第8話「ありがとう」


「もう一人で大丈夫ね」


 いつもの雑談の後、先生は土台に座り込み、少しの間私の出来栄えを見てからそう言った。


 ――やっぱりか。


 もう私の手が止まることなく、先生の猫パンチも恋しくなるほどなくなっている。

 完成までもう残り僅か。楽しい時間も終わりということだ。


「私はもう要らない。すごく上手になってる」

「先生の指導のおかげですよ」


 お別れが寂しいから……嘘を吐きたい気持ちが90パーセント。

 何発喰らってもいいから、わからないふりをして猫パンチされたかった。

 わがままを言って、手袋が終わっても次の編み物も見てもらいたかった。


「次はマフラーでも編んであげなさい」


 でもそれをグッと堪えて先生の言葉に「はい」と返事するのは、10パーセントはそうしなければとわかっているから。

 私は先生を近所では有名な編み物の先生なんだと予想をつけた。

 私のように困っている編み物初心者を夜な夜な見つけては助けている。なんていうかこの町にいる編み物初心者を助けるヒーロー的な存在。


 ――それを独り占めするのはダメだよね。


 編み物やってるご近所さん達も多分先生の元お弟子さん。

 私がいま先生に教わっていることもみんな知ってるんだなと予想。


「――先生」


 道具をテーブルの上に置いて、猫先生を真っ直ぐに見る。

「んー?」と小首を傾げる先生。めっちゃかわいい!

 そんな先生に伝える。


 ――もっと一緒にいたいです! 先生!


 ではなく、代わりの「ご指導ありがとうございました」を。本音は精一杯飲み込んで体の奥の奥の奥へとしまい込む。扉まで閉めて杭まで打って絶対に出ないように。

「どういたしましてー」と先生はのんびり口調。こっちの本音には少しも気づいたところはない。


 本当に、今日で最後だ。

 だから今日はいつもより長くお喋りした。

 いつもと同じでコタツに入って、互いに顔は見合わせないでのんびりゆっくりと。

 先生はいつもの時間に帰らないで長いこと雑談に付き合ってくれた。



 気がつくと私はいつの間にかコタツで眠っていた。肩には上着がかかっている。先生がかけたんだと思う。

 そしてその先生は……いない。

 先生だけじゃ居間の戸は明けられないはずなのに。どーやって帰ったんだろうと思いながらも起き上がる。

 そしてコタツの上の編み終わった緑色の手袋を見る。最後まで自分が編んだものが綺麗に揃えて置いてあった。

 それを見ながら、ふぁーっとあくび。そしてここにいない先生へ感謝する。


「ありがと。先生」




 1週間後。毛糸の手袋を手に嵌めた旦那を玄関先まで見送ると、背後から「おはようございます」と聞き覚えのある声。


「旦那さん。暖かそうな手袋をしていましたね」


 樋ノ内さんだ。にっこりと微笑んでいる。


「やっと完成しましたよ」

「編み物はどうでしたか?」

「お次はマフラーでも編んでやろうかなーと考えるようになりました」

「そう」とご満悦な表情。

「もしかしたら違う物にするかもですけど」

「好きなものから始めるでいいと思いますよ」


 そうして、あれ? と違和感。

 以前まではこちらを軽く見下ろす彼女から感じていた重圧みたいなものが……どういうわけか微塵も感じられない。ここ最近編み物絡みで会うことが多いからだろうか?


 ――でもなんだか……長い付き合いの、友達のような感覚がする。


「せっかくだから、これからも編み物を続けてね」


 そうして、私に微笑む樋ノ内さんの顔を見たときだった。

 どういうわけか、猫先生の顔が頭の中に浮かぶ。


 ――んん?


 ボー然としている私に「それじゃあね」と言って背を向けると、そろりそろりと雪を踏みしめて樋ノ内さんは去って行く。

 後に残された私は、背筋のピシッとした樋ノ内さんの後ろ姿に猫先生の丸い背中を重ね合わせていた。


 非対称である二つの背中……。

 それがなぜか、不思議なことにピッタリ合う。


 そんな樋ノ内さんの後ろ姿をいなくなるまでじーっと見つめていた。

 その後、思い出したかのようにはぁーっと息を吐く。白い息が上へ上へと登ろうとするけれど、すぐに消えてなくなる。


「――どうりで教え方が上手いわけだ」


 熱のある声で、そう言って、ニマーっと満面の笑顔になる。

 次にマフラーを編んだら、出来栄えを近所に住む猫先生に見てもらおうと決めた。

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