十三話
ここ数日、青空はほとんど見えなかった。まるで雨期にでも入ったかのように連日雨が降り続き、館の内外は薄暗さとジメッとした空気に包まれてた。この長雨はいつ降りやむのか。気分まで湿気てきそうだ……でも悪いことばかりじゃない。庭でできない伯爵とのおしゃべりは執務室で行われる。情報を盗むのに苦労してる私にとっては毎回機会を得てるとも言えた。やまない雨を見越して一つ用意したものもある。今度こそ何か情報を得て、カミロから潜入捜査官の情報を貰わないと――密かな覚悟をして、今日も私は執務室で伯爵とのおしゃべりに応じる。
「――そういうことでしたか。とても面白い発想ですね」
伯爵は紅茶を一口飲むと、笑顔で話す。
「そうだろう? 私も思い付かなかった方法でその子爵は見事問題を解決して――」
和やかに話してると、部屋の扉が叩かれる音がして伯爵は言葉を止めた。
「ご主人様、おくつろぎ中に失礼いたします」
扉の向こうから使用人の女性が声をかける。
「どうした?」
「画家のコレイア様が、たまたまお近くへいらしたということで、ご主人様にご挨拶をしたいと申されておりますが、いかがいたしましょうか」
「ほお、コレイアか。彼とは久しぶりだな。……わかった。すぐに行こう」
「かしこまりました。ではお待ちしております」
使用人が去る気配がすると、伯爵は私に振り向いた。
「コレイアは父の代からひいきにしている画家でね。彼の描く人物はどれも生きているような迫力があって素晴らしいんだ。そのうち私の肖像画も描いてもらいたいと思っている……いや、その前にいつかのドレス姿のオリアナを描いてもらおうか」
「わ、私では絵になりませんので、遠慮します」
「絵になるならないは画家の腕次第だ。彼ならきっとそのままの美しいオリアナを描いてくれるよ。……では少し待っていてくれ。挨拶をしたらすぐに戻る」
紅茶のカップを机に置くと、伯爵は足早に部屋を出て行った。しんと静まり返った空間に外の雨音が響いてくる。薄暗い上に雨続きで日の光を浴びてないせいか、近頃肌寒さも感じられる。それはきっと伯爵も同じなんだろう。だから話すために執務室に入ると温かい紅茶が用意されるようになってた。私は自分のカップの紅茶を一口飲み、心を落ち着ける。……いい苦味が喉を通って身体の中を温めてくれる。でも今日はその味をのんびり堪能する気はない。
懐に隠し持ってた紙の包みを取り、それを広げる。中には白い粉末――これは植物から作った眠り薬で、使いで来た仲間に頼んで調達してもらったものだ。これを使うことを思い付いたのはまさに紅茶が用意されるようになったからで、忍び込む危険を冒すより、目の前で伯爵が寝ててくれれば、こっちは堂々と部屋の中を探せて楽だと思ったからだ。そして今、伯爵は私に眠り薬を仕込む隙を与えてくれた。
伯爵のカップに私は粉末を流し入れる。添えてあったティースプーンで軽くかき混ぜ、薬をすべて紅茶に溶かす。一応匂いを嗅いでみるが、特に変わってはない。これなら気付くことはないはず。包み紙を懐に戻し、私は椅子に座って待つ。今情報を探してもいいが、すぐに戻ると言ってたから待ったほうがいいだろう。それに伯爵がこの紅茶を飲めば、あとは探し放題になるんだ。焦ることはない……。
それから五分後、扉が開いて伯爵は戻って来た。
「待たせてすまないね」
「お早いお戻りで。お会いしたコレイア様はいかがでしたか?」
「元気そうだった。また絵を描いてほしいと言ったら、喜んでと引き受けてくれたよ。女性の絵を描くのが楽しみだとね」
「女性……? ま、まさか、あの、私ではありませんよね……?」
嫌な予感に思わず聞き返すと、伯爵は楽しげに笑った。
「ふふっ、冗談だよ。そこまでは決めていない。でも本当にいつかオリアナを描いてもらいたいものだ」
「私よりもまずは、ご主人様ご自身を描いてもらってください」
「そんなに嫌かい? うーん、コレイアに描かれたい女性はごまんといるというのに……ああ、そう言えば昔、コレイアに聞いた話でこんなことがあったらしくてね――」
画家を話題に伯爵は再び話を始める。その面白い話を私は頷き、笑いながら聞いてたが、意識の半分は机に置かれた伯爵のカップに向いてた。いつ口を付けるのか、話に反応しつつ今か今かと待ち続ける。すると――
「――そうなって、彼ももったいないことをしたよ」
話が一区切りしたところで、伯爵はおもむろに手を伸ばし、自分のカップを取った。そしてゆっくり口元へ近付け、紅茶をすする……だがその一瞬、動きが止まって伯爵はすぐにカップを口から離した。私の鼓動が速くなる……もしかして、気付いてしまった?
