九話

「はあ、あの料理、美味そう……」


 伯爵は相変わらず客達に囲まれ、会話に忙しそうにしてる。それを遠巻きに見守る私達だったが、ジュリオは警護よりお腹が減って仕方がないようだった。


「おいジュリオ、仕事に集中しろ」


 私達の様子を見に来たソウザ隊長がジュリオの声を聞いて注意する。


「集中したいんだけど、あんな美味そうなものが目の前にあるとさ……」


 伯爵と立ってる場所との間には、こんがりと焼けた鶏肉の丸焼きがデンと置かれ、香ばしい匂いを振りまいてた。それを料理人が切り分け、客達に振る舞ってる。美味しそうに頬張る姿を眺めるジュリオは今にもよだれを垂らしそうな顔をしてる。


「じゃあ見なきゃいいだろ。視界から外せ」


「無理だよ。ご主人様があそこにいる限り、料理は絶対目に入るって」


「無理なら我慢しろ。子供じゃないんだ。まったく、少しはオリアナを見習え。お前みたいに誘惑に気を取られず、ずっと真面目に目を光らせてるぞ」


「わ、わかったって。なるべく見ないようにするから。あと口で息するよ」


「サボらず集中するんだぞ。俺とカミロは向こう側を見てくる」


 そう言ってソウザ隊長はカミロを連れて大広間の反対側へ向かって行った。その背中が遠ざかるのを見ながらジュリオは溜息を漏らす。


「そう言われてもな、あんな豪勢な料理見せられちゃどうしたって腹は減るよ……オリアナもそうだろ?」


 聞かれて私は咄嗟に答える。


「え? あ、そう、かもね」


「……そうでもなさそうだな。お前は偉いよ。しっかり集中できてて」


「命の懸かった仕事だと思えば、自然と集中できるわ」


「命か……そうだな。楽しい雰囲気に惑わされず、危険のある場だと考えないとな。よし、気合い入れ直そう」


 自分の胸を拳で叩くと、ジュリオは表情を引き締めて伯爵の周囲へ警戒の目を送り始めた。ソウザ隊長は私が集中してるように見えたようだけど、警護人としてはジュリオよりも集中できてないかもしれない。私が見てたのは伯爵の周囲じゃなく、給仕として動く仲間の姿だ。今も酒のグラスを載せた盆を持って客達の間を歩いてる。呼び止められればにこやかにグラスを渡し、それが全部なくなればまた取りに戻る。時々伯爵の側を歩いたりすると、まだ行動はしないとわかってても息を呑んでしまう。そんな光景を私はずっと見てた。傍から見れば真面目に警護してるように思えたんだろう。でも私の頭の中は仲間がいつ行動を起こすのか、ただそれだけしか考えてなかった。


 夜会が始まってそこそこ時間が経った頃、室内楽団の奏でる音楽が変わったのをきっかけに、大広間では舞踏会が始まった。食事や談笑をする者は端に寄り、手を取り合った男女が広く空いた空間で華麗な踊りを披露し始める。それを見て、では私もと次々に出て来て、広間の中央はドレスの花が咲き乱れるように華やかになる。踊りのことはまったくわからないけど、でも見てるだけでも楽しさは伝わってくる。


