十話

 翌日、私は左腕に包帯を巻いた姿で館の詰め所へ向かった。あの後、カミロが呼んだ医師が来て私の傷を治療してくれた。と言っても軽傷だったから、消毒してガーゼと包帯を巻いてもらっただけだけど。まだ痛みはあって傷が開かないようあまり動かすなと言われてるけど、生活には何ら支障はない。数日もすれば気にもならなくなるだろう。そんなことがあったから、ソウザ隊長はすぐに夜会をお開きにしてほしいと頼んだけど、伯爵は結局、予定の時間まで続けた。まだ賊が潜んでる危険があるのに、伯爵はそれならそれで、襲って来た時に捕まえて、私を傷付けた犯人の行方を聞き出してやると強気の態度をとった。そのせいもあって客達は、まさか伯爵が襲われたとは知らず、何も知らないまま楽しい夜を過ごし、夜会は何事もなかったように終わった。私も家へ帰り、自分のしたことを考えて整理してみたけど……詰め所に来た今も、完全には整理し切れてない。仲間を裏切るような真似をするなんて……あの時に感じた気持ちが、やっぱり……。


「おっ、オリアナ、傷の具合はどうだ」


 詰め所に入ると、ソウザ隊長がすぐに気付いて声をかけてきた。他の二人も椅子に座ったままこっちを見る。


「はい、痛みはありますけど、動かすことはできるんで」


「昨日の医師が言ってたように、傷が開かないように注意するんだぞ。でも大したことなくてよかったよ」


「またお手柄だね。警護人一年目で賊から二度もお守りするとはね」


 カミロはニコニコしながら言う。


「でもまた取り逃がした。すぐ目の前にいたってのに……くそっ」


 ジュリオは顔をしかめる。犯人を取り逃がしたのが大分悔しいようだ。


「しかし何でオリアナがいる時ばっかり賊が現れるんだよ。俺だってご主人様をお守りしたいのに」


「向こうはオリアナをただの女性だと思って侮ってるんだろ。だから狙うのかも……というかジュリオ、前回の時はお前も一緒にいただろ」


「あ、そうか……じゃあ俺も侮られてるってこと?」


「別にそうと決まったことじゃないが、そうとも考えられるな」


「ぐっ……何かむかつく」


 口を尖らせるジュリオにソウザ隊長は笑う。


「ははっ、むかついたならもっと鍛練を重ねて、見るからに強い男になれ。俺やカミロみたいにな」


「はいはい。図体のでかい人は馬鹿にされなくていいよな」


「早くお前も追い付いて、しっかり警護してくれよ」


「ところで、今週の警護の予定は? 私、まだ聞かされてないんですけど」


「ああ、オリアナは傷のことがあるから、しばらく待機でいい」


「え、でも動きに問題は――」


「動けても痛みはあるんだろ? 警護は万全の状態でしてほしいんだ。傷が塞がって痛みも消えたら、その時に改めて警護の予定に組み込むつもりだ。だからそれまでは詰め所で待機しててくれ」


 確かに、傷の痛みが残る警護人じゃ、咄嗟の時に心配か。


「わかりました。治すほうに専念しておきます」


「それと、仕事を終えた後で昨日のことを詳しく聞かせてくれ。犯人の容姿や動きを聞いておきたい」


「はい。……犯人を、捜すんですか?」


「俺達は捜しはしないが、情報はシーレドラスへ提供する。そうすればじきに捕まるはずだ」


「そ、そうですね。接触は短い時間だったんで、役に立てるものならいいけど……」


 シーレドラスが動くなら、あんまり細かい情報は伝えないほうがよさそうだ。


「あと三十分もすれば、ご主人様のお食事も終わるだろ。各自警護のための準備を――」


 コンコンと扉を叩く音がして、ソウザ隊長は一旦言葉を切って扉へ向かう。


「ん? 使用人か?」


 取っ手をつかみ、開けた目の前の人物を見てソウザ隊長は驚く。


「……ご主人様!」


「打ち合わせ中だったか? 失礼するよ」


 伯爵の姿にカミロとジュリオはすぐに椅子から立ち上がった。昨夜のタキシード姿のかっこいい印象から普段通りの穏やかで優しい雰囲気に戻った姿……一瞬ドキリと心臓が鳴ったが、見慣れたこっちのほうが身も心もやっぱり落ち着く気がする。