「……どうか、されましたか?」
心配から思わず声をかけてみたが、伯爵は笑顔のまま言った。
「いや……いや、何でもない」
そう言って伯爵はまたカップに口を付け、紅茶を飲む――大丈夫。気付いてないようだ。
「……ええと、どこまで話したかな」
「コレイア様がもったいないことをした、と」
「ああ、そうだったね。その後の彼も相当悔しがって――」
カップを机に置くと、伯爵はまた饒舌に話の続きを話し始めた。私はそれに耳を傾け続ける。話自体は面白く、しっかり聞きたいんだけど、いつ薬が効いてくるのか気になって集中して聞くことができない。薬を調達した仲間によれば、飲んで大体三、四分後ぐらいには眠気を引き起こすらしいけど――
すると伯爵は気だるそうに机に手を付くと、急に話をやめてしまった。
「……ご主人様?」
「すまない。何だか頭がぼーっとして……」
額に手を当て、伯爵は軽く頭を振る。……薬の効果だ。予定通り……。
「体調が悪いのでしたら、こちらの椅子にお座りください」
この部屋にはソファーもベッドもないので、自分が座ってた椅子を差し出す。
「体調が悪いというか……すごく、眠くて……」
「きっと執務でのお疲れが出たのでしょう。少しお休みください」
ふらふらしながら伯爵は差し出した椅子にゆっくり座った。
「こんなことは、これまでなかったのにな……」
「お身体のことです。普段とは違うことも起きます。私のことは気にせずお休みを」
「オリアナ……私の、側に……」
「はい。お側で見守っていますのでご安心を」
「よかった……」
うっすらと微笑むと、伯爵は瞼の重さに耐えきれなかったかのように目を瞑り、眠りに落ちて行った。私はそれを眺め、声をかけてみる。
「ご主人様、お眠りになりましたか?」
顔をのぞき込み、様子を確認してみる。声に無反応の伯爵はしっかり目を閉じ、静かな寝息を立ててる。それに私は胸の中で安堵する。役に立たない薬だったらどうしようかと思ったけど、優秀なものでよかった。ちなみに効果の持続時間は人によるらしいけど、長くて三十分、短くて十分程度だと聞いてる。十分間もあれば、どうにか情報の一つぐらいは探せるだろう――伯爵から机へ視線を移し、私は早速探し始める。
引き出しを順番に開けて中を見てみるが、そこにはやはり文具などしか入ってない。でもそれは予想してたことだ。私が一番見たいのは右上の引き出し……以前忍び込んだ時に、ここだけ鍵がかけられて見ることができなかった。だけど今回は焦る必要もないし、誰の邪魔も入らない。十分もあれば鍵開けに慣れてない私でもさすがに開けることはできるだろう。ここには絶対何かあるはずなんだ――懐にある鍵開け道具に手を置きながら、一応引き出しの鍵を確認しようと引いてみた時だった。
「!」
鍵がかかってるはずの引き出しは、私の手に引っ張られるままにすんなりと開いてしまった。何で開いてるの? 伯爵が執務後に鍵をかけ忘れたのだろうか――予想外の出来事に呆気にとられたが、不慣れな鍵開けをしなくて済み、手間も省けた。これは運が向いてる証拠かもしれない。私は気を取り直して引き出しの中を探った。
中には何枚もの書類が重ねてしまわれてた。ペラペラとめくって見てみるが、様々な会計書類ばかりのようで、捜査には関係なさそうだ。鍵をかけてたのは金に関する書類だから? 確かに金の流れはあまり知られたくないものだけど……期待はずれだったのか?
