第2話 望郷
荷台に揺られるソフィアはまどろみの中で、つい昨日の出来事を回想していた。
日が沈み、一日が終わろうとする頃、緊急事態を知らせる村の鐘が鳴った。ちょうどアルデンに乳をやろうとしていた時のことだ。
「おっ、来たか。今日はどんなやつかな」
青年団に所属する夫は護身用の短剣を持って、勇み足で村の中央へ向かった。ここ最近、村の鐘はひと月に数度の間隔で鳴っており、毎回小型の魔物の出没を知らせていた。青年団の団員と魔物の戦闘は、この村の数少ない娯楽となっていた。
「私たちも少し様子を見てこようかしらね」
母は父を連れて、呑気に夫の後を追って出ていった。魔物との戦闘は野次馬が殺到し、村伝統の祭りよりも盛り上がることすらあった。ソフィアは血が苦手なのもあって、アルデンに乳を飲ませながら、自宅で待機していた。
明らかに通常ではない叫び声が聞こえたのは、その少し後のことだ。誰か負傷者が出たとか、そんな次元じゃない。断末魔としか言いようがない
ソフィアは思わず、家を飛び出そうとした。しかし、遠くから聞こえた夫の声を聞いて立ち止まった。
「家から出るな! 魔族だ!」
魔族は魔物とは桁違いの戦闘力を誇る。特殊な訓練を長年受けてようやく対等に渡り合えるほどだ。ソフィアは玄関から一番遠い位置にある寝室のベッドの裏手に隠れた。夫も父も母も、誰一人として帰ってくることはなかった。なんでもない日常がほんの数分で二度と手に入らない彼方へと去ってしまったのだ。
*
「着いたぞ」
気だるげな御者の声で意識が現実に戻る。
そこは、村の入口だった。布切れのような服を着た青年が
辺りの空気はひどく乾燥していて、生える草木は初めて見るものばかりだ。馬車が数時間走っただけでこれほど環境が変わるのか。
「こいつの村が魔族に襲われたらしいんだ。しばらく、ここに置いておけないか?」
「魔族だって? しかし、急に言われても……」
「俺だって困ってるんだ」
二人はソフィアの方へちらちらと視線をやりながら、その所在を押し付けあっていた。
「とにかく!」
御者は荷台から、木箱を一つ運び出すと地面に放り投げた。
「俺は届けたからな! これで仕事は終わり!」
「おい! 待てよ」
御者はさっさと、御者席に乗り込むと青年の抗議を無視して馬車を走らせていってしまった。
「はぁ」
取り残された青年は腕を組んでため息をついた。近づくと、彼が端正な顔立ちをしていたことに気づく。
「えーと」
ソフィアは視線を彷徨わせながら、立ちすくむ。幸い、アルデンは眠っていた。
「まあいい。とりあえず、来い」
青年は観念したように、手招きすると村の方へと踵を返した。ソフィアはそれについていく。
「あの、お名前は?」
「俺はハロルドだ。あんたは?」
「私はソフィアと言います」
「災難だったな。他に生き残ったのは?」
「私だけです」
「そりゃ……」
ハロルドは一瞬こちらへ顔を向けて、言葉を詰まらせた。熱を帯びた風が乾いた砂を巻き上げる。
村の住宅はほとんどが土壁で屋根には木の皮のような素材が使われていた。ソフィアの故郷は大半が木造建築だったのを思うと、ずいぶんと様相が異なる。生まれてから村を出たことのないソフィアにとって、この場所はまるで異世界のようだった。
「ここはルナール村だ。麦を育てているのと、あとは牛の畜産。働き口もきっとあるだろう」
ハロルドは片手をひらひらさせて言い放つ。村人たちはみんな細身で、一様にソフィアのことを睨むようにじろじろと見つめている。
「よそ者は珍しいから」
村を貫く砂利道を歩いていく。牛の鳴き声と共に、牛糞のにおいが鼻をつく。ソフィアの故郷では畜産は行われていなかったため、思わず眉をひそめる。
「とりあえず、しばらくはここで休んでいて。俺は村長のところに行ってくる」
ハロルドが指さしたのは、小さな小屋だった。所々で土壁が剥がれて木の骨組みが露出している。広さはソフィアの家にあった物置部屋と同じくらいだ。マットが敷かれているため、砂地に直接腰を下ろすことはないが、ずいぶん心もとない。
「あのぉ、ここは?」
「俺の家だよ。仕方ないだろ、他にないんだから」
ハロルドは眉尻を下げると、両方の手のひらを天に向ける。
「そ、そうですか」
物置小屋ではなかったのか。
「とにかく、ここで待っててくれよ」
そう言うと、ハロルドは足早にその場を去った。
仕方なく腰を下ろすと、マット越しにでこぼこした石の感触を尻に感じた。家の内側にいるにもかかわらず、去っていくハロルドの後ろ姿がよく見える。家の玄関には布がかけられているが、ほとんど筒抜けなのだ。
ソフィアは少しためらった後、服をはだけさせてアルデンに乳をやった。この村とソフィアの故郷とは本当に文化圏が異なるのだ。ソフィアはもう存在しない故郷に思いをはせた。
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