第3話 曇天
アルデンの頬をぷにぷにとつつきながら、ため息を繰り返していると入口に人影があらわれた。
「ちょっと!」
慌てて、背を向けようとしたがそれがハロルドでないことに気づく。
「お姉ちゃん、だれ?」
男の子は鼻水を垂らした顔で、無遠慮にソフィアのことを指さす。
「私はソフィア、違う村から来たの」
アルデンへの授乳を終えて、服を正す。
「なんで?」
「村が魔族に襲われて……」
言葉にした瞬間、故郷の風景や両親の笑顔がフラッシュバックした。
母が台所で、挽いた麦を水と混ぜて練っている。それを平らにしてから、平鍋で焼くとかすかに香ばしくて甘い香りが漂ってくる。父と夫が農作業用の丈の短いチュニックを着て、畑へと出かける。
食事の前にはお祈りをするけど、ソフィアは手を組んで目を瞑るだけで、頭の中は目の前のごちそうのことでいっぱいだった。決して華やかな生活ではなかったけれど、そこは人の温かみで溢れていた。
「なんで、泣いてるの?」
「帰りたい……」
アルデンをぎゅっと抱きしめて呟く。あの時、一緒に死んでおけば。ふと、そんな感情がよぎる。私の大切な人はみんないなくなってしまった。教会の人が言っていた天国という場所が存在することを心の底から切望する。
「そら、冷やかしはいったいった」
いつの間にか戻ってきたハロルドが男の子を手で払いのける。隣には、色黒の肌に白髭がよく映える老年の男性が立っていた。ソフィアは慌てて涙をぬぐう。
「どうも、村長のエリックと申します」
どこか野性的な雰囲気を漂わせている外見とは裏腹に所作は丁寧だった。
「こんにちは。私はソフィアと言います。お会いできて光栄です」
「大変な目にあわれたようで」
「そう…… ですね」
ソフィアを襲った惨劇を『大変な目』という一言で片づけられた気がして、心のどこかに引っかかりを感じた。しかし、それは見当違いな感情だ。エリックに悪気なんてあるはずがない。
「俺の家に泊めておくわけにもいかないよなぁ。二人も寝泊まりできないし」
ハロルドは頭を掻きながら、村長のエリックに問いかける。
「確か、役場の裏手に空き家がなかったかのぉ?」
「ああ、あそこか」
ハロルドは納得したようにうなずく。
「とにかく、一度見てもらおう」
ソフィアはアルデンを抱いたまま、二人の後についていく。
道中で村人が話しかけてくると、そのたびにエリックは立ち止まりソフィアのことを紹介した。その誰もが怪訝な表情でソフィアの顔をまじまじと見つめたのち、腕の中にいるアルデンに哀れみの視線を送った。歓迎はされていなさそうだ。
*
「ここだ」
ハロルドが指さしたその家には相変わらず扉がないものの、いくつかの部屋があり、キッチンには粘土を固めて作ったかまども用意されていた。
「こんないい家は中々ないぜ。俺が住みたいくらいだ」
ハロルドが無邪気な笑顔を見せる。
「見ず知らずの私にここまでしていただいて、ありがとうございます」
「いえいえ、助け合いですから」
エリックはよく焼けた肌にしわをつくって言う。
「それにしても、内装がこれじゃあな」
各部屋を見回ってきたハロルドが腕を組む。
確かに、床は砂利がむき出しで、家具らしい家具は一つもない。この村の人たちはベッドを使わないのだろうか。ふと、ハロルドの家にもベッドがなかったことを思いだす。
「ちなみに、ベッドとかは使わないんですか?」
ソフィアはさりげなく質問する。
「ベッド? ああ、役場にあったかな?」
「しかし、あれは病人用じゃろう」
二人が言いあう。
「まあ。家では使わないだろうな。あんたの故郷じゃ使ってたのか?」
ハロルドは青年らしい好奇心旺盛な瞳で問う。
「ええ、そうですね」
「はぁ、そりゃすごい。ずいぶん裕福な村だったんだ」
ハロルドの言葉が純粋な感心によるものだと頭では分かっていながら、どうしても嫌味に聞こえてしまう。人の善性を信じるには、あまりに多くのものを失いすぎた。
「我々も教会を誘致した方が良かったのかもしれんのぉ」
「先代が追い返すから」
二人の会話から、おそらく先代の村長か誰かが宣教師を追い出したのだろう。ソフィアの故郷も教会が出来てから、急速に発展したと祖父母から聞いたことがある。何気なく享受していた扉のある家やベッドのある寝室は、先祖が様々な努力や工夫の末に手に入れたものだったのだ。
「今夜は村でお祭りがあるから、その時に話そう。マットが余ってる人もいるかもしれないし」
「お祭りですか?」
「ああ、十年に一度の『月光祭り』さ。あんたはタイミングがいいね!」
家族や村の仲間たちが惨殺されるのに、良いタイミングなんてあるだろうか。祭りの歴史を誇らしく語るハロルドの声はほとんど聞こえていなかった。雲が太陽を覆い隠して、辺りを薄暗くする。アルデンが目を覚まして甲高い声で泣きはじめた。
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