「……ん、これ……」
数字ばかりの書類を一枚一枚確認していき、すべて見終えようとした時、一番下に数字の並ばない書類があり、私は目を通した。捜査対象……対象組織……実行予定日……! これは、まさに探し求めてた情報じゃないのか? 対象組織には私も聞いたことがある名前がいくつか並んでる。でもトレベラの名前はなぜかない。これはほんの一部、ということだろうか。それでも仲間に伝えれば、この情報を売って金に変えることもできるはずだ。それより何より、捜査の実行予定日の情報なら、カミロも満足してくれるに違いない。これは持ち帰らないと……。
伯爵の様子を見ると、何も変わらずうつむいた姿勢で眠り続けてる。まだ起きる気配はなさそうだ。私は他の引き出しを開け、真っ白な便箋を一枚、それとペンを拝借し、書類の情報を急いで書き写した。そしてすべてを引き出しに元通りに戻し、探った痕跡を消した。……よし、一つ仕事を終えた。あとは伯爵が目覚めるのを待って、この情報を持ち出すだけ――書き写した便箋を折り畳んで懐に大事にしまい、私は伯爵の前に立ってその時を待つ。
薬を飲んでからまだ十分は経ってないはず。長くて三十分だから、あと二十分以上待たなきゃいけないかもしれない。でもそれもいい。こうして伯爵の寝顔を見られるなんてできないことだし。だけど、私は近いうちにこの人を殺さなきゃいけないんだ。そんなことしたくないけど、それが私に与えられた使命で、仲間と居場所を守るためには避けちゃいけないこと……。
「私に、できるの……?」
眠る伯爵を見つめながら自問自答する。初めてこんなに心を温かくさせてくれた人……心地よく笑って話せる人……近くにいるだけでドキドキしてしまう人……こんな人はもう二度と現れないかもしれない。それでも私はできるんだろうか。自分の中の自信が頼りなく揺れてる。眠る伯爵の顔の前まで手を伸ばし、私はその時を想像してみる。鼻と口を塞げば、ここで殺すこともできる。やるべきことは簡単だ。でも私にその度胸があるのか――
気付くと息を止めてた私は、伸ばした手を下ろし、深く息を吐いた。本気で殺そうと思ってない今は正直よくわからない。いざとなればできる気もするし、やっぱりためらいそうな気もする。ただ自分が手にかけるのを想像しただけで、胸は押し潰されたように苦しくなった。心だけは、本音を無視できない……何だか、泣きたい気分になってきた……。
「……オリアナ……」
囁くような声にハッとして目を向けると、眠ってた伯爵の目がうっすらと開いてこっちを見てた。……そろそろ十分は経つ頃だけど、それにしても早い目覚めだ。手早く情報探しを終えてよかった。
「ご主人様、私がお側にいますから、まだお休みに――」
「いや、少し眠ったら、頭がすっきりし始めた。眠気も消えたよ」
「そうですか。でも念のため、もう少しお休みになったほうがいいのでは?」
「ああ、そうだな……今日はもう部屋で休もう。君とまだ話していたかったが……」
「ご主人様がお呼びくだされば、私はいつでも参りますから」
そう言うと、伯爵はどこか切なげな笑みを浮かべた。
「ありがとう。次回の時は、そんな悲しい顔にならないでくれよ」
「え……」
言われて私は思わず自分の顔を確かめるように触ってしまった。そんなに残念そうな顔になってたんだろうか――
