地面を踏み締めながら、マルコは先日の出来事を思い返していた。


『宿敵の悪い魔人』は赤い瞳に獣の耳が生えた人間の姿をしていると説明した、聖女ロザンナ。


「何故聖女ロザンナ様がご存知なのですか」という言葉が、喉まで出かかった。だが、マルコは己が騎士に相応しくないほど臆病者だと強く自認している。その為、何も聞き返せなかった。


 己の狡さを嫌でも認識させられてしまったのは、あの時だ。


 ――国に対する忠義が疑われた瞬間、護衛対象であるお方を咄嗟に突き飛ばしてしまった。


 その瞬間から、マルコは自分が「卑怯な臆病者」であると悟っている。


 どうしてあの手を止められなかったのか。


 極限まで聖力を使いガリガリに痩せてしまった、彼の聖女の驚いた瞳が忘れられない。


 印象に残るほどの色味でない瞳。海のように濃くもなく、夏空のように青くもない。どこにでもありそうな青い色合いは、マルコに故郷の淡い秋空を思い起こさせ、見る度に穏やかな気持ちにさせてくれた。


 健康的だった彼女は、日を追う毎に痩せ細っていく。浄化で気を失った彼女の身体を抱き上げれば、如何に軽くなったのかを実感できた。


 今にも折れそうな華奢な身体に触れる度、じわりと湧き上がるのは庇護欲だ。


 アルベルト王子に「お前も共犯だろう! そのガリガリのみすぼらしい女に甘い言葉でも囁かれたのか、汚らわしい!」と言われた瞬間、己の下心を見抜かれたと思った。


 彼女は清く気高い聖女なのに、彼女の護衛騎士である自分はよこしまな考えを持っていると指摘された、と慌ててしまったのだ。


 突き飛ばした瞬間の、彼女の痩せ過ぎてぎょろりとした大きな瞳。専属の護衛騎士に裏切られたのに、それでも穏やかな空の色の瞳は光を失うことはなかった。


 すぐさま後悔の念が押し寄せてきたが、あの場で彼女に手を差し伸べれば、確実に糾弾される。助け起こしたい気持ちを必死で押さえつけ、何とか彼女を無事に連れ去ろうと考えた。


 あんなことをしてしまったのに、マルコは彼女に嫌われたくなかったのだ。


 アルベルト王子は、新たなる聖女ロザンナに心を移してしまわれた。不遇にもめげずに、国の為、賢明に浄化を施す彼の聖女を理解し護ってあげられるのは、護衛騎士の自分だけ。


