30 まさかに気付く

 エイダンさんのお祖父さんの日誌を手に取る。


 背表紙には何も書かれていない。固くて分厚い表紙には、簡素に『ネリク日誌』とあった。


 文字の隣には、小さな魔法陣が描かれている。仄白く光っていて、今も魔法が有効なことを表していた。


 試しに本を開こうと親指を掛けてみる。だけど中はピッタリと閉じていて、びくともしなかった。


 エイダンさんが太い指で魔法陣を差す。


「これがこの本の鍵になってるんだ。どうやっても開いてくれなくて、お手上げなんだよね」

「この中にネリクの『反転の呪文』の解き方が書いてあるんですか?」


 エイダンさんが肩を竦めた。


「本当に知らないんだよ。何故祖父の言っていた『見つからない為の魔法』が『反転の呪文』なのかも分からないし、そもそも誰から隠れているのかも聞いていないんだ」


 魔法陣を指でそっとなぞってみる。暑くも冷たくもない。紙の上にただ紋様が描いてあるようにしか見えない。


 ふと気付いた。『反転の呪文』が掛けられたのは、ネリクが別の集落の長に引き取られた後だった筈。


 つまり、集会にいた人たちは、ネリクの反転前の状況を知っているんじゃないか。


「集会に来られていた他の集落の代表の方には尋ねてみたんですか?」

「それは勿論!」


 エイダンさんは前のめりになりながら、大きく頷いた。見上げるほど大きな人だから、近付くと迫力がある。


魔物暴走スタンピードの後は動ける大人があまりいなかったから、他の集落から復興支援で沢山の人が来てくれていたんだ。その中に彼らもいたんだよ」


 戦える大人は全員戦いにおもむき、エイダンさんの家族以外にも大勢の大人が亡くなった。圧倒的人手不足の中、集落の立て直しに人員をどう割くかについて、この集落で集会が開かれたそうだ。


「集落を囲む防壁も何箇所も破壊されていて、今魔物が現れたらひとたまりもない。だから何箇所かに分けて移住させる案も出たんだ」

「確かに、老人と子供と怪我人ばかりだったら怖いですよね」


 太めの眉を垂らして、うん、とエイダンさんが頷く。


「彼らがね、突然うちにやって来たんだ」


 集会の参加者でもあったお祖父さんのお悔やみを言いたいという名目だったけど、彼らの視線は一様いちようにネリクに向けられていた。もしかしてネリクの状態を確認しに来たんじゃないか。エイダンさんは直感で思った。


「そうしたら、中のひとりがネリクを見て言ったんだ。『この子が魔物を呼んだんじゃないか』って」

「は……?」


 本当にそれしか言葉が出てこなかった。呼んだってなに。なんなの、その人。


 今起きたことじゃないのに、ムカムカと怒りが湧き上がってくる。


「だから引き取ったら次はその集落が襲われるんじゃないかって言い出したのは、後で分かったことだけどニーニャとネリクのお母さんがいた集落の長だった。ネリクは見覚えがあったみたいで、ずっと僕の後ろでその人を睨みつけてたよ」


 母子二人で森の中に住まわせて、時折日用品を届けていた人だ。ネリクのお母さんが亡くなっているのを見つけて、ネリクを連れて帰ったはいいけど怯えていた人。


「すぐさま他の集落の長が『馬鹿を言うな。だったらこの子は五歳まで守りのない森の中で生き延びていないだろう』って否定してくれたから、とりあえずその場は収まったんだけどね」

「よかった……」


 長の中にちゃんと冷静な人がいたことに、安堵する。エイダンさんは苦虫を噛み潰したような顔をしていた。


「でもその長は『引き取りたくない、復興させよう』って言い張って。結局はこの集落を存続させる方針になった」


 結局、慣れ親しんだ集落から離れたくないと言う老人も多かった為、復興が決定したそうだ。


 それにしても、大切な人たちを失ったばかりの二人の前で、集落の長ともあろう人がずいぶんと軽率に憶測でものを言ったものだ。内心ムカムカしていると、エイダンさんが悲しそうな表情で続ける。


「その時に、ネリクは何故『反転の呪文』を掛けられたんですかって聞いたんだけど、みんな黙ってしまった。でも少しだけ教えてくれた」

「少しだけ、ですか?」

「うん。ネリクを死なせないように大事に守ってほしいって。自分たちは臆病でネリクを守り切れる自信がなかったから、僕のお祖父さんに頼ってしまって申し訳なかったと」


 ネリクを厭っている訳じゃないのか。ますますよく分からない。


「……エイダンさん、さっきのなんですけど」

「ん? さっきの?」

「私が崖から落ちた時、魔物が次から次へと襲ってきたって言ったじゃないですか」

「うん?」


 エイダンさんは私が話を突然変えたことに戸惑っているのか、首を傾げた。


「あの時は無我夢中だったからここら一帯の魔物を浄化しちゃったのかななんて最初は思ってたんですけど、もうひと月も経つのに魔物の姿を一度も見ていないんです。これって普通ですか?」

「……いや。現につい先日も、一匹だけだけど魔物をみんなで退治したばかりだよ」


 やっぱりそうだ。いくら近辺の魔物を一掃したとはいえ、ひと月もあれば再び湧いてくるのが普通なんだ。


 何故私がそんなことを知っているかというと、お城の祈祷台に設置された地図の白かった土地が再び黒く染まっていくさまを、歯がゆい思いで見続けていたからだ。


 徹底的に消して翌日は他の場所を、と浄化している内に、前に浄化した場所がまた黒く染まるあの苛立ち。死にそうな思いで追われるようにひたすら浄化を続けた終わりのない毎日は、苦しくて悲しかった。自分の無力さに弱音を吐いてしまいたいのを、奥歯を噛み締めて耐えていた。


 だから私は、ひと月も浄化の効果が続かないことを身を以て知っている。


 にも関わらず、ここに来てからというもの、最初の日以降は魔物はおろか、瘴気すらお目にかかっていない。元々国境の加護の効果が薄い土地であるにも関わらず、だ。


 そこで辿り着いたのが、ひとつの仮説。


「……もしかして、ネリクの周りには魔物が寄り付かない?」


 私が呟くと、エイダンさんが重々しく頷いた。


「実は僕も、薄々そうじゃないかと考えていたんだ。ほら、森にひとりで住むことになっただろう? その時、魔物が危ないからって言って止めたんだ。でもネリクは、あの森で魔物なんて見たことないと言っていたんだよね」

「まるで片っ端から浄化してるみたい……」


 ぽつりと再び呟く。浄化――いや待てルチア。考えてみなさいよ。ネリクの喉は、本当のことを喋ると呪文の影響で焼けるんだよね? 血だって吐いてたのに、なんで少しすると平気になってたの?


「……まさか、自己治癒?」

「ああ、ネリクの喉のこと? そうなんだよね、あれも呪文に含まれてるなんて凄いよね。舌にある小さな魔法陣の中にそれだけの効果のものを詰めるなんて、僕には想像もできないよ」


 不甲斐なさそうに頭を掻くエイダンさん。そうか、エイダンさんはあれを呪文の効果として見ているんだ。ひょっとすると、魔物避け効果もあると思ってるのかもしれない。


 ……でも、もしそれが違ったら?


 私と同じく、聖力を使っているのだとしたら?


「反転……」


 私は手元の日誌に再び視線を戻すと、必死で考えを張り巡らせた。

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