21 訳が分からないけど

 大嫌い。


 確かにネリクは、私のことをそう言った。


 ぽとりと帽子が床に落ちる。


「ネリクがまさかそんなことを言うなんて、時が流れるのは早いねえ」


 エイダンさんののんびりした声が、やけに間延びして聞こえてきた。


 大嫌い。


 うそ。だってあんなに私に笑いかけてくれて、いつも大切そうに抱き締めてくれていたのに――。


 ズキリという胸の痛みと共に、じわりと涙が滲んできた。


 ハッと息を呑む音が隣から聞こえる。


「ル、ルチアちゃんっ!?」


 ニーニャさんが、私の顔を見て驚いていた。


 大丈夫だよ、だって婚約者だったアルベルト様に信じてもらえなかったことだって平気だったし、信じていた護衛騎士のマルコに二度も裏切られた時だって、立ち直れたんだから。


 だから大丈夫、私は人に嫌われたってちっとも平気なんだから。


「ルチア?」


 内側から扉が開かれて、笑顔のネリクが顔を出した。私の顔を見て、表情を変える。


 しまった、こんなぐちゃぐちゃな顔を見せたら、面倒くさい奴だと思われて更に嫌われちゃうかもしれない。


 だからお願い。止まってよ、涙。


「ご、ごめん……っ! 嫌われてたなんて思ってなくて、その、鈍感な自分が嫌になっただけで、大丈夫だから!」

「ルチア」


 ぐし、と腕で涙を拭いた。笑え。こんな時こそ笑うんだよ、ルチア。


 ……でも、笑顔が出てくれない。出てくるのは、涙ばかりだ。


「め、迷惑だったんだよね。ごめん、鈍感でごめ……」

「ルチア!」


 突然ガバッと引き寄せられたと思うと、直後には私のことを「大嫌い」だと言ったネリクの腕の中に拘束されていた。


 後頭部に大きな手をあてられて、撫でられる。


「ルチア、そうなんだ……あああっ!」


 苛立たしげに頭を横にぶんぶん振り乱すネリク。嫌いだって言ったのに、私の頭に愛おしそうに顔を押し付けるのはなんでよ。


「ネリク……!」


 エイダンさんがソワソワと私たちの周りを彷徨く。ネリクはそれにも首を横に振ると、片手で喉を絞めつけながら苦しそうにしゃべり始めた。


「ルチア、違うんだ……嫌い、じゃない!」

「で、でもさっき」

「俺はルチアがす……カハアッ!」


 ネリクが突然咳き込み出す。なんだかすごく苦しそうだ。え、なに、どうしたのネリク。


「馬鹿! 無理して喋るからだ!」


 エイダンさんがネリクの背中を摩り始めた。え、無理して喋る? よく意味が分からない――。


 カハカハと苦しそうに咳き込んでいたネリクの口の端から、真っ赤な血がたらりと流れた。


「ネリク!? どうしたの!」


 慌ててネリクの顔を両手で掴むと、口の中を覗き込む。ゼエゼエと苦しそうに息をしているネリクの口の中は、血の色に染まっていた。――な、なにこれ。どうして急にこんなことになってるの?


「ま、待って、すぐに治すから――」


 それにもネリクは首を横に振ると、泣きそうな顔で更に私を抱き寄せる。隙間なんてないくらいに。


「ルチア、ルチア……!」


 いやいやをするように私の頭に頬を擦り付けて、ネリクは涙声でただひたすらに私の名前を呼び続けた。


「え、あの、ネリク……?」


 ぎゅうう、と力を込めて抱き竦められていると、大嫌いだと言われたことは聞き間違いだったんじゃないのかと思えてくる。


「嫌いにならないで……っ」


 そしてまた、カハッと苦しそうに水音混じりの咳をした。


 エイダンさんがネリクの背中を撫で続けながら、こちらも今にも泣き出しそうな顔で言う。


「ネリク、僕が説明するから! だから無理して喋っちゃダメだ!」

「でもっ」


 またもや咳き込むネリク。やだ、どうして!? なんで血なんか出てるの!?


 すると私の横にニーニャさんがやってきて、困ったような笑みを浮かべた。


「ルチアちゃん、ネリクを信じて一旦エイダンの話を聞いてくれるかしら?」

「は、はい……」


 私だって、こんな訳のわからない状態のままでいたくはない。


 ニーニャさんがネリクの頭をポンポンと撫でた。


「さ、ネリク。大丈夫だから落ち着いて。話をしましょ?」

「……ん」


 ゆっくりと拘束を解いていくネリクの腕が、小刻みに震えている。


 ――大嫌いって言われたけど、でも。


 拒否されたらどうしようという不安は、勿論あった。だけど、震えているネリクを私から突き放すことはどうしてもできない。


 ネリクの手を手繰り寄せて、繋いだ。


「……ルチア」

「話、聞くから」


 ネリクの赤い瞳を真っ直ぐ見ながら伝える。


 ネリクは小さく頷いた後、私の手を強く握り返したのだった。

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