「踊りの何が楽しいんだか」


 隣のジュリオが冷めた声で呟いた。


「踊ったことないの?」


「あるわけないだろ。オリアナはあるのか?」


「ないけど……でも実際踊ったら楽しそうだわ」


「そうか? じゃあ今度、二人で踊ってみるか?」


「え? 本気?」


「嘘に決まってるだろ。俺達が踊ったってお互いの足を踏み合うだけだ」


「ふふ、そうかも。私達には無理ね」


「ああ、無理だな」


 二人で笑い合って舞踏会を眺めてると、その中に伯爵が入って来た。派手なドレスを着た貴婦人の手を取り、優雅な踊りを始める。その動きはしなやかで綺麗だ。


「さすがご主人様ね。踊りがお上手」


「毎日お忙しいのに、いつ踊りを習われたのか。それとも貴族は皆、生まれた時から踊れる能力を持ってるのか?」


 ジュリオが冗談を言う間にも、伯爵は女性に声をかけられ、相手を変えて踊り続けてる。この夜会の主催者としては断るわけにはいかないのだろう。もてなす側は大変だ。


「お嬢さん、よろしいですか?」


 その声が私にかけられてるものとは思わず、反応が遅れて振り向いた。


「……あ、はい? 何でしょうか」


 そこにはタキシードを着た笑顔の銀髪の紳士がいた。


「暇を持て余しているようでしたら、私と踊ってくれませんか?」


「え……?」


 紳士はニコニコして聞いてくる。この人は私と踊りたいの……? いや、でも、私は踊ったことなんてないし、そもそも警護人の身で仕事中の立場で――


「申し訳ないのですが、私達は招待客ではなく、警護人としてこの場におります。なのでお受けするわけには……」


 返事に窮してた私に変わってジュリオがすぐに言った。これを聞いた紳士は少し驚く様子を見せたが、またすぐに笑顔で言う。


「若い女性で警護人とは……では仕事の邪魔をするわけにはいかないね。失礼した」


 紳士は苦笑いを浮かべながら離れて行った。……びっくりした。まさか踊りに誘われるなんて。


「いきなりのことで、何て言えばいいかわからなくて……ありがとうジュリオ。断ってくれて」


「前に同じ光景を見てたからさ、早く断ってやらないとと思って」


「前に?」


「ああ、今回と同じ夜会で、前にカミロも金持ちの客に踊らないかって誘われたんだよ」


「へえ、確かにカミロは女性に好かれそうな顔だしね」


「で、失礼がないように断ろうとしたんだけど、はっきり断らないから相手に押し切られちゃってさ」


「まさか、踊ったの?」


「その通り。仕方なく踊るはめになって、解放されて戻って来たら、隊長にこっぴどく叱られてた。警護中に踊りに興じるなんて何考えてるんだってね」


「気の毒ね。でもカミロにそんな面があったなんて意外。何でも完璧にやりそうなのに」


「その場の空気を壊したくないっていうか、相手の機嫌を損ねて問題を起こしたくないってところがあるんだよ。平和主義なのかな」


 問題を起こして余計な波風を立てたくない……今の私と同じ考えの持ち主なのか。


 ジュリオと一緒にしばらく客達の踊りを眺めてると、踊り終えた伯爵が相手の女性と笑顔で別れ、こっちにやって来た。


「ご主人様、素晴らしい踊りでした」


 私がそう言うと、伯爵は肩をすくめる。


「私より相手のほうが踊り慣れているから、リードするのも一杯一杯だよ」


「そうは見えませんでした。とても優雅で美しかったです」


「私の踊りを褒めるなんて、君はもしかして踊り未経験者か?」


「は、はい。何も知らないのに、おこがましかったですね」


「そんなことはないよ。誰であれ、褒められるのは嬉しいことだ。だが知っている者に褒められれば尚嬉しい。……どうだ? 一度踊ってみないか?」


「え? どなたと……?」


 伯爵はにこりと笑う。


「もちろん私と」


 私は絶句して伯爵を見つめた。またいつもの冗談かと、そう言ってくれるのを待ったが、微笑む伯爵からその言葉は発せられない。困惑してジュリオを見るが、彼も同じような顔になってた。