「お食事はもうお済みなのですか?」


「ああ、済ませた。早く話がしたかったんでね」


「お話? 我々とですか?」


「昨日、話しそびれたことがあるんだ。……オリアナに」


 ソウザ隊長の肩越しに私を見つけた伯爵は、柔らかい笑顔を浮かべて名前を呼んだ。


「二人で話をしたいのだが、いいかな」


「我々は構いませんが……」


「そんなに長くはならないつもりだ。その後は伝えている予定通りにする」


「では昨夜の事件について、お話ししていただける時間もあるのですね」


「心配するな。ちゃんとその時間は作るよ」


「ありがとうございます。……オリアナ、ご主人様がお話ししたいそうだ」


「はい……私に、何のご用でしょうか」


 伯爵の前に出ると、その笑顔はさらに笑う。


「ここでは何だ……庭で散歩でもしながら話そうか」


 そう言うと伯爵は詰め所を離れて歩いて行く。


「お二人で話されたいんなら仕方ないな。じゃあオリアナ、警護を頼んだぞ。無理せずな」


「わかりました……」


 三人に見送られて私は伯爵の後を小走りに追った。


 長い廊下を進み、広く綺麗な庭に面したところまで来ると、伯爵はそこから庭へ出た。ごみも枯れ葉も落ちてない手入れの行き届いた植木と芝。その中を歩く伯爵は後ろ姿でも絵になるようだった。


「……さあ、こちらへ」


 振り返った伯爵は後ろを歩く私を呼び、低木の前に置かれたベンチに座るよう促した。


「失礼します」


 私が座ると、伯爵も隣に腰を下ろした。


「傷の具合はどうだ?」


「痛みはありますが、大したものではありません。すぐに治ると思います。ご主人様が医師を呼んでくださり、素早い治療を施してくださったおかげです」


「それならあの医師に礼を言うべきだな。私は側であたふたしていただけだった。それにしても、君が血を流しているのを見た時は、心臓が止まるかと思ったよ。ひどい傷を負わされたのではと本当に心配だった」


「心配ならご自身になさってください。ご主人様はお命を狙われたのですよ? 代わりのいる警護人の心配など不要です」


「何を言っているんだ。警護人と言えども君は一人の人間で使い捨ての道具ではないんだ。オリアナの代わりなど世界のどこにもいない」


 真剣な目に見つめられて、私の鼓動は少しずつ音量を増していく。……まただ。またこの感覚。胸を締め付けられるのに、フワフワするような心地よさ……。


 伯爵はふっと表情を緩めると、緑の庭へ目をやりながら話す。


「話というのは、昨晩話せなかったことで……覚えているかい? 私が、君に目を引かれていると言ったことを」


「は、はい。もちろんです」


「私はいつからか……いや、初めて出会った時からかもしれない。警護人として女性が来たのを驚くのと同時に、なぜか君のことが気になったんだ。最初は珍しい女性だから気にしているのだと思っていた。だが警護の合間に何度も言葉を交わしていくうちに、私の目は君を自然と捜したり追うようになっていた。それでも私は仕事の関係でしかないと思うようにしていたんだ。しかし君が以前、賊から私を守り、それを追って消えてしまった時、大きな不安を覚えたんだ。彼女一人で大丈夫なのだろうかと……警護人の君にこんな心配は失礼だけどね」


 小さく笑うと伯爵は続けた。


「でも本当に心配で、だから自分だけ馬車で逃げることができなかったんだ」


「それであの時、ご友人宅に留まられたのですか?」


「君の無事を確認したくてね。いつだか、ジュリオと庭で鍛練をしていた時も、君の様子が心配になって思わず触れそうになってしまった。その時は君が拒んでくれたおかげで、私も自分の行動に気付くことができた」