「す、すみません。次は、笑顔で」
作った笑みを見せると、伯爵もいつも通りの微笑みを返してくれた。その後、私は伯爵を私室まで見送り、警護をソウザ隊長に任せて詰め所に戻った。
長雨がやっと去った数日後、カミロと二人きりになる時を狙いつつ過ごしてると、再びその機会がやって来た。
「じゃあ私は、少し庭で鍛練を――」
「待ってカミロ」
椅子から立ち上がったところを私はすぐさま呼び止めた。
「何?」
「その、情報を手に入れたの」
聞いたカミロは表情を変えると、廊下に人影がないのを確認してから椅子に座った。
「……上手く盗めたのか?」
「ええ。ご主人様の、執務室の机で見つけた情報よ」
私は懐にしまってた便箋を取り出し、カミロの前に広げて見せた。
「捜査に関する予定日なんかが書かれてたのを書き写したの」
「へえ、どれどれ……」
便箋を手に取り、カミロはじっと目を通す。
「……ふむ、興味深いね。役立ちそうな情報だ。机の引き出しに入ってたの?」
「鍵付きの引き出しにね。でもその時はなぜか鍵が開いてて……」
「ご主人様もうっかりすることはあるさ。おかげでいいものが盗めた」
「これで条件は満たせた?」
カミロは頷く。
「いいだろう。交換条件で君の欲しい情報を教えよう。確か、潜入捜査官について、だったね」
私はカミロの席の向かいに座り、前のめりの姿勢で言う。
「ええ。トレベラに潜入してる捜査官の情報が知りたいの。今も仲間達が必死に捜してるはずだから」
怪しい素振りの者を見かけたら片っ端から呼んで、尋問はもちろん、場合によっては拷問まがいなこともして捜してるらしいけど、まだ尻尾の先すらつかめてないと聞いてる。グズグズすればそれだけトレベラの内部情報が漏れるわけで、それをやっと阻止できれば、安全の確保と共に、皆も疑心暗鬼にならず安心できるだろう。
カミロは便箋を折り畳み、ポケットに入れると、机の上で手を組んで私を見据える。
「じゃあ教えよう。トレベラにもぐり込んでるやつの名前は、ロレンソ・ブラガ。組織内ではそう名乗ってる」
その名前に私の思考は止まった。……聞き間違い? ロレンソ・ブラガって言ったの?
「歳は四十五。銀髪で、黄色の瞳の男だ。……かなり衝撃か?」
カミロはうかがうような目でこっちを見る。
「……どこまで、知ってるの?」
「組織の幹部の一人で、君の父親ってことぐらいだよ。その程度なら少し調べればわかることだ」
ロレンソ・ブラガは私の父さん……そんな、まさか、父さんが捜査官だなんて……!
「父さんは、私が物心ついた時からトレベラにいたわ。そんなに長い間、皆を騙して裏切ってたっていうの?」
「そういうことだ。潜入捜査官は周りに怪しまれないよう、まずは信用を得ることが重要になる。そのためには何年も潜入し続けるのは当たり前だ。時には十年以上もいるという話も聞く。……君達は、まんまと騙され続けてたようだね」
父さんを幹部にして使うほどだ。絶対の信頼があったからこそ今の立場になったんだ。それがすべて捜査のためだったの? そんなの信じられない。父さんはいつもトレベラのために働いてた。仲間を助けて、労って、私にはいつも仲間のことを考えろって――そうだ。父さんが捜査官なら、私が受けた命令は何なの?