 そんな自負がどこかにあったのだろう。


 彼女が自分を責めないのをいいことに、マルコは許しを乞うた。彼女の膝に追い縋る度、彼女に触れていいのは自分だけだという昏い喜びが、心を満たした。


 マルコは、彼女を逃してあげたいと思っていた。聖女ロザンナに狂ってしまった国には、もう彼女の居場所はない。


 国を瘴気から守りたいという彼の聖女の清廉な願いは叶えさせてやりたかったが、聖女ロザンナを糾弾するなど自殺行為に等しい。


 だから国境まで連れていった。その間、必死で考えた。どうしたら彼女を逃してあげられるかを。


 アルベルト王子が要求したのは、彼女の死だ。成果なく戻れば、次に消されるのはマルコだ。


 このまま共に国外へ逃げようかとも考えた。彼の聖女の側から離れることなど、考えたくもなかった。


 だが、ここでも臆病なマルコが顔を覗かせる。


 マルコが国を裏切れば、恐らくマルコの家族の命はない。そのことを彼の聖女が知ってしまったら、間違いなく彼女は彼女自身を責めるだろう。


 それを盾にマルコが己の醜い心の内を曝け出し、彼女に愛を乞うたら――。彼女は受け入れざるを得ない。


 だが、同情で手に入れた愛など欲しくなかった。


 欲しいのは、彼女の全面的な信頼と愛だけ。脅しで得た愛など必要ない。だからマルコは、何としてでも国に戻らなければならなかった。


 なのに彼女は、ここでもマルコを助ける方法を提案してきた。これだけの裏切りを見せた自分に、だ。


 浄化をしなくなった彼の聖女は、驚くほど健康的な身体を取り戻しつつあった。


 出会った頃のあどけなさを彷彿とさせる、柔らかそうな頬。記憶の中のものよりも幾分か大人びていて、ずっと眺めていたいと思えるほど尊く愛おしいと思った。


 彼女を国外に逃したら、きっと他国の奴らは彼女の清廉さと美しさにすぐにとりこになってしまう。もし彼女が、その中のひとりにマルコ以上に心を許したら……?


 ――だから、魔が差したのだ。


 彼女はマルコが神罰を恐れていると勘違いしてくれた。マルコはそれを利用し――。


 彼のたったひとりの聖女ルチアを、独り占めした。


 ここで殺してしまえば、彼女を自分から奪う者はいなくなる。


 死ぬ瞬間まで、自分だけを想っていて欲しい。その為ならば、嫌われてもよかった。


 崖から突き飛ばしたあの時、思っていた通り、彼女はマルコをまっすぐに見た。


 マルコの故郷の秋空と同じ、柔らかい青の瞳。


 これは全部、自分だけのもの。


 仰向けの状態で崖下に落ちた彼女の身体から、おびただしい量の血が流れ出すのが見えた。


 どうぞこのまま自分を恨みながら天に召されて下さい――。


 彼女の心の中に自分しか残らないようにと、マルコは願った。願いながら、涙を流した。


 王都に戻り、証を見せた。


 国に忠義を見せたマルコが次に成すべきことは、彼女を追い出したこの国の行く末を彼女の代わりに見守ることだった。


 アルベルト王子の専属護衛騎士となったマルコは、すぐにこの国の異常さに気付く。


 誰もが聖女ロザンナに夢中になっており、彼女の関心を得る為なら何でもやろうとしていた。


 厳格で無愛想と有名な聖女ロザンナの護衛騎士が表情を緩ませ彼女を褒め称える言葉を連発する度に、言いようのない不気味さを感じる。


 アルベルト王子も変わってしまわれた。王子ならではの傲慢さは元々あったが、臣下の話を聞き入れない人ではなかった。


 だが、今のアルベルト王子が聞くのは、聖女ロザンナの言葉だけ。


 おかしい。絶対何かが狂っている。


 焦燥感に襲われながらも、「曲がりなりにも聖女なのだから」と己の疑惑を否定し続けた。


 日頃から、マルコは彼の聖女と二人きりで過ごす時間が多かった。だからだろう、周囲の些細な変化になかなか気付けなかった。


 全てが遅すぎた。我ながら鈍感すぎると痛感したが、時は戻せない。


 それほどに、マルコの瞳には彼の聖女の姿しか映っていなかったのだ。


 疑惑が確信となったのは、聖女ロザンナが何故か自分を名指しで祈祷台に呼びつけた時だ。


 かつて彼の聖女が祈りを捧げていた清らかな場所。その中に異質なものを感じたマルコは、こうべを垂れた時に原因に気付いた。


 真っ黒に染まったハダニエル王国の地図。あまりの禍々しさに、悲鳴を上げそうになった。


「マルコ、顔を上げて頂戴。貴方に頼みがあるの」


 聖女ロザンナの声が降ってくる。不快な声にしか感じられなかった。何故みんなは、こんな声に唯々諾々いいだくだくと従うのか。


 だが、宿敵の悪い魔人を連れてこいと頼まれた地図の場所に、マルコは記憶があった。


 ――彼のたったひとりの聖女を残してきた場所。


 これが偶然であるものか。奇跡だ。彼女は聖女だから、奇跡が起きたのだ。


「……アルベルト様のご許可があれば」


 会いたい。恋しい人にもう一度会いたい。会ったらもう二度と離したくない。今度はもう、同情でもいいから。


 マルコはその一心で、逸る気持ちを無表情の下に押し付けながら答えたのだった――。

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