喫茶aveで、会いましょう

あきらけく









「ひさしぶり」





 そう言って顔に落ちる髪の毛を耳にかけながら、僕の目の前の椅子を引いて、彼女は腰かけた。

 10年前嫌というほど目に焼き付いた、彼女の葬式に飾られていた遺影と、全く同じ笑顔で。











 どうしようもなく怪しくて、胡散臭い話だった。

 でも、『死んだ人に会える喫茶店がある』という噂話をたまたま耳にしたとき、こころに湧いたのは猜疑心よりも追慕だった。だからその喫茶店の名前と住所を探してみようかとスマホの検索画面をひらいたときにはもう、「此処へ行ってみよう」と、こころは決まっていたのだ。






 酷く難航した調査の末にたどり着いた『aveアヴェ』と言う名の店は、カフェと言うよりまさしく喫茶店という佇まいだ。自分の住まいから少し離れた地方都市の、大通りから一本奥まった道で。こげ茶色の煉瓦と、壁を這うアイビーに囲まれながら、重たそうな扉がこちらをじっと見ている。その扉に嵌まる硝子に書かれた白い『ave』の文字を見ていると、ほんとうに存在したという喜びと、「あんな噂があてになるはずがない」という自分への呆れで、胸がざわざわとした。



 正午を少し過ぎて微睡む秋の陽光のなか、僕はその扉をくぐった。








 開いた扉に揺られて、ドアベルの軽やかな音が鳴る。オレンジ色の照明だけが灯された、昼下がりの店内は薄暗い。大きなガラス窓の傍の席だけが、陽が差してスポットライトを浴びているようだ。

 こじんまりとした店内に散らばるように、3人ほどの先客がいる。それぞれコーヒーをお供に、新聞を読んだり、目を閉じて物思いにふけったりしているようだ。なんだか自分だけがよこしまな目的でここを訪れたように思えて、後ろめたさが湧いてくる。






「――おや、いらっしゃいませ。はじめまして」






 突然、低くてまあるい声がした。入店時にはカウンターの下へしゃがんで作業していたようで、ひょっこりと、愛嬌のある丸顔が現れる。キャンバス地の茶色いエプロンと黒縁の四角い眼鏡がよく似合う、ふっくらとして背の低いその人はきっと店主だ。自分よりもふた回りほど年配の優しそうな人物ににっこりと歓迎してもらえて、知らずに強張っていた肩の力が抜けていく。



 店主は手を拭きながら僕の顔を見つめて、小さく頷いた。

 


「……うん、何処かで此処のことを聞いていらっしゃったのかな。がご入用ですか?」






 その眠たそうな目でじっと見つめられることは、不思議と不快ではない。ただふたたび後ろめたくなって、「ごめんなさい」と思わず謝った。

 店主は「いえいえ」と慌てた様子で手を振りながら、カウンターから出て席へ案内してくれる。「では、こちらへどうぞ」と指し示されたのはあの窓際の、陽の当たる席だった。



「お求めのモノをお出しできたらいいんですが……絶対だと約束は出来ないんです、申し訳ない」



 そう言いながらメニューを僕の前に開いてくれる。きっと店主の言葉は、僕が聞いた噂話のことだ。まことしやかにごく一部で語られる、『死んだ人に会える』というあの噂。僕こそ申し訳ない。こんなにも善い人に、怪しげで邪な目的のせいで、気を遣わせている。



「……とんでもない。おかしな噂話なんかをきっかけにお邪魔してしまって、すいません」

「いいえ、ごくたまにいらっしゃるのですが、迷惑に思っておりませんよ。細々やっている店ですから、ありがたいことです」



 そう言ってくれる店主の物腰はどこまでも柔らかい。目をさらに細める店主と、落ち着いた空気が満ちるこの店のことが、もう僕は好きになっていた。我ながら現金なことだ。たとえ”彼女に会えなかった”と落胆することになっても、僕はまた此処に来たいと願うだろう。



