39 祈祷台

 ハダニエル王国の城内、祈祷台が設置されたとある一室。


 白一色に染められた空間には、一見厳かな空気が漂っている。だが、とある箇所だけが黒に侵食されており、禍々しさを醸し出していた。


 祈祷台の前の床に描かれているこの国の地図だ。


 以前はまばらだった地図上の黒点は日を追うごとに少しずつ増え、国外追放された前聖女ルチアがいた頃だったらあり得ないほどに、黒に呑み込まれんとしている。


 地図に映し出されている黒は、実際に国土に蔓延しつつある瘴気と連動していた。


 彼女はずっと探し続けていた。なのに、聖女などという紛い物が無駄に粘ったせいで、見つけるのがこんなにも遅れてしまった。


 聖女を追い出し始末させて、ようやく求めていたものを見つけたのだ。


「偽聖女なんて言われて殺されて、可哀想ねルチアさん。……ふふ、可笑しい」


 誰もが口を揃えて愛らしいと評す顔に、愛らしさとは程遠い妖艶な笑みを浮かべる。


 あの紛い物がさっさと諦めてもっと早くに根を上げていれば、もしかしたら命くらいは助かったかもしれない。彼女が命を落としたのは、馬鹿みたいな献身をこの国に注いでしまったからだ。


 豊満な胸の上にサラサラと流れる自分の白髪を見て、彼女は馬鹿にした笑いを漏らす。


「ぷ……っ紛い物はこっちね」


 コツ、コツ、と靴音を立てて地図の上を進んだ。とある位置まで来るとたおやかに膝を折り、今や国土の中で唯一白いままの箇所を指差す。


「そんな所にいたのねえ。あの女のせいで、なかなか気付かなかったじゃないの」


 直後、忌々しげに舌打ちすると、女はガン! と拳を白い箇所に叩きつけた。陶器のように滑らかそうなこめかみに、苛立たしげな青筋が立つ。


「……待っていてね。すぐに迎えに行くから」


 女はスッと音もなく立ち上がると祈祷台に置かれた呼び鈴を手に取り、チリリン、とごく軽く鳴らした。


 すぐに、部屋の外から女の傀儡となって久しい彼女の護衛騎士が飛んでくる。


「お呼びでしょうか、聖女ロザンナ様」


 騎士団一の腕前を持つと言われる男の目には、もはやロザンナしか映っていない。彼女の魔力を長く浴びれば浴びるほど忠誠心は上がり、猜疑心は起こらなくなる。


 王家も重鎮も騎士たちも、一年掛けて少しずつ取り込んできた。


 それをはばみ続けていたのも、あの小憎たらしい正義感を振りかざすみすぼらしい聖女ルチアだ。


 ――それと、聖女の隣にいた護衛騎士マルコ。


 あの男は見た目にそぐわず臆病者だったから、まさか魅了に溺れさせる前から聖女を裏切るとは思ってもいなかった。


 聖女ルチアを断罪したあの晩の出来事は、つい昨日のことのように思い出せる。マルコに突き飛ばされて、絶望でもしたのだろうか。目を大きく見開き、自分を突き飛ばした護衛騎士を見上げていた餓鬼のようにガリガリに痩せたあの女の顔は、思い出すだけで笑いを誘った。


「……ふふ」


 抑え切れずに笑いを漏らすと、元は無骨とも言えるほど愛想がなく厳格な性格の持ち主だった護衛騎士が、頬を赤らめながらだらしなく緩んだ笑みを浮かべる。


「聖女ロザンナ様の笑うお姿は、天上のもののようにお美しい」

「あら、ありがとう」


 そう、これが普通なのだ。なのに聖女ルチアから離れてしばらく経つというのに、マルコだけはこれまでと変わらない。


 血だらけの白髪を持って帰ってきた時は、本物であるか疑った。ただの白髪など、その辺の老婆でも捕まえれば入手できるからだ。


 だがマルコは「こちらの血は祈祷台に反応する筈」と言い張った。事実、どす黒い血が固まった髪の毛の束を置くと、祈祷台は血の中に残っていた聖力を吸い取り、僅かな時間だけだが反応を示した。


 これにてマルコの忠義は証明され、彼は無事念願のアルベルト王子専属護衛騎士に任命されたのだ。


 以来、アルベルトの傍に常に控えている。アルベルトはロザンナの婚約者であり、ロザンナと共に過ごす時間は他の人間よりも格段に多い。


 なのに、マルコは魅了されないのだ。


 何故だ。いくら長年仕えていたからといって、聖女ルチアの微々たる聖力などもう欠片も残っていない筈なのに。


 何か特別な術でも施されたのかとも考えたが、自分を殺すような相手を守るような行動を取るほどお人好しには思えなかった。


 ロザンナが聖女などではないことを唯一見抜いた女だ。自分を見る、全く信じていないあの目は、この城の中では唯一の脅威だった。


「――護衛騎士マルコを呼んできて下さる?」

「マルコですか?」


 他の護衛騎士の名を言うと、男は嫉妬から顔を顰める。


「彼に頼みたいことがあるのよ。お願いするわ」

「畏まりました」


 護衛騎士はきびすを返すと、急ぎマルコを呼びに行った。


 しばらくして、護衛騎士がマルコを連れてくる。


「聖女ロザンナ様、御用でしょうか」


 深々と頭を下げたマルコが、ビクリと身体を震わせた。視線の先にあるものは、黒く染まった地図だ。


「マルコ、顔を上げて頂戴。貴方に頼みがあるの」


 ロザンナはマルコの前まで進むと、彼の二の腕に触れる。


 堅物そうな顔をしているマルコの目には、動揺が見え隠れしていた。やはり、彼には魅了が効いていない。


 悔しさはあるが、今は適任がこの男しかいないのも事実だ。


 ロザンナの手駒の中で、聖力の影響を受けても変わらない人間はこの男しかいない。


「ある場所に隠れ潜んでいる我が国の宿敵がいるの」

「宿敵、ですか?」

「ええ、悪い魔人よ。この国を滅ぼそうとしているの」

「なんと!」


 単純な男は、魅了を掛けなくてもすぐに騙されるものだ。マルコはその最たるものであり、魅了を使わくても扱い易かった。


「その魔人を連れてきてもらえないかしら? 貴方にしか頼めないの」


 マルコの筋肉質な腕に華奢な自分の腕を絡め、さり気なく胸を押し付ける。


「あの、申し訳ございませんが離れていただけますか」


 私は一介の護衛騎士でございますので不浄が移ります、と腕を解いて一歩後ろに下がってしまった。


 ロザンナは舌打ちしたいのを堪えながら、妖艶な笑みを浮かべ続ける。


「ねえ、お願いよ」

「……アルベルト様のご許可があれば」

「ありがとう! アルベルト様にはこれからお話しするわっ!」


 無邪気に見えるよう精一杯頭の悪そうな笑顔を振り撒くと、ロザンナは「さ、一緒に来て!」とマルコの背中を押しながら、アルベルトの元へと向かった。

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