052 大聖女アリスの思惑。あるいはアレクサンドラの処遇。


 セイメイが去って後、大聖女アリスは床にぺたりと座り込んで、ぽろぽろと涙を流していた。

 大聖女の長い銀灰の髪が、まるで本人の感情を示すかのように沼のように広がっている。

「ぁあああああッ――うぁああああああああああああ」

 大聖女の口から溢れたのは絶望に満ちた声だ。

 悲しみに満ちた声。その声に込められた悲嘆を想像できるものはいない。

 それは誰と何を共感することもできない、4000年の孤独。

 石の人々に囲まれ、同族のような人形たちに囲まれた人生。

 死にそうになりながらレイドボスや、地上に現出した邪神どもを狩り続ける日々。


 ――その日々が、ようやく報われるときがきたというのに。


 与えられるはずだった優しい言葉は与えられなかった。

 温かい手で撫でられることも、触れてもらうことも、抱きしめて心臓の鼓動を聞かせてもらうこともできず、ただ怒りをぶつけられた。

 アリスには何も与えられなかった。

 永劫の、長き試練の報酬はない。

 何もないのだ。

 その辛さを、その悲嘆の深さを知る者がどこにいるだろうか。

「ぁぁあ……うぁぁぁぁぁ」

 大聖女の眦から涙がこぼれ落ちている。ぽろぽろと、床へこぼれ落ちている。

 誰も大聖女の傍に寄れる者はいなかった。

 セイメイはすでに帰還し、アレクサンドラは未だ気絶したまま。

 司祭や助祭、聖女たちはセイメイの魅力から正気に戻ったものの、大聖女の異様さに困惑している。

 お付きの双子の聖女は大聖女の無防備な有様に加え、転移防止の魔導具が破壊されていることから、邪神の眷属からの奇襲を警戒し、隠し部屋の中で待機していた。


 ――銀灰の女が泣き喚く音だけが、小聖堂には響いていた。


 声。声が響く。女の泣く声が、響いている。

 それを聞けば涙を流してしまうような、そんな悲しみに満ちた音だった。

 しかし――その場にいた人々は思った。

 泣き声の調子が変わっている。

 変化はないように見えて、徐々に現れている。

 大聖女のすすり泣く声。

 静寂の中でただ響いていたそれ、それはだんだんと大きな音になっていく。

「うぅ……あああ……ああぁッ――あああああぁぁ!! うぁあああああああああ――は、はは、ははははッ、ひひひひひひひッ、あは、あっはっはっはっはっは!! ひぃいいいいいい、あああああああ、愉しい・・・! 愉しい・・・!!」

 がばり・・・、と。

 全身で床に倒れ込み、涙を流し、嗚咽を零していた大聖女が立ち上がった。

 彼女は天を見上げ、顔を掻きむしるようにして爪を立て、血を流しながら、血走った目で大笑する。

「嗚呼! そう! そうだ! これが怒り!! これが怒りなんだ!!」

 四千年以上前より触れることができなかった生の感情。

 怒り――かつて彼女が感じたことのあるそれを、セイメイに与えられ、大聖女は思い出を取り戻す。

 だが、そんな風化したような記憶を思い出した瞬間に大聖女は投げ捨てていた。

 感じるべきは、今まさにセイメイから向けられた烈火のごとき怒りだ。古い、黴の生えた記憶などどうでもいい。

「嗚呼、嗚呼! 素晴らしい! 素晴らしいよ! セイメイ様!!」

 噛み締める。味わっていく。

 あの怒り。あの激情。

 飴のように、丹念に。

 噛み砕かないように。

 自分にだけ向けられたあの特別な怒りを心の舌で舐めて、舐めて、舐め尽くしていく。

「セイメイ様。それが、それが君のものなら」

 喜びも、悲しみも、怒りも、楽しみも、全て、全て。


 ――私のものに、私だけのものに。


 天を見上げながら思い出されるのは、自分に向けられたあの怒り。大聖女の身体が興奮でびくりびくりと快楽に震える。

「ふ、ふふ、ふふふふふ」

 生まれてはじめての精神的絶頂を彼女は感じていた。

「あぁぁ……すば、すばらしい。すばらッッしい! ひひッ、ははッ、ふッ、はッ、ひッ!!」

 四千年ぶりに感じる、感情の働きを味わいながら、大聖女は快楽に茹だる頭で今後のことに思考を巡らせた。


 ――セイメイ周りの調査は必須。


 それに加えて、長椅子に寝かされているアレクサンドラ。

 気絶したままの少女を見て、見下した視線を向ける大聖女。

「この子が最下位クラスにいくのは決まったことだからね? セイメイ様」

 教育をしろ、とセイメイは言った。

 じゃあ教育をしてやろう、と大聖女アリスは思った。

 ルールの通りにする。だからこいつは最下位クラスだ。

(どのみち、私じきじきに教育を行うなら最下位クラスがちょうどいい)