「あ、あの、ご主人様、オリアナは警護人で、今仕事中の身です。踊るのは……」


「わかっているよ。でも踊りを知らないのなら経験させてやりたいと思ってね」


「でしたら今でなくても……時間のある後日にしては。先ほども男性に誘われて断ったばかりなんです」


「へえ、やはりオリアナは目を引くんだな。後日となるとそのドレス姿じゃなくなってしまうだろう。それはもったいない」


「しかし、踊っては警護が――」


「私と触れ合うほどの側にいるんだ。警護はできると思うが?」


 う、とジュリオは言葉を詰まらせる。確かにできないことはないけど……。


「君はどうかな、オリアナ」


 優しい眼差しが私に聞く。踊りなんてわからないけど、断って印象を悪くさせたくないし……。


「……あの、私は、どうすれば……?」


「何も怖がらなくていい。私の言う通りに身体を動かして踊るだけだ」


「本当ですか? ご主人様が、そう、仰るのならば……」


「大丈夫。ちゃんと教えよう」


 嬉しそうに笑う伯爵は私に右手を差し出す。


「さあ、手を」


 こんなふうに丁寧に手を差し出されるのも初めてだ――私は高鳴る胸の鼓動を感じながら伯爵の手を握った。握り返してくる大きな手は優しく、温かい。


「ジュリオ、ソウザ隊長に説明しておいて。経緯を話さないと絶対に誤解されるから」


「わかってるよ。お前も、警護中だってこと忘れるなよ」


 うんと頷き、私は伯爵に引かれて大広間の中央へ向かった。主催者が連れて来た見知らぬ娘に、周りの客達の好奇の目が集まるのがわかる。誰かしらと囁く声もあちこちから聞こえる。こんなに目立つことをするんじゃなかったと今さらながら後悔を感じ始めた。でもやっぱりやめるとは言えない。伯爵に恥をかかせるような真似はできない。最後まで踊り切らないと……。


「私の手を握って。もう一方の手は私の肩に」


 手の位置を教えられて私はその通りにする。姿勢は踊れるものになっただろうか。


「もう少し身体を近付けて……視線はこちらに」


 言われて顔を上げると、至近距離に伯爵の顔があって私は思わず瞠目した。踊る時って、こんなに近いの? 近過ぎて、緊張が――


「最初はゆっくりでいいから、私の足の動きを追うように自分の足を動かしてごらん。音楽に合わせて……さん、はい」


 動きを追うように――だが、我ながらひどくぎこちない動きしかできなかった。追うのと、伯爵の足を踏まないようにするので精一杯で、優雅に踊るどころじゃない。喧騒に混じってクスクスと笑い声が聞こえた気がした。どうしよう。思うように身体が動かない――


「身体が硬いよ。もっと力を抜いて。視線も上げるんだ」


 足下ばかり見てた視線を伯爵へ向ける。やっぱり近い。にこやかな表情を見てると顔が熱くなってきそう……。


 すると伯爵は腰に回した手で私の身体をさらに引き寄せると、自分の肩口に私の顔が収まるように姿勢を変えた。


「顔が合わなければ気まずくないかい?」


 伯爵は私の緊張を察して、わざと顔が見えない姿勢にしたようだ。でもこれはこれで密着し過ぎてて、私の速い鼓動が伝わらないか心配だけど。


「お、お気遣い、ありがとうございます」


「とにかく力を抜くんだ。自然体で、流れるように。音楽に意識を向けてごらん」


「音楽に、意識を……」


 言われるままに動いてみると、最初はまだぎこちなかったものの、余計な思考を消して音楽に集中すると、どうにか踊りらしい動きができるようになり始めた。


「いい感じだ。その調子」


 足への意識は最低限の注意で、あとは流れるように――


「もう覚えたようだね。君なら踊れると思っていたよ」


 伯爵は身体を引き寄せる力を緩め、元の姿勢に戻した。またお互いの顔を合わせると緊張するかと思ったけど、楽しそうな表情を見るとこっちも楽しく感じてきた。これが踊りの楽しさ……いつまでも、二人で踊ることができれば――そんなことを思ってしまった私を、流れる視界に見えた顔が現実に引き戻した。


 グラスの載った盆を持ち、こっちをじっと見る吊り上がった怖い目――そうだ。踊りに浮かれてる場合じゃない。私にはやるべきことがあるんだ。捜査情報を探り、仲間のために伯爵を消す隙を作らないと。それが今の仕事。忘れるな……!


