第2話:第二王子と奇縁の時間
イリーナはせっせとモップで広場の床を掃除する。
土埃が舞わないように丁寧な手つきで大理石を磨いていると、エリクの寝顔が目に入った。
「やっぱり美形な方ですね」
心地良さそうな表情で日差しに包まれている様子を見て、イリーナは絵画に残せないことが勿体無いとすら感じ、まじまじと見つめている。
自分には到底理解できない重圧を殿下は背負っていると先ほどのやりとりで感じたからこそ、今温かな空気を身体中で感じているエリクを見ると、イリーナは胸の中に安心感を漂わせていた。
「あっ……」
モップ掛けもひと段落したところで、汚れのついた先端をバケツの水で洗い流していると、太陽はイリーナの想像よりも高い場所にあった。
自分がエリクの弾くヴァイオリンに好奇心を持ったタイミングは、メイドの朝礼直前の時間だったことをイリーナは思い出す。
「大変! 早く戻らなくちゃ!」
思わず声を荒げて持ってきた掃除道具をまとめていると、広場の端で物が擦れる音がイリーナの耳に届く。
「掃除は終わったか?」
「終わりました!」
咄嗟に返事をしたイリーナの目には、疲れの抜けた表情で腕を空に向かって伸ばすエリクの姿があった。
メイドの自分でもスケジュールが埋まっているなら、王子のエリクはスケジュールに空きがないのでは?という考えがイリーナの脳内に駆け巡る。
「大変申し訳ございません!」
勢いよく頭を下げたイリーナに対して、謝罪を受けるエリクは険しい表情を浮かべた。
「殿下の忙しい中、強引に引き止めてしまい……何か大事な予定があったなら、なんとお詫びを申し上げればいいのか」
「いや、いい。メイドに心配されるほどの疲労を見せた俺に責がある」
ジッと王宮を見つめるエリクの表情は、ただのメイドであるイリーナにも分かるくらい、焦燥の色が濃く出ている。
露骨な早口で言い放つと、そのまま王宮の方へ走り去ろうとするエリクは、どこか危うげな雰囲気を身に纏っていた。
「俺はもう行く。君も普段の業務に戻ってくれ」
「はい……」
このまま行かせてはいけないと、イリーナの頭の中に強い危機感が警鐘を鳴らす。
それでも、またエリクに休もうと提案したところで、これ以上はエリクの王族としての責務を邪魔することになってしまい、エリクの焦燥感を晴らす手立てはイリーナにはなかった。
形を結ばずに儚く消えてしまう言葉の数々が、イリーナの喉奥でわかだまりとして残る。
「待っ……」
ふと、イリーナとエリクの間に太陽の日差しが差し込む。
草木の隙間から溢れる温かな光は、エリクの背中を優しく照らしていた。
「殿下!」
どれだけボロボロになっても王族であり続けるエリクの姿は、力強い輝きを放っている。
その繊細ながら力強い背中は、イリーナの脳内に残るエリクの演奏を想起させた。
「ヴァイオリンの演奏、とても素敵でした!」
エリクの持つ責任の重さを理解できないが、それでも感じたありのままの気持ちを伝えたイリーナの言葉に、エリクの足は一人でに止まる。
咄嗟に振り返ったエリクの目には、朗らかな薄緑色に囲まれて、微笑みを浮かべるメイドの姿が写った。
「ふっ……」
メイドの持つ温和な空気に触れたエリクの相貌から、先ほどまで濃く浮かんでいた焦燥の色が抜ける。
憑き物が落ちたような感覚にエリクは、これまで張り続けた頬を緩めた。
「そうか。ありがとうな」
エリクがため息を吐くと、自身の空っぽだった肺へ朝日に温められた空気が流れ込む。
この空間の心地良さを伝えたメイドへ、エリクは優しげな視線を送る。
「君、名前は?」
「イリーナ・アルトノーツと申します」
「アルトノーツ卿の娘か。確かに、彼は自領の自然の豊かさをよく誇らしげに語っていたな」
少し自慢げな表情を浮かべたイリーナを見て、エリクはクスリと笑みを浮かべた。
穏やかな時間に癒されたエリクは、王宮へ力強い足取りで歩み出す。
「君のお陰で、良いリフレッシュになった」
「いえ、こちらこそお時間のない中、足止めしてしまって……」
「気遣う必要はないさ」
エリクは視線の端に写るヴァイオリンを見て微笑むと、太陽に向かって片手を悠々と挙げる。
「また礼をする。今日はありがとう」
「こちらこそ、早朝から素晴らしいもの聞かせてもらいましたから」
「それでは、良い一日を」
「えぇ。殿下も良い一日をお過ごしください」
イリーナは堂々と王宮へ歩いていくエリクを見送るようにお辞儀をした。
広場の中に差し込む太陽は、二人の分け隔てる壁のようぬ身分の差を象徴している。
きっとこの先出会うことのない王子へ、イリーナは演奏とチケット代としてささやかなエールを送った。
まだ一日は始まったばかりだからこそ、王子にとって良い日になるように、とイリーナは両手を合わせて天に祈る。
「さて、私も仕事に……」
ふと、イリーナは太陽の位置を確認すると、とっくの前に朝礼を終えている時間だと気付く。
寮長が火を吹くように怒りを露わにする様子を想像すると、イリーナは体を震わせてしまう。
「急がなきゃ!」
慌てて掃除道具をまとめると、そのままメイドの寮に向かってイリーナは駆け出す。
それでも、イリーナの表情には、早朝のワクワクするような出来事の数々に満足をしたと書いてあった。
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