 最下位――といっても正規のテスト結果などで選ばれる場所ではない。

 才覚とのミスマッチ。本人たちですら制御できない、まともに機能できていない魔法刻印を使っている聖女たちのための教室。

 それがアレクサンドラが向かわされる場所だ。

(そう、そこなら、邪魔も入らない)

 唾液を口の端から垂れ流しながら大聖女は考える。

 アレクサンドラを使えばセイメイと窓口を作れるだろう。

 怒りは堪能した。次はどうしよう。悲しみか。喜びか。また怒りでもいい。あるいは恐怖でもなんでも。


 ――四千年待ったのだ。


 第一印象が悪かった程度、どうということもなかった。

 むしろマイナスなら、あとは如何様にも好感情へと反転させればいいだけのこと。

(それに私は気が長い。そういうふうに生きてきた)

 何年でも、何十年でも、どれだけの時間をかけようともセイメイを籠絡すればいい。


                ◇◆◇◆◇


 TIPS:大聖女アリス その2

 『レイドボスキラー』『邪神討滅者』『救世主』『全人類代表』『大陸大図書館の主』『国母』『謀略家』『奴隷商人』『レコードホルダー』『錬金術師』『文明の宿主』『世界宗教の創始者』などなど、国家や世界全体に認められた数多の称号、蔑称を持つ女。

 人類の歴史をたった一人で千年進めた女。

 ユーラシア大陸に蔓延るレイドボスを討伐しつくし、別の大陸へと渡るべく、シルクロードを一人で開拓した女。

 新大陸に渡るために、航路上のレイドボスを殺しまくった女。

 アメリカ大陸に存在するレイドボスを殺し続けて大陸解放を成し遂げた女。


 世界人類全体から好印象を持たれている女傑だが、その本質はレイドボス絶対殺すウーマン――というわけではない。

 大聖女アリスは壊れている。壊れきっている。

 最初の千年は試行の日々だった。

 いくつかの国家を乗っ取って、子供たちに教育を施し、石人形ではない人間を生み出そうとした。

 しかし、その試みは失敗した。

 何度も、何度も失敗し続けた。赤ん坊から育て、教育を施し、そして石人形へと変化する。

 手を変え品を変え、国家を変え、人種を変え、男女を変え、試みは百度を超えた。

 希望からの転落。絶望を受け止め続け、そうして大聖女アリスは一度壊れた。壊れきってしまった。


 ――人間がベースの長命種の弱点は、精神の起伏が激しいことである。


 精神ステータスが抑えられるストレスの許容値を超えた結果、大聖女アリスの最初の人格は崩壊した。

 そうして人格がボロボロになった彼女は国家を離れ、放浪することになる。

 野山を動物たちと共に駆け、素手でモンスターを殺し、人語を忘れ、自らの義務も何もかも忘れ果てた生活。

 喋る石人形にんげんと出会い、彼らを守るうちに思い出される自らの試練。シズラスガトムへの分不相応な願いの代償。

 それでも元の人格が戻ることはなく、彼女は仕方なく知力を10ほど常に消費しつづけることでまともな人間の仮面を被ることに成功した。


 あのとき――セイメイとのファーストコンタクトで、大聖女アリスが幼子のように振る舞ったのは理由がある。

 セイメイの前で嘘をつくことを嫌った彼女は、あのときだけは仮面をかぶらなかった。

 心の奥底に沈めていた本来の人格――崩壊した其れで接したのである。

 まるで子供のようにではない。

 完全に破壊されきっている人格は、ほとんど女児のようなものであった。

 それに加えて、彼女の行動には根拠が存在した。

 セイメイに褒められるための情報源ソース

 身近な成功例であるアレクサンドラ。彼女を参考にした振る舞いだったのだ。


 そんな大聖女アリスは善人ではない。

 千年の試行の後の放浪。そのあとに彼女は大聖女の魔法刻印をどうにか女神に返上できないか試行錯誤したことがあった。

 聖女という存在の反対として、様々な悪行をやってみるかと戦争に参加したり、異教徒の虐殺を行ったり、異邦人を捕まえたり、拷問したりと様々なことをした。

 新大陸で手に入れたタバコや砂糖をユーラシア大陸で広めたのもその試みのためだ。また、ついでとばかりに現地の風土病なども不注意で持ち帰ってきている。性病なども彼女が率いた船員などから広まった。

