【18】ルカ/王弟ディオンside
ディオンはエミリアを夫婦の共寝室まで運んだあと、再び屋敷を出て地下牢に戻った。今はすっかり夜更けで、満月が南から西の空へ傾きかけているところだった。
ディオンは毒を盛られた部下たちと、マルクの容体を確認する――全員、問題なさそうだ。屋敷の見張り番を一人呼び寄せ、部下たちとマルクを見守るように指示した。とくにマルクは、地下牢で目覚めたらパニックになるに違いない。マルクが起きたら連絡するよう、見張り番には命じておいた。
(夜が明けたら忙しくなる。……ひとまず、仮眠だけでも取っておくか。マルクの今後については、慎重に考えなければならないからな)
屋敷に戻って寝室に向かいながら、ディオンは思いを巡らせる。
(竜化病は、聖女の儀式を受ける以外に治すすべのない病だ。エミリアの関与を伏せなければいけないから、ほとぼりが冷めるまでマルクを神殿で保護する必要がある。……まぁ、王族の権力を多少振りかざして、うまくやるか。夜が明けたら神殿に使いを送ろう)
共寝室に入ると、ベッドですやすやと眠るエミリアの姿が目に入った。思わず緊張がほぐれて、ディオンの顔に笑みが浮かんだ。
エミリアの寝顔は、子供のようにあどけない。
「……前に会ったときも、そういう顔で眠ってた。エミリアは、本当に変わらないな」
幸せそうに呟いて、同じベッドに身を横たえた。
引き寄せられるように、彼女の頬に触れていた。柔らかくて温かい。
(子供の頃と、おんなじだ)
触れられる距離に彼女がいる――そんな幸せを噛みしめながら、ディオンは8年前の出会いを思い返していた。
*
ディオンは13歳のころ、竜化病を発病した。
当時の彼は、6歳年上の姉ヴィオラーテとの王位継承争いに巻き込まれていた。
第一王女ヴィオラーテは亡き正妃の子。
弟である第一王子ディオンは、側妃の子だ。
本来なら正妃の子が継承権第一位となるのだが、ヴィオラーテが病弱であり正妃がすでに没していて権力基盤が脆弱であったため、側妃は「我が息子ディオンを次期王位につけるべき」と激しく主張していた。
側妃は、事あるごとに
――愚か者。出来損ない。不甲斐ない子。
幼いころからひどい言葉を浴びせられ、ディオンはいつも母親に怯えていた。
母からも父からも評価されない彼には、生きることと苦しむことは同義だった。
そんな彼の唯一の味方は、意外にも異母姉のヴィオラーテであった。
ヴィオラーテは聡明で公平な女性だ。
彼女自身の王位を脅かす『敵』であるにも関わらず、ディオンを正しく評価し姉弟として彼に接した。
ディオンは、姉を尊敬している。
だから姉から誕生日に贈られた『海青石』のイヤリングを、彼はとても大切にしていた。銀製の土台に海青石を嵌めたイヤリングは、姉がディオンのために作ってくれた世界に一つの宝物である。
母は、そんなディオンを執拗に責めた。
「ヴィオラーテと馴れあうなど、何事ですか!? あんな小娘に懐柔されるなんて! ディオン、お前はなんて愚かな子なの」
愚か。愚か。愚か愚か愚か。
――もう、嫌だ。死んでしまいたい。
強くそう願った瞬間、暗闇の中に引きずり込まれた――――彼が竜化病を発病した瞬間だった。
そのあとは、すべてが分からなくなった。
息が苦しく、心臓が押しつぶされるように痛い。
理解不能な暗闇が、永遠と思えるほどの長さで続いた。
自分が竜化病に侵されていたと知ったのは、竜鎮めの儀式を受けたあとのことだ。意識を取り戻したとき、ディオンは純白