「私は父さんにご主人様を消せと命令されてる。でもそれって父さんの味方を殺せっていうことでしょ? こんな命令をされた意味がわからないわ。ねえ、その情報は本当に合ってるの? 私は素直に信じることは――」
「信じる信じないは自由だけど、私が言えることは、この情報は本当だってことだけだ。証拠でも示せればよかったが、ここにはないからね。それと、命令された意味がわからないと言うけど、いくつか考えられる理由はある」
「たとえば……?」
「君や周りに疑われないよう、それらしい命令を与えて、切り捨てるつもりなのかもしれない」
「私を、見捨てるっていうこと……?」
「君は殺しと同時に情報収集も命令されてるよね。だからそれが済むまではご主人様を殺すことはできない。それを見越した上で父親は君を送り込み、そしてご主人様側に君の存在を伝え、捕らえさせるのかも……」
私は愕然としながらカミロに聞き返した。
「じゃあご主人様は、私のことも、受けてる命令も、何もかも知ってると……?」
「単なる可能性だ。実際はわからない」
「でも、それが本当だとしたら、私はもう捕まえられててもおかしくないわ……いえ、そもそも警護人の採用試験に来た時点で捕まってるはずよ。父さんが伝えてるんだとしたら……」
「君はシーレドラスが捜査を進めるトレベラの一員だ。素性を知りながら何もしないのは、捜査のために泳がせてるのかもしれない。ご主人様を消すために動くのはもう少し先だと高をくくってね」
心は怪しみ、まだ信じられないでいる。でもカミロの言葉を聞いてると焦燥感が湧き起こってくる。
「……やっぱり、早く殺さないと……」
「それはやめたほうがいい」
私の呟き声にカミロはすぐさま言った。
「父親が君の存在を伝えていれば、君が行動を起こした瞬間、即捕まるか殺されるぞ。お命を狙われてると知りながら、ご主人様が無防備に動き回るとでも思うか?」
「でも、警護は私達が請け負って――」
「君に教えてない、また別の警護人が常時監視してるかもしれない」
「まさか。ご主人様は以前に二度も襲われたけど、そのどちらの時も私が守って、別の警護人が出て来たことなんてなかったわ」
「それは君がご主人様の信用を得る期間だったからだ。殺さず守ると確信してたんだろう。……いずれにせよ、私の可能性の話で言い合う必要はない。重要なのは今わかってる真実だ。君の父親は捜査官であり、君は見捨てられた状態でここに送り込まれた」
「私が見捨てられてるかなんて、まだ……」
カミロは小さな溜息を吐いてから言った。
「じゃあ、何で父親は君に捜査官だと教えてないんだ?」
胸がドキリと鳴った。
「それどころか命令を下してここに送り込んだ。それは君のことなんか考えてないからじゃないのか?」
「わからない……だけど、娘のことを考えない親なんているの? 父さんは私に厳しかったけど、見捨てることまでは――」
「こう言うのは酷だけど、あえて言わせてもらうよ。君はロレンソ・ブラガの娘ではあるけど、君が生まれたのは父親がトレベラに溶け込むためだと思う」
「……どういう意味?」
「潜入期間が長い捜査官にはよくあることなんだ。組織内でより馴染むために、組織の人間と結婚して家族を作る……いつまでも独身だと怪しむやつも出てくるからね。保身のために子供を持つ捜査官もいるんだ。君の父親はどんな人と一緒に?」
「……知らないわ……聞いたことないし、私、母さんを見たことないから」
一番古い記憶でも母さんはいない。私はずっとトレベラの仲間に囲まれて育って、必要なことはその仲間と父さんが全部与えてくれて、だから母親という存在を必要としないで過ごしてきた。自分の母親がどんな人で、どこにいるのかなんて聞こうとも思わなかった。今置かれてる環境が当たり前だと感じてたから。
「そうか……母親との間に何かあったか、それとも正体がばれて口封じでもしたのかもしれない」
「私は、父さんに初めから愛されてなかったの……?」
だからあんなに私に対して厳しく接してたんだろうか。
「さあ? それは本人に聞いてみるんだね。正直に答えてくれるか疑問だけど。ただ私が言えるのは、君が受けた命令を果たすことには意味がないってことだ。成功しようと失敗しようと、結局君は父親から見捨てられるだけだろう」
