第5話「はじめまして。猫先生」
編み物の進捗はかなり悪い。
習うより慣れよ精神を持って一人意地を張って進めてはみたものの全然先に進めずにいる。
旦那が出張でいない夜だから時間を掛けてじっくりやるつもりだった。
でも少しも進まない。気づけばまた眠ってる。
――これじゃあ春が来るのが先だ。
目が覚めた後、おおあくびをしながら思った。中途半端に止まって少しも進まない棒針と緑の糸をじっと眺める。サプライズで旦那の手袋でも編んでやるかーなんて簡単な気持ちでいたけれど、スタート地点をちょっと抜けたところで心は完全に折れていた。
編み物を始めた噂は広まったけど、幸いなことに旦那の耳には届いていない。
そう思うと何も自分で編まなくても買えばいいかと逃げ道を考え始める。
人には向き不向きがある。
無理なことはしない方がいい。
大体今時編み物なんてできなくても店に行けば毛糸の手袋なんていくらでもある。
悩む必要なんてない。
ほーら。そうやって逃げる理由がどんどん生まれてくる。
そして、そんな情けない自分の声に完全同意しかけたときだった。
カタンと廊下の方から物音が。
おかげでややぼんやり気味の頭が一瞬で吹き飛ぶ。
「――え……なに?」
頭の中で旦那の顔が浮かぶ。帰ってきた?
でもスマホを覗いても画面にはなにもない。帰る際は必ず送ってくるから違う。旦那じゃないなら廊下にある何かが落ちた?
――でもうちの廊下に落ちそうな物なんて……。
そう思うと少し背筋が泡立つ。家には私一人。どうしたものか。ホラーはリングの貞子クラスなら絶対無理。
「――ええい」
かといってこのままほっとくわけにもいかない。勇気を出して音の正体を確認しに行くかと立ち上がったそのときだった。
「――怖がらせてごめん」
縄でもかけられたかのように、急な声にピタッと体が止められる。
「大丈夫。安心して」
第二声。自分のものではない女性の声。確かに聴こえた。
声に反応し、キョロキョロ周囲を見回すと「幽霊じゃないよ」と第三声。
「ドロボーでもない」と続ける声の正体がようやく判明。恐怖の幽霊でもなんでもないそれは居間と廊下を仕切る引き戸に挟まれるような形でいた。
「……」
そこから顔を出して、じーっとこっちを見る一匹の猫。
――真っ白。
そんな感想を抱く。雪のように白い。汚れなんてひとつも見当たらないほどに。
茫然と見つめていると「こんばんは」と喋る。
そして「入っても?」と言われ、もう勝手に家に入ってるのにというツッコミが。
そこでハッと思い出す。かつて読んだ好きなホラー小説のあるシーンを。
家に入っていいと言われない限り入ることのできない、日本の田舎の村にでてくる吸血鬼のお話。
村人を殺し、死んだらそのまま。
死なずに吸血鬼となって蘇ったらお仲間。
そうやって村人を全滅させ、村を乗っ取ろうとするホラー小説。学生時代に読んだそれは長編だったけどおもしろすぎて一気に読んでしまったのを今でも憶えている。
「――あ、ごめん」と猫に言われ、現実に引き戻される。
「もう入ってた」
言われたことにこくりと頷いて「どうぞ」とようやく声を出す。喋ってはいるけど悪いやつではないと思って。
猫はのそのそと部屋に入ってくるとチリンと鈴を鳴らす。白猫の赤い首輪にある真鍮の音。野良ではない。どこの家の子だろうか?
私の前で歩を止めると「開けっ放しだったよ」とお座りをして私を見上げる。
「開けっ放し?」
「うん」と白猫が顎を上げる。こちらに喉をみせるくらい顔を上げて「うーえ」と。顎を撫でろみたいなしぐさで。
――うーえぇ?