「じゃあ、ええと……アイスコーヒーを1つお願いします」

「かしこまりました。――お相手の方は、何を飲まれましたか?」



 はっとして、メニューに落としていた視線をあげた。ひとりでやって来た僕へかけるには不思議な問いと、”飲まれましたか”という過去形への違和感。途端にその場が不思議な空気に包まれたように感じた。目を見開いて、優しい眼差しの店主を見つめる。



「――彼女、あたたかいカフェオレが、好きでした」



 知らぬ間に口からその言葉がこぼれ落ちたとき、無意識に頭の中でかけていた彼女の記憶へのストッパーが、音を立てて外れたような気がした。

 満足そうにこくりと頷いて、小さく会釈した店主がカウンターへと戻っていく。



 どくどくと波打つ心臓の音を感じながら、目を閉じる。陽に透けてオレンジ色をしている瞼の裏に、かつての彼女の姿が立ち上がる。あの日湯気のたつマグカップを脇に置いて文庫本を捲っていた彼女。読書中の頬へ落ちる睫毛の影。読み終わった後かならず深く嘆息して遠い目をする彼女に、僕は、恋をしていたのだ。









 


 彼女とはじめて話したのは、大学生の時だった。周りは青春の残り火を謳歌していたけれど、その喧騒から離れて図書室やカフェテリアで自分が持ち込んだ小説を読んでいる、「自他ともに認める本の虫」。そういう、僕たちは割と稀有な人種だった。本から顔を上げたとき視界のどこかでたまたま彼女も読書していることが多くて、自分と似た人がいるなあという認識から始まり、いくつかの偶然を重ねて、僕たちは友人となった。

 時間が合えば、近くに座って本を読む、おすすめの本を紹介しあって交換する、読了後には必ず感想を伝える。そんな些細で静謐な交流が、とてつもなく大切なものになっていた。



 彼女が本を読んでいるとき、芸術作品のように僕たちの間に横たわる、しんと静まり返る空気が好きだった。それを壊すことは僕自身が許せなくて、ようやく自覚し始めた恋心は、いつもいつもページの奥に挟んで隠した。この時間さえ続くならそれでいいと、あの時は心底そう思っていたのだ。



 社会人になってからも、僕たちの「ただ横で本を読む」という交流は数年続いた。

 すっかり大人になってから痛感したのだ。「たったこれだけ」を大切に思える、大切にしたいと思える関係というのは、ひどく得難えがたくて尊いものだということを。だから余計に、僕は自分のこころの熱を持つ一ヵ所だけを、見ないようにしていた。



 自分と彼女の取るに足らない、静謐で優しい物語。まさかあんなにも唐突に、続きが読めなくなるのだと思わなかったのだ。



 いつものように待ち合わせた休日のカフェに、その日彼女は来なかった。LINEの応答もなく不安に思いながら過ごした数日後、返事がきて。

 スマホに飛びついて確認した通知。彼女のいつものアイコンなのに、いつもと全く違う文体。

 ”自分は彼女の妹”だと名乗ってから、



【姉は事故で亡くなりました。本日通夜があります。もしよければ、いらしてください】 



 そう、書かれていた。












「お待たせいたしました」



 店主の声にはっとして目を開ける。柔らかい陽の中で、現実感をうしなう机の上。そこに、店のロゴが入った紙製の丸いコースターとアイスコーヒーが置かれる。そして僕の向かいの無人の席に、湯気の立つマグカップも。店主へお礼を言おうとしたけど、言葉は喉につかえて出てこなかった。こうして2人分の飲み物が置かれたテーブルに着くのは、もう10年ぶりのことだったから。



「ごゆっくりどうぞ。

 ――この席にかかる魔法は、氷が解けるまでの間だけ、湯気が立っている間だけなのだそうです。どうか逢えますように」


 


 店主はそう言って、背を向けた。












 陽光が窓枠に切り取られて斜めに降り注ぎ、時折浮かんでいる埃と、グラスの結露がきらきらと光る。空席に置かれたカフェオレから白い湯気がおどる。遠い場所で小さくジャズがかかり、大切に使い込まれて飴色になった机や椅子がそれを静かに聴いている。先客たちが捲る、乾いた頁の音。