 ようやく踊りに慣れた矢先、音楽が終わり、踊りも終了した。見ていた客達から踊る者へ拍手が起こる。


「どうだい? 踊りの難しさと楽しさがわかったかな?」


 私から手を離すと、伯爵は満面の笑みで聞いてきた。


「は、はい。とても実感できました。それと、優雅に見えても、意外に疲れるものなのですね」


「そうなんだ。私は踊り通しだから、少し夜風に当たりたいぐらいだ。……そうだ。オリアナも一緒に当たってくれるかい?」


 反射的に断りそうになったが、すぐにこれはいい機会だと気付き、私は頷いた。


「もちろんです。お側で警護をさせていただきます」


 これに伯爵は苦笑を浮かべる。


「警護のために誘ったわけじゃないんだが……まあいい。二階のバルコニーへ行こう。あそこなら夜空も綺麗に見えるだろう」


 客の間を縫って伯爵は二階へ続く階段へ向かう。私がその後を追ってると、ジュリオが駆け寄って来た。


「オリアナ、ご主人様はどちらへ?」


「二階のバルコニーへ行くわ。私はお側に付くから、ソウザ隊長達に知らせておいて」


「わかった。俺達もすぐに二階へ行く」


 ジュリオは大広間へ戻り、私は階段を上がって伯爵に付いて行った。


 扉をくぐった先の部屋にも大勢の客が談笑する光景があった。でもここには酒があるだけで皆ソファーでくつろぎ、一階とは違った静かな雰囲気に包まれてる。落ち着いて飲みたい客がここに集まってるのかもしれない。そんな客達を横目に伯爵はバルコニーに面した大きな窓を開け、外へ出た。室内に溜まった熱気の中に夜の涼しい風が流れ込んでくる。その先に立つ伯爵が振り向いて私を呼んだ。


「気持ちのいい風だ。ここに来てみて」


 私もバルコニーに出て伯爵の横に立つ。緊張と踊りで火照った身体の熱を夜風が奪ってくれる。本当だ。気持ちいい風……。


「今夜は月が綺麗に輝いているな」


 見上げた伯爵につられて私も頭上へ目をやる。神々しいほどに輝く満月……ここに来る前に見た時とまったく同じものなのに、なぜか今見る月のほうがより綺麗に美しく感じる。何だか不思議だ。


「無理に踊らせて悪かったね。踊りは未経験だというから、その楽しさを感じてほしくて……余計なお世話だったかな」


「いえ、とてもいい経験をさせていただきました」


「私だからと気を遣わなくてもいい。迷惑だったなら正直に――」


「これは正直な気持ちです。ご主人様のおかげで少しですが踊れるようになって、それが楽しく、夢心地のようでした」


 そう言うと伯爵はホッとしたように笑った。


「そうか。よかった。本当は嫌々踊っていたんじゃないかと心配だったから……」


「とんでもありません。ご主人様とご一緒に踊れたことは、すごく……嬉しいです」


「そう言ってくれるのなら安心した」


 伯爵は穏やかに私に笑いかける――緊張して恥ずかしかったけど、でも楽しくて嬉しくて、あんな時間を過ごしたのは初めてだった。伯爵は私の知らない気持ちをどんどん引き出してくれる。こんな人も初めてだ。私達を苦しめる敵なのに、どうしてこんなに気になって意識させられるのか……。でも私の気持ちなんて今はどうでもいい。優先するのは自分じゃなくトレベラと仲間達だ。何か一つでも情報を得て渡さないと――


「ご主人様――」


「オリアナ――」


 口を開いた瞬間、伯爵も同時に声を出して、私達の言葉が重なった。


「……あ、失礼いたしました」


「いや、君から話して構わないよ。何かな」


 促され、私は再び口を開く。


「では……あの、シーレドラスでは、どのような捜査を行っているのでしょうか」


「捜査……? いきなりな話だね。なぜそんなことを?」


 直接過ぎる質問だったか。でも上手く捜査の話に持って行くのも難しいし……。


「ま、前々から興味があって……シーレドラスが創られてから治安がガラッとよくなり、一体どんな捜査をしたら賊を片っ端から捕まえられるのかと……」


「私は捜査を指揮する立場じゃないから、詳しいことまではわからない。だが細かい証拠をかき集め、犯罪者の逃げ道を用意周到に塞いで捕まえに行く……そんな手法で成果を上げているようだよ」