釣られて天井を見上げて、あっと思い出す。昼過ぎに庭の納戸から取り出した雪掻き用シャベルを二階のベランダに置いたときのことを。
――もしかしてあのとき窓閉め忘れたか。
「ありがと」
白猫にお礼を言って急いで二階へ。
そして二階の部屋に入ったら一気に足元から体が冷たくなった。
「寒っ」
スケートリンクの上を素足で歩いているかのような寒さに身が縮まる。原因は白猫の言う通りで開きっぱなしの窓。
――ほんとに開いてた。
猫がギリギリ入れるほどのわずかな隙間。開いているのをいいことにここから入ってきたわけか。
窓を閉める前、ふと外を見て「おー」と声が出る。いつの間にか町が初雪に覆われている。
――予報では週末だったのに。
でも降ってもおかしくない寒さ。
音もなくあっという間に降り積もり、周囲の音を呑み込んで私の住む町を真っ白に覆う。この町の雪の常套手段だ。
――これじゃあ避難しにくるか。
仕方ないかと白猫の侵入を許し、窓を閉めて鍵をしっかり施錠。
そして居間に戻ろうと階段を降りる途中、今さらながら不思議なこともあるものだなと喋る白猫のことを考える。
誰かに催眠術。
私が幻覚を見ている。
寝ぼけてるか、まだ夢の中。
どれも当てはまらないなと思いながら居間へ戻ると、私のいない間に白猫はコタツの中に潜り込み、顔だけを覗かせて目を瞑っていた。部屋の入口に立つ凍えた体の私にほっこり温まるお顔を向ける。
――ありがとうな猫だけど、図々しい。
「おかえり」とつむっていた目を開く白猫。
「ただいま」とため息を吐きそうになる私。やっぱり猫と会話してる。
でもその現実に恐怖もなにもない。猫の見た目のせいだろう。酷く落ち着いている。
「しばらく温まらせてもらっても?」
既に温まっているくせにと言いたくなるが、窓のお礼もあるので好きにさせてやることにした。旦那は出張で今日いないし、この不思議な白猫と一晩過ごすのも悪くはない。ジブリ映画や新海映画みたいな経験をまさかこの年齢で体験することになるとは。
――そうなると私のヒロインは誰になるんだ? やっぱり夫?
そんなことを思いながら、猫とは反対側に座って私も温まる。私の視点からでは猫の姿は全然視えなくなるけれど、コタツから首だけ出してじーっとしているのは間違いない。
「……」
「……」
お互いに黙る。
でもそれはちょっともったいないかと思って「ねえ――」と話し掛ける。こんな機会だし。
「――どこのおうちの子?」
「ここから歩いて15分ぐらいのところ」
「いや、そうじゃなくて何さん家の子? ってこと」
「言えない」
「なんで?」
「ご主人に言われたら困るから」
「どういうこと?」
「夜中に勝手に家出てるから」
「え、そうなの? こんな寒い日になんで?」
「友達の家へ行ってたの。帰ろうと思ったら急な雪に降られて。予報だと今週末って言ってたのに」
「その帰り道の途中でうちに?」
「そ。窓が開いてたから」
「お友達って猫の?」
「うん。最近飼われた子猫。シャムの。ここのご近所さんだから知ってると思う」
そう言われて「ああ」と声が出る。旦那が話してたやつだ。近所の捨て猫をご近所さんが拾ったって話。
「優しい飼い主さんに拾ってもらったんだけど、なれない環境に怖がってて」
「その子を宥めに行ってるわけか」
「そ」
「いいやつ」
「悪者に見える?」
「だって喋るし。最初はちょっと悪者かなーとか思った」
「……そっか。ふつーは警戒するか」
「するよ。ねえ、本当は人間だったりするの?」
「私?」
「うん。魔法で猫に化けてるとか」
「またそれか」
「え」
「前に話した人にも言われた。その前の人も」
「私以外にもお喋りしてる人、いるの?」
「あなたも含めて五人ぐらい」
「大丈夫なの? 話しちゃって危なくない?」
「誰でも話すってわけじゃないから」
「……どういう基準で選んでるの?」
「第一印象がいい人」
――判断それなんだ。
そしてこの子は私が大丈夫だと思ったのか。
第一印象で決めるなんて随分と無用心だなぁ。
――記憶操作。
ふと、そのワードが浮かぶ。
もしかしたらそういうのができる猫かも。喋る猫だし、できても不思議はない。明日になればこの子と過ごしたことを完全に忘れているとか、ありそう。
「ねえ、あなたの家に私が来たことは?」
「ない。来客なんていつも決まった人しか来ないし」
「普段はご主人とあなただけ?」
「そ」
――白い猫と一人暮らしの主人……か。
うーん。どこの家の子か全く見当つかない。
でも、見たことはある気はする。
雪のように真っ白な毛。赤い首輪。
どこだろう。どこで見た?