 ふわふわとして、ゆったりとした時間が流れる此処は、まるで穏やかな白昼夢のようだった。世界からころりと、この店だけが隔離されて転がっているような感覚。

 



 夢の中のように覚束ない手元で、鞄の中から10年間ずっと大切にしまっておいた文庫本を取り出す。深緑の装丁。小さく震える手でそれを持って、落ち着こうとすればするほどに震える息をこぼした。目を閉じた後、机の真ん中に置く。陽の光の中で、表紙に描かれた白い花が呼吸して膨らんだように見えた。



 こんな、震えるくらいに馬鹿みたいな期待をして。もし君が見ていたら笑うだろう。でも、こんな噂にも縋りたくなるくらい、僕は――















 そろそろと、伸ばした手を本からひっこめようとしたとき。

 視界から消える僕の手と反対に、ゆるりと現れた、白くて細い腕があった。










「ひさしぶり」



 その腕は、僕の目の前の椅子の背もたれを引いた。そして彼女は、日常の続きのように椅子へと座る。

 あまりに唐突だった。期待していたとはいえ、どう考えてもあり得ない光景に、僕は呆けて声が出ない。動けない僕の目の前で、彼女は嬉しそうにマグカップへ手を伸ばしてそれに触れた後、店主に微笑みかけながら会釈をした。振り返ると、店主もほっとしたような顔で、お辞儀を返している。



 視線を戻す。やはりそこに、僕がずっとずっと想い焦がれていた人が、実体を持って座っている。

 セミロングの柔らかそうな髪の毛を右側だけ耳にかけて、そこから覗く耳に、彼女がよく身に着けていたイヤリングが揺れている。




 


 ああ。何も変わっていない、彼女、本人だ。




「――ひさしぶり。ずっと、会いたかった」




 自分の口から出たのは、この状況では馬鹿げたようにも感じる第一声だった。でも、10数年間の想いを全部溶かした言葉だった。「うん」、と彼女がはにかんで笑うのを見て、胸の奥のいちばん柔らかい場所が、ぎゅうと締め付けられて、苦しい。




「元気?ひげまで生やしちゃって、素敵な男の人になったね。一葉かずはくん」

かなうさんも。ずっときれいなままだ」

「ありがとう。そんなことまで言えるようになったの?ずいぶん大人になっちゃって、妬けちゃうなあ」




 秋の斜陽が、彼女の輪郭を金色に光らせる。空調に揺れる髪の毛の一本一本までが輝いている。

 こんな訳の分からない再会をしたというのに、僕たちは10年前と何も変わらないテンポの会話をする。彼女の姿も当時のままだったから、まるであの日々に戻ったみたいだった。本当は混ざり合いようのない年月や生死の境界が、僕たちの間にあると分かっていても。




「不思議な場所。いいお店だね。そんなこと絶対できないはずなのに、此処へ座りたいと思ったら、なぜだか出来てしまったの」

「――すごい。あの噂、出鱈目だって思ってたのに」

「ふふ。出鱈目だと思ってたのに、此処へやって来たの?」

「うん。――どうしても君に会いたくて、もう一度会えたら、絶対に伝えたいことがあったから」

「……なあに?」



 彼女は睫毛を震わせてマグカップに視線を落とす。そしてゆっくりと、顔を上げた。



「最後に貸してくれたこの本の、」

「うん?」

「この本の、感想」



 わは、と耐え切れず彼女が吹きだして、「それを言うために此処へ?一葉くんらしいね」と笑った。机の真ん中で、突然話題に出された文庫本がきらりと光った。



「そうだね。これが、私たちが交換し合った最後の本だったね」

「うん」

「ただの幼馴染だと思ってた親友のこと、大人になるにつれてかけがえのないものだったって、気付いていく主人公の話。でも気付いたときにはもう、幼馴染はどうしたって届かない人になっていたっていうラスト。どうだった?」

