44 意外な人物

 長くて甘いおはようのキスの後、朝食にしようとネリクが提案してきた。


 なお、私はまだネリクの膝の上に乗せられたままだ。朝食にしようと言っている割に、ネリクの腕の拘束は一向に緩まない。私の首に鼻先を突っ込みながら、甘い声で囁く。


「ルチアが沢山食べなかったらやろう」

「朝から沢山は入らないよ。それに今は、完全復活してるから全然大丈夫だよ?」

「んーん」

「……ん、分かったよ」


 私が聖女だった頃、極限まで聖力を使って激痩せしていた事情を知ったネリクは、私に聖力を使わせて倒れでもしたら絶対に自分自身を許せないらしい。


 しっかりと朝食を取った上で訓練を再開しようと主張され、急いでやることもないか、とネリクの懇願を受け入れた。覚醒前だし、多分まだ時間はある。ネリクを不安にさせてまで推し進めたくなかった。


 ……それにしても、こんなに好かれていいのかな。ネリクがすごく嬉しそうだから、いいのかな。うん、きっといいに違いない!


 不安だった状況にようやく差し込んできた光明に、私は楽観的になっていた。私とネリクが二人揃っていれば、きっと何とかなる。黒の神獣を退けた後は、幸せな家庭を築けることを信じて疑わなかった。


 子供の耳はどっちになるのかな。どっちでもいいけど、どうせならネリクとお揃いがいいなあと思って、ネリクの獣の耳に指で触れた。ネリクはくすぐったいのか、耳をピクピクと小さく動かす。ふふ、可愛いな。


 滑らかな手触りが気持ちよくて、さわさわと触り続けた。ネリクは堪らなさそうな表情になると、またキスをしてくる。慈しむような食むキスに、とろんと蕩ける。


 ネリクに何度も唇をはむはむされた後、ゆっくりと顔を離したネリクが何とも色っぽい表情を浮かべながら言った。


「色々我慢できちゃうから、あんまり耳はいい」

「色々? ふふ、ネリクはくすぐったがり屋さんなんだね」

「……うーん? ん……」


 何とも歯切れの悪い返事だ。くすぐったがり屋は恥ずかしかったのかな? と思うことにする。


 ネリクはもう一度、今度は軽くキスをすると、額同士をコツンと合わせた。


 赤い情熱的な瞳に、私は一瞬で釘付けになる。


「材料を取ってこない。待たないで」

「う、うん。……待ってるね」


 何度キスをしても何度ぎゅっとされても、私の心臓は一向に慣れてくれない。ドクドクと激しい鼓動が苦しくて、心臓が口から飛び出してきそうだった。


 ネリクは私を立たせると、「いってきます」と頭の天辺にキスをする。内心「うひゃあっ」と照れながらも、笑顔でネリクを見送った。


 そういえば、まだ夜着のままだった。今の内に着替えちゃおう、と寝室へ戻る。


 集落で買った服の中で、ネリクが一番お気に入りの赤い服を選んだ。


 派手と思わなくはないけど、ニーニャさんが「これは……ネリクが喜ぶわねえ」とにやりとした一品だ。だからネリクが喜ぶという言葉に弱い私は、不思議に思いながらもこの服を買ってもらった。


 後日、この服を初めて着た時のネリクが嬉しそうに告げた言葉が忘れられない。


「……それ、俺の色」


 あ、ネリクの瞳の色か! と、ここでようやくニーニャさんの言葉を理解した私。鈍感にもほどがある。ひとりアワアワしていると、魔人の恋人同士は互いの色を服や装飾品の一部として身につける風習があるのだと教えてくれた。


 ネリクも白いものが欲しいけど、今すぐは手に入らない。だから代わりに私本体を持ち歩くと言って、その日はひたすら持ち運ばれていたことを思い出す。これじゃ何もできないよと笑うと、ネリクも楽しそうに笑っていた。


「はあー……幸せ」


 幸せの溜息が漏れる。毎日が幸せすぎて、今ならマルコの鞭打ちを二十回に減らしてあげても許せそうだ。大分譲歩してると思う。マルコには感謝してもらいたい。


 服を着替えて、寝台を整えた。ネリクが戻ってきてすぐに朝食を取れるように、食卓の上を綺麗にする。


 そうだ、昨日ネリクが採ってきた檸檬を水に漬けたら美味しい飲水ができそう。思い立つと、水差しを持って裏を流れる小川に水を汲みに行った。


 ここの小川は山の雪解け水だそうで、澄んでいてとても冷たい。王都に流れていた泥色の川との違いに、最初は驚いたものだ。


 水を汲み終わり家に戻る最中、遠くの方から人の声がした気がした。だけど一瞬のことで、耳を澄まして待っても何も聞こえてこない。


 気のせいかな? と家の中に戻ると、台所で檸檬を切って水差しにぽちゃんと入れた。


 ネリクは美味しいって言ってくれるかな。今日の朝食はこんなものが採れたよって嬉しそうに笑うネリクの顔が早く見たい。玄関を眺めながら、待った。


 だけど。


 待てど暮らせど、ネリクが戻ってこない。


 ――さっきの声は、まさか――?


 急に不安が押し寄せてきて、家の外に飛び出した。家の周りから離れちゃ駄目だと、口を酸っぱくして言われている。でも、でも。


 さっき声がした方向を必死で思い出す。


「確か……崖の方向……」


 ぞくり、と悪寒が走った。


 嫌だ、変な想像をしちゃ駄目、ルチア。


 自分に言い聞かせながら、崖の方に小走りで向かう。


「ネリク? ネリク、いるの?」


 時折声を出しながら、木々の間を縫うように進んだ。


 ネリクは耳がいいから、私の小さな声でもいつも拾ってくれる。


「ネリク! 返事して!」


 すると、前方の茂みがガサリと音を立てた。


 私に沢山食べさせるって言ってたから、欲張って大量に果物を摘んできたのかもしれない。落としては拾って、落としては拾ってを繰り返している内に、きっと遅くなっちゃったんだ。


「ネリ――……」


 茂みから出てきた人物に笑いかけた瞬間、笑顔が固まるのが自分で分かった。


 驚きに目を瞠る。その人物は立ち竦む私に抱きつくと、片手で口を塞いできた。


「むぐっ! んんんんっ!」


 懸命に抵抗しても、筋肉質な身体の持ち主はびくともしない。


 耳元で聞き覚えのある低い声が囁く。


「シッ! お静かに!」


 どうして、なんでこの人が――。


 背後を警戒する仕草を見せたのは、私を崖から突き落とした張本人である、私の元護衛騎士マルコだった。

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