「そういえば気になったんだけど――」と白猫がコタツから抜け出ると、くるっと振り返って反対側に座る私と向かい合う。
「――編み物してたの?」
視線は私を見るのではなく、さっきから放置しっぱなしの編み物へ向けられている。コタツの上に置かれた、まだ形にもなっていないやつ。
「うん。でも壁にぶつかり中」
「そんな感じ」と猫は私が放り投げた道具をじっと見る。
「壁にぶつかって、手が止まって、眠気に襲われて――」
そして心も折れたと繋げられ、全てを見抜いた白猫がくあぁーっと大欠伸。ちょっとイラッ。
「もしかして寝てるところまでずっと見てた?」
「私がここにきたときはあなた起きてたよ」
どーだかなぁと疑う。
だって猫に一目見ただけで編み物の進捗状況なんてわからないでしょう。
「あー、その目はあれだ。猫にそんなことわかるわけないなんて思ってる目だ」
言われてドキリ。会話だけじゃなく読心術まであるか。この猫人間を越えかけてる。
「長いことご主人が編み物やってるのずーっと見てきたから。見ただけで大体わかるよ」
ご主人と聞いてまた記憶を探る。ほんとにどこの家の猫?
――だめだ思い出せない。んーなんかこう喉元まで出かかってる気はするんだけどなぁ。
じっくり観察するかと白猫を見ると「ねえ――」とこっちへ近寄ってくる。グイグイっと結構な距離まで近寄られてちょっと驚いた。
「――教えてあげようか?」
なんか猫に口説かれてるみたいだなと、樋ノ内さんがレオ君にグイグイ迫られていたときのことを思い出す。
「教えるって、編み物を?」
「うん」と頷くと近づき過ぎたと思ったのか一歩下がる。そしてお座りをしたらチリンと鈴が静かに鳴った。
「その肉球でどうやって?」
「余裕だよ」
「いや、だから――」
「余裕だよ?」と小首を傾げる。
「……」
――言ってくれるな。
少し興味が沸いたので指導を受けてみることに。あのかわいい肉球で一体どんな指導をするのか。これは動画にしたら一晩で人気YouTuberになれる。
――ま、しないけどね。
そんなことをすれば、間違いなくこの白猫は消える。
記憶も消される。それはわかる。
だからそれだけは絶対に避けたい。せっかく教えてくれる人――じゃなくて猫が来てくれたのだ、大事にしないと。
そういうわけで「では教えていただけませんか? 先生」と敬語でお願い。猫に敬語を使う日が来た。
「喜んで」
「そういえば先生のお名前は?」
「エイミ」
「エイミちゃん?」
「ちゃん付けはやめてほしい。呼び捨てでいいよ」と白猫のエイミに言われ少し考える。
――エイミ。エイミさん。うーん……なんかしっくりこない。
――そうなるとアレか。
「先生って呼ぶのは?」
「いいよー」
そんなわけで私はこの猫先生に師事することとなった。
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