 それはトレベラもすでに把握してることだ。少し話を変えてみようか……。


「今一番、街の害になっている犯罪組織はあるのですか?」


「そうだな。密輸や人身売買など、大小様々な犯罪組織が耳に入ってくるが、今街で特に害とされているのは、やはり盗賊ギルドのトレベラだろうか。他より規模が大きく、被害者の数も多い」


 シーレドラスはやっぱり、トレベラに目を付けてるんだ……。


「私でも聞いたことがあります。各地で盗みを働いていると……シーレドラスは彼らを壊滅まで追い込めるのでしょうか」


「すぐにとはいかないだろうね。早くても二、三年はかかることだ」


「ですが、二、三年後に壊滅させる目処はあると?」


「報告された話によればだが。潜入捜査官の出来次第というところのようだよ」


「え、潜入、捜査官……?」


 それって、つまり、トレベラの中に仲間に化けた捜査官がいるってこと? 今の私みたいに。


「そんな、危険なこともしているのですか? 見つかれば命の保証は……」


「その通り。命の保証はない。だが捜査官達は命懸けで犯罪者を捕まえようと日々頑張ってくれているんだ。それもすべてこの街の人々の平和と安全のため。市民の生活が守れるのなら、捜査官は危険もいとわない……皆、強い覚悟を持ってくれている。だから創設者である私も責任を持って彼らを後ろから支え、助けるんだ。この夜会もその一環さ」


「資金集め、ということですね」


「ああ。知っていたんだね。でもそれを意識することはない。資金集めと同時に援助してくれた方へ感謝する場でもあるから、今夜だけは楽しく飲んでしゃべって踊ってもらいたい。……こういう場で真面目な捜査の話はあまり合わないな。しかし君がこういうことに興味があるとは思わなかったよ」


「ご、ご主人様がシーレドラスを創ってくださったおかげで、私達は安心して暮らせているのです。市民なら少なからず興味はあると思いますよ」


「ふむ、そういうものか」


 私の嘘に伯爵は微笑む。怪しまれずに済んだだろうか。でも潜入捜査官の話はかなり大事な情報だ。思い切って聞いてみてよかった。


「……あの、ご主人様も何かお話が?」


 伯爵はああ、と言うと、暗い街並みに目を向けて言う。


「真面目な話の後ではどうも聞きづらいが……」


「構わず仰ってください」


 伯爵はちらとこっちを見ると、また街並みへ視線を戻して聞いてきた。


「オリアナ、君はなぜ警護人になったんだ?」


「それは……幼い頃から習っていた剣術を活かすために――」


「そうではなく、なぜ警護人という危険な職に就こうと思ったんだ? 女性の身で剣を扱う者は少ないが、警護人になる者はさらにまれなことだ」


「おかしいと、お思いですか……?」


 そう言うと伯爵は慌てたようにこっちへ振り向いた。


「いや、そういう意味で聞いたんじゃないんだ。世の女性の大半は若くに結婚し、家庭を持って暮らしている。別にそれが正しいと言うのではない。人ぞれぞれ、自分の思うように生きるべきだとも思う。しかし武術の心得が必要な警護というのはこれまで完全に男性のみの仕事だった。事実として、女性は男性に比べて腕力が劣る。そんな不利を承知しながらも、なぜあえて危険な職業を選んだのか、私はずっと不思議に感じていてね。多くの女性のように恋人や家庭を持ち、平穏な暮らしをしようとは考えなかったのかい?」


 街の一般的な女性のように暮らす……そんなの、考えたこともない。


「私は、得意である剣術を使ってできることを選んだだけで、恋人とか家庭とかは……」


「だがそういう男性はいただろう? 真面目かつ美しい君は、周りの目を引く存在だ」


「冗談はおやめください。言い寄るような男性は一人もいないのに、私が目を引く存在なわけがありません」


 仲間には同年代の男性もいるけど、そんな言葉をかけられたことは一度もないし、恋人ができたこともない。父さんはそんな時間すら与えてくれなかったから。


 すると伯爵は迷う素振りを見せながら言った。


「雇用主と警護人という関係で、こういうことは言うべきではないのだろうが……」


「何でしょうか」


 首をかしげた私を伯爵は灰色の瞳で真っすぐ見つめてきた。


「君に目を引かれている男ならここにいる」


「……え?」


「もし君が私の警護人でなければ、放っておきなどしない」


 私の視線は伯爵の瞳に吸い込まれた。月明かりが灯る綺麗な輝きに、私の胸の鼓動はどうしようもなく鳴り響き始めた。ドクドクとうるさいぐらいに。でもなぜか心地いい。苦しいのに、すごくフワフワした気分。もしかして、これって――