 奴隷貿易も行った。植民地も作った。

 しかし、彼女が悪名を背負ってもなお、大聖女の魔法刻印は消えなかった。


 大聖女アリスは銀行、金貸し、娼館経営もしている。

 レイドボスと戦うための資金稼ぎである。ついでに兵を効率良く動かすための政治も覚えていた。

 なお娼館を経営したことのあるアリスだが、本人は性的な知識は全くない。セックスと聞いても彼女の頭にあるのは、石像と石像がぶつかり合う音を聞かされて耳が痛くなった記憶ぐらいのものである。

 古代において娼婦でもある巫女であり、婚約者までいたアリスがなぜ処女かと――キスの風習がなかったためにキスすらしたことがない――言えば、彼女が大聖女の魔法刻印を授かったとき、彼女はまだ初潮すら来ていなかった年齢だったからである。


 大聖女アリス。男性経験なし。四千年の生娘。

 良い事と悪いことを等分にこなしている女。

 そんな彼女はスキルではなく技術としての交渉術を身につけている。

 敵対する遊牧民族の集落に一人で踏み込んで、酒を飲んだりモンスターを倒したりとしている間に気に入られて友好条約を結んで帰ってきたみたいな逸話を彼女は、100や200ぐらい当たり前にもっている。


                ◇◆◇◆◇


「ごめんね。君たちには本当に悪いことをしたと思うんだけど」

 セイメイが去り、アレクサンドラがいまだ気絶したままの小聖堂にて、大聖女アリスは自分の前に整列させた聖女たちを前にしてそんなことを言った。

 何を言われたのかわからない聖女たちに向けて、アリスは何も説明せずににっこりと笑ってみせる。

 先程の狂態を見てしまった聖女たちからすれば、その笑顔は不気味にすぎた。顔を引きつらせながら少女たちはアリスの説明に耳を傾ける。

「あのね。今日、君たちがアレクサンドラにされたことの意味がわかるのは50年とか100年とか経ってからだと思うんだけど……うん、そのフォローを私はしないし、できない」

 何をしてあげたらいいか私も知らないからね、とアリスは言う。

「でもね。今君たちが何か望むなら、私の出来得る限りで応えてあげる」

 その言葉の意味を理解した聖女は誰もいなかった。

 この言葉の真意を理解した聖女は誰もいなかった。

 無論、言わないだけでアリスは解答を持っている。

 聖女たちが選ぶべき唯一の、正解の選択肢をアリスは知っている。

 だけれどそれを彼女は説明しない。

 説明して、自分の取り分が減ることを危惧してではない。

 この場でそれを教えて、それを強制したところで意味はないからである。

 あるいは、期待をしていたのかもしれない。

 この場に自分の想像を超える、決断力と想像力を持った存在がいることを。

(気付ける子はいるかな?)

 彼女たちの脳髄に含まされた遅効性の毒セイメイ

 その解毒に必要なのは、この場で自分たちにつけられた聖女見習いたちを全員切り捨て、アレクサンドラと同じクラスに配属されるようアリスに願う――それだけだ。

 だが、その発想に至るのは難しい。

 それを選ぶには聖女たちは幼く、またアレクサンドラへの隔意が強すぎる。

 ゆえに聖女たちは、アリスの期待には応えられない。

「大聖女様!」

 狂態を見ていても、伝説は本物である。

 聖女たちはめいめいに願いをアリスへ伝えた。あれをくれ、それをくれ、サインをくれ。あるいは食事を共にしたいだの、お茶会に呼んでほしいだの、だ。

 なんの意味もない要求だった。

 アレクサンドラの悪意に逆撃を仕掛けられる聖女は、この中にはいなかったのだ。

(ま、そんなもんかな)

 それでも、この埋伏の毒の意味を理解するときはきっとくるだろう。

 そのときに彼女たちがどうするのか。それが少し楽しみなアリスだった。

(セイメイ様に頼らず、そして私の想像を超える手段を見つけられるかしらね)

 できなければ、ただ狂って、終わるだけ。

 そんな未来が待っていることを、憧れを至近で見て興奮する聖女たちは知りもしなかった。


                ◇◆◇◆◇


 TIPS:大聖女アリス その3

 世界中を飛び回っているはずの大聖女アリスが日本にいたのは、日本の守護者にして剣聖にして草薙の剣の所持者であったヨツムギが死亡したため。

 またその葬儀に参加するため。


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