「――最低の物語だった。主人公のことも、大嫌いだった」



 思ってもみなかった返答だったようで、彼女は面食らったみたいな顔で、目をぱちぱちとする。



「最初からずっと、取り留めのないありふれた日常が優しく丁寧に描かれていて、主人公がどれだけ、ヒロインとの日々の細かなことさえ愛しく思っていたかよく分かる話だった」

「うん」

「ほんとは、大人になる前から、主人公は気付いてたんだ。彼女が最初で最後の特別な人だってこと」

「うん」

「なのに、臆病だから彼女がくれる毎日に甘えて、何も変わろうとしなかった。絶対無くならないものなんて、どこにもないのに」

「うん」

「だから、こんな主人公が、大嫌いだ」



 眉毛を下げて彼女が笑う。その表情も全部、全部が、初めて喋ったあの日からずっと好きだった。



「伝えることは独り善がりだって恰好なんかつけずに、もっとこころを、渡しておけばよかったんだ」



 本当は、彼女が来なかったあの待ち合わせの日には、これとは全く違う感想を伝えるつもりだった。”優しくて哀しい物語だった、こういう淋しいラスト、結構好きだな”、なんて。

 あのあと10年、彼女無しで刻んだ僕の物語はけして綺麗なものじゃなかった。本当は伝えたかったんだと後から思うのは簡単で、そして惨めで愚かだった。10年かけて、僕はどうしようもなく間違えたんだと、痛いくらいに思い知ったのだ。



「……そっかあ」



 情けなく涙をこぼす僕の前で、彼女は安堵したみたいな表情で、深緑の表紙に触れる。題名を人差し指でなぞって、まっすぐな瞳で僕の名を呼ぶ。



「一葉くん」



 君を喪ってから、本の世界は居心地のいいものではなくなった。本を読むのを辞めることはできなかったけれど、読書の楽しさや感想を伝え合う特別な相手だけが抜け落ちて、そこは柔らかい地獄のようだった。

 君の声が、机を挟んで鼓膜に届く。本を撫でる指が、触れられる距離にある。この幸福を、どうして僕は10年前、失くさないように抱き留めておけなかったのだろう。



「一葉くん」



 彼女が確かめるみたいに何度も名を呼ぶから、僕は手を伸ばす。本の上の細い指へ。もしかしたら透過してしまうのではと一瞬おそれた。でも若々しくすべらかなその指に、10年分だけ老いた僕の指は、ちゃんと、触れる。



 あの日、臆病な僕がついぞ握れなかった手。

 この世にもう存在しない、本を愛する手。

 二度と触れられない優しい手。




「僕は馬鹿だ」

「そうかもしれないね」



 彼女がそっと握りかえしてくれた感触を、僕はきっと永遠に忘れないだろう。彼女の姿を目に焼き付けようと躍起になるほど、喉の奥がぎゅうと狭くなって、息ができない。



「最後の待ち合わせの日はこの本が、君から返ってくるはずだった。その感想次第で、君とこの先も会い続けるどうか、決めようって思ってたの」

「――臆病な男でごめん。関係を壊して君をうしなうわけにはいかないって、本気で思ってたんだ」

「うん、わかってた。でもちゃんと言葉や文字にすることの大切さを、私たちはいちばんよく知っていたじゃない」



 君と私はどうしようもない本の虫なんだもの。

 そういって悪戯っぽく、彼女が笑う。



「この本を読み終わってもまた気持ちから逃げてしまうなら、君にはもう会えないって思ってた。まさか感想を聞く前に、私は死んじゃうなんて思わなかったけど」

「……あの日、もし会えていたら、僕はきっと君を失望させてた」

「そう。でも、今日の君はすごく格好いいよ」



 この愛おしくて綺麗な人が、いま手を握っているこの人が、本当はこの世にいないなんて信じられなかった。



「会いに来てくれてありがとう。私はやっと物語を終えられるよ。一葉くんは、この先もたくさん面白い物語を見つけてね」



 そう言う彼女の下で、マグカップから昇る湯気がもうわずかであることに気づく。

 ぎゅうと、手を握る。









「叶さん、君が好きだった」



 無数にある恋物語のなかで、きっと一番無様で格好悪い告白だった。拭おうともしない涙が顎を伝って机に落ちる。でも君がまっすぐに見つめ返してくれるから、今度は絶対に目を逸らしたりしない。