「あ、あれは、拒んだのではなく、驚いてしまって……」


「そうだったのか……それは少し安心した。避けられたのかと――」


「そ、そんなまさか! ご主人様を避けるなんて失礼なことはいたしません」


 少し声が大きくなってしまった私を、伯爵は笑って見る。


「嬉しい言葉だけど、相手が私だからって何でも受け入れることはないよ。無理や迷惑なことははっきり言ってほしい」


「ご主人様に対して、そのようなことは今まで一度も感じたことはありません」


「夜会での踊りも?」


 一瞬、あっと思ったけど、私はすぐに言った。


「踊りは、確かに未経験で気が進みませんでしたが、伯爵に教えていただいて、その楽しさを知ることができました。ですから迷惑とは感じていません。むしろよかったことと思っています」


「それが本心なら、私も誘った甲斐があるよ」


「ほ、本心ですので。間違いなく」


 強調した私を見て伯爵は柔らかい笑みを浮かべた。


「ドレス姿の君を見て、そして踊って、私は気付かないふりをしていた自分の気持ちと向き合わざるを得なくなった。君と触れあって、胸が激しく高鳴ったんだ。こういう気持ちにさせられた女性は初めてだった。オリアナ……」


 真っすぐな目が見据えてくる。


「私は、君に心を奪われてしまったようだ」


 呆然と見つめ返すことしかできなかった。そしてすぐには信じられない私は頭に浮かんだ言葉をそのまま口に出して聞いた。


「いろいろな方に、そう仰っているのですか?」


 これに伯爵はムッとした表情で言う。


「断じて違う。私も本心として言っている」


「け、けれど、こんなことあり得ません。ご主人様が、警護人の私をお慕いしてくださるなど……」


「私も迷ったんだ。警護人である君に打ち明けるべきかどうか。だが抱いた気持ちに身分や立場は関係ないことだ。日に日に増す思いを抱えたまま、何事もなく君に警護されるのは苦しいと思えた。だからすべてを伝えようと決心したんだよ」


「ご主人様……」


 伯爵は明るい笑顔を作って言った。


「この場で答えを出さなくていい。いきなりこんなことを言われて君も困惑しているだろう。だから自分の心が決まるまで、時々でいいからこうして二人で話せる時間がほしい。その中で君は答えを見つけてくれたらいい。もしそれが嫌なら――」


「嫌なわけがありません!」


 そう言うと伯爵は丸い目で私を見た。


「……本当に? 気を遣う必要はないよ」


 私も伯爵と同じだったんだ。話すたびに次第に意識して、でも雇い主であり消すべき目標だから、自分の気持ちに気付かないふりを通してた。だけど私はとっくにわかってたんだ。伯爵に会うと全身を巡る苦しくも心地いい感覚……これが恋というものなんだと。


「いいえ。嫌などころか、嬉しいです。私を思ってくださるなんて……」


「では、君の気持ちも――」


 そこまで言って伯爵は軽く頭を振った。


「いや、急かすような質問はよくないな。だがそう言ってくれて私も嬉しいよ。では時間がある時にまた二人で会ってくれるかい?」


 断る理由のない私はすぐに頷いて見せた。


「ご主人様が、そう望まれるのなら、喜んで」


「ありがとう、オリアナ」


 伯爵は私の手を取り、ギュッと握ると、嬉しそうな笑顔を浮かべた。それを見てると私も嬉しくて、今までにない幸せが胸に溢れた。気持ちが通じ合うなんて、何だか信じられない。これは夢じゃなく本当に現実なのか――そんな心の声が私の頭を一気に現実へ引き戻した。これは間違いなく現実。私はよりによってなぜ敵である伯爵を好きになってしまったんだろうか。この恋に幸せな結末などあり得ないのに。それでも膨らむ気持ちは伯爵の笑顔を求めてる。こんな私を知ったら父さんは激怒することだろう。仕事を放って恋にかまけるなんて……やっぱりよくない。私には仲間とその居場所を守る使命があるんだ。それを失敗すれば私も帰る場所を失ってしまう。自分のことより皆のためを考えないと。いずれ伯爵の命も、この手で……。


「……オリアナ? 急に目を伏せて、どうかしたのか?」


 ふと見ると、伯爵は心配そうに私の顔をのぞき込んでた。


「いえ、幸せなこの瞬間を噛み締めていただけです」


「そうか……私も、幸せだ」


 伯爵が握る手に力がこもり、それに応えるように私も強く握り返した。続かない幸せなら、今だけそれに浸っておこう。もう二度と訪れないものだろうから。

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