「オリアナ、私は――」


 そう言いかけた時、背後の窓が開く音がして私と伯爵はすぐに振り向いた。


「ベルデ伯爵、でいらっしゃいますね?」


 部屋からバルコニーに入って来た男性を見て私は息を呑んだ。給仕姿で黒髪、吊り上がった怖い目――一階で確認した仲間だった。ここで仕留めるっていうの? 確かにここには二人しかいないし、他の警護人もいないけど、でも私はまだ何も準備が――


「ああ、そうだが」


「お渡しするよう頼まれたものがございまして……」


 仲間は上着の内ポケットに手を入れる。渡すものなどあるはずがない。取り出すものはただ一つだけ――


「こちらを、どうぞ……!」


 吊り上がった目がギロリと伯爵を睨んだのと同時に、仲間は内ポケットから鈍い光を放つナイフを引き抜き、それを伯爵の胸目がけて素早く突き出した。


「!」


 驚き、慌てる暇もなかった。伯爵はバルコニーの手すりでのけぞり、私はその前で……ナイフを突き出す仲間の手を咄嗟につかみ、凶刃の盾となってた。


「……どういうつもりだ」


 仲間が不審もあらわな表情で囁いてきた――わからない。彼に協力すべきだと頭ではわかってるはずなのに、身体が勝手に伯爵をかばってた。


「放せ!」


 仲間は私の手を振り解こうとするけど、それでも私は放せなかった。もう一人の自分がやめてと、どこかで必死に叫んでる。


「ご主人様!」


 その時、部屋からソウザ隊長達が呼びながら駆けて来た。異変に気付いたようだ。それがわかった仲間は私を乱暴に突き飛ばすと、手すりに足をかけ、そこから躊躇なく飛び降りた。


「待て!」


 バルコニーに飛び込んできたジュリオは、手すりから身を乗り出して仲間の行方を見る。しかし暗闇に紛れてもう見当たらないようだ。ここは二階。この程度の高さなら大怪我をすることもなく仲間は逃げおおせるに違いない。


「ご主人様、ご無事ですか!」


 ソウザ隊長が心配そうに聞く。


「あ、ああ……いや、私なんかよりオリアナだ」


 そう言うと伯爵は床にへたり込んだ私の様子を見ようと側にかがんだ。


「オリアナ、怪我は――」


 確認でつかんだ私の腕を見た伯爵は瞠目した。


「血が出ているぞ……切られたのか!」


 そう言われて私は初めてその怪我に気付いた。左腕、はめてる白い手袋が切られて、赤い染みがじわじわと広がってた。突き飛ばされた時にナイフが当たったのだろうか。今になって痛みを感じ始めてきた。


「大丈夫です。浅い傷ですから……」


「浅くても感染症にかかったら大変だ。早く医師に見せなければ……ソウザ、医師を呼ぶんだ! それか彼女を医院へ運んでくれ!」


「この時間では医院は閉まっているでしょう。呼んだほうがいい。……カミロ、頼めるか」


「わかった」


 指示を受けてカミロは部屋へ戻って行く。その部屋には多くの客達が何の騒ぎかと集まってた。


「オリアナ、また君に助けられてしまったな。傷を負わせて申し訳ない」


「何を謝ることがあるのですか。こ、これが私の仕事です。ご主人様は警護人の心配をするより、不安に思われてる招待客の皆様の対応へ行ってください」


「そうだな……だがそれは医師が来てからだ」


 伯爵は微笑み、私の手をギュッと握ってくれた。優しい気持ちが伝わってくるような温もり……でも私は自分のしてしまったことに呆然としたままで、その微笑みに上手く笑い返せなかった。

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