「私も一葉くんが大好きだった」



 世界でいちばん美しい笑顔で、金色に光る。あの日手に入らなかった君のこころが此処にある。




「一葉くん」

「叶さん、」

「もう待ち合わせはしないよ。またね、も言わない。さようなら」













からん。












 僕のすぐ下で、グラスの氷が解けて音を立てた。その瞬間に、彼女が金色の粒子になって、空気に溶けて消えた。

 ぬるんだカフェオレと、深緑の文庫本と、陽のおちる空席と。それだけのこして。




 











 1時間ほどかけて涙がやっと止まり、ぼくは薄まり切ったアイスコーヒーを頂いてから、立ち上がった。店主は、その間ずっとカウンターから出たり喋ったりせずに、僕を放っておいてくれた。



「長く居座ってしまい、すいませんでした」

「いいえ。お求めの時間を過ごすことが出来ましたか?」

「――はい。10年かかりましたが、このお店のおかげでようやく前に進めそうです」

「それは良かった」



 にっこりと目じりの皴を深めて笑う店主に、2人分のお代を払う。



「あの……さっきの彼女は、幽霊だったんでしょうか」

「さあ、霊感のようなものは私にはありませんから……よく分からないんです」

「僕のように、死んだ人に会えた人はたくさんいるんですか」

「ごく稀に、ですよ。そういう目的でいらっしゃっても、会えない方の方が多いです」



 店主は僕が腕に抱えている、文庫本を見つめる。



「強い気持ちや記憶っていうものは、頭のなかだけで完結できずに、そこからも溢れてその辺に浮遊してたりする気がしませんか。物に宿ったりすることもあるでしょう。それだけだと希薄すぎて感じることはできないけど、ごくたまに、そういうものをぎゅっと凝縮して可視化できるような場所があるんじゃないかなと、思うんです」

 

「……この店がそうだと?」

 

「どうでしょうね。昔から、この店には時折不思議なお客様がいらっしゃるんですよ。そういう方を、恐ろしいと感じたことはありません。だから幽霊と呼ぶのは、なんだか悪いなと。記憶や思い出と、私は呼びます」



 

「彼女さんの手、暖かかったでしょう。きっと思い出には温度があるんです」









 深く深く会釈してから、ひやりとする扉のノブに触れる。店主の笑顔に自分も自然と笑顔で返せたことに、驚いたし嬉しく思った。



 ふと、店主の奥に見える店内に、誰もいないと気づく。先程まで客が座っていたはずの席は、どれも伽藍堂だった。ドアベルの音は、ずっとしなかったはずなのに。

 ――もしかしたら、彼らも「思い出」たちだったのだろうか。






 ドアベルの音を聞きながら、重たい扉を開ける。

 彼女は、結末のなかった僕の物語も、ちゃんと終わらせてくれた。僕らの待ち合わせと、長く長く拗らせた僕の片思いも、永遠に終わった。

 今こんなに苦しくて、淋しくて、哀しくても、僕はきっとそれらを抱きしめながら前に進むことが出来る。



 


 喫茶aveアヴェ

 世界にふたつとない、生きる者にも喪われた者たちにも優しい、美しい店だった。僕が前向きに生きていく限り、もう二度とあの店やこの街を、訪れることはないだろう。


 でも、もし僕がいろんな物語を刻みながら人生を終えて、温もりを持つ"思い出"になったとき。あの店がまだあるのなら、僕は、きっと。





 


 目を閉じれば、店内でかかる小さなジャズの音がいつまでも、いつまでも、リフレインしていた。



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