「じゃあ、私は何のためにここに……」
「答えは自分で探すしかない。もし私が君の立場なら、こんなところからはすぐに逃げ出すね。自分が保身の道具だと知って命令通り手を汚す必要はない。そうだろう?」
カミロの言う通りなのかもしれない。父さんが捜査官なら、その思い通りに動かされるわけにはいかない。でも伯爵を消すことはトレベラにとってはいいことになる。私が命令に背いて逃げたとしても、他に行く当てなんかないけど、伯爵を消せば仲間達は喜んで迎えてくれるはず……だけどその前に私は、父さんの報告を受けた伯爵に捕まるかもしれないけど。どうすればいいの? 仲間と居場所のために命令を聞くのか、自分の気持ちに従って伯爵から離れ、ここから逃げるのか……正しい答えはどれなの? 私にはわからない。
翌日も頭の中は悩み続けて、正直警護に身が入らなかった。もし今日も伯爵とのおしゃべりに誘われてたら、きっと上の空で聞いて怒らせてたかもしれない。幸い今日は待機時間が長く、落ち着いて考えることができたけど、それでもやっぱり答えは出なかった。自分がやるべきことは……そんな言葉に頭を支配されて帰路につき、ベッドの中で引き続き答えを求めようと思ってた時、扉を叩く音で私は目を開けた。使いが来たみたいだ……。
「……誰?」
「すべてを手中に収める者だ」
いつもの合言葉が返ってきたが、その聞いたことある声に私の胸はざわめいた。そして恐る恐る扉を開ける。
「何してる。早く開けろ」
外側から強引に扉を開けたのは、久しぶりに顔を見る父さんだった。その姿に思わず呆然と立ち尽くした。
「使いに出す人手がなくて、今回は俺が来た。……おい、どうした?」
「え? べ、別に……な、何で父さんが……?」
「だから今言っただろ。人手がなかったんだよ。寝ぼけてんのか? それより、何か情報を手に入れたんならよこせ」
「う、うん、ちょっと待って……」
私は棚の引き出しにしまってた、執務室で得た情報の写しを持って玄関に戻った。
「……これ、トレベラの情報はないけど、他の組織の捜査情報を見つけたの。取り引き材料なんかに使えると思うわ」
メモを受け取った父さんは内容を流し読むと、わずかに口角を上げた。
「へえ、まあ悪くないな。上手くやれば大金が稼げそうだ。……で? 他は?」
「他、は……」
「潜入捜査官の情報はないのか」
息を呑みそうになったのをこらえて私は父さんを見た。その表情は普段通り。ちょっと不機嫌そうな、眉間にしわのある顔……まるで嘘を嘘と思ってない顔。捜査官の情報は私より父さんのほうが詳しいでしょと聞いてみたいけど、そんなことできるわけもない。
「それはまだ、見つけてなくて……ごめんなさい」
謝ると父さんは小さく舌打ちした。
「こっちが今一番欲しいのはそれなんだ。毎日尋問してるせいで仲間内がギスギスして仕方ねえんだよ。早いところ見つけて来い」
「わかった。頑張ってみる……」
「ああ、頑張れ。皆のためにな」
父さんは私の肩を励ますように叩く。
「変わりない様子が見れてよかった。じゃあ頼むぞ」
かすかな笑みを浮かべて父さんは踵を返し、帰って行った。変わりない様子――もしかして父さんはそのためにわざわざ来たんだろうか。私が疑ってないか、裏切ってないかを確認するために。でなきゃ幹部の父さんが使いで来るなんて考えられない。私は父さんにずっと見られてるんだ。捜査官だと隠してる父さんに、ずっと……。でもそれでも父さんで、私は娘なんだ。親子なのに、何で父さんは皆を、私を裏切ったの? 怖くて何度も嫌いになったけど、それでも私は信じてたのに……ひどい。許せない。皆を守れと言ったのはあなただ。私はそれに従ってここにいる。ならばこっちも裏切るまでだ。伯爵を、殺すしかない。何としても。仲間と私の居場所を守るんだ。絶対に――沸々と湧き上がった怒りが私の迷いを吹っ切った。でも気付くと視界は滲み、なぜか私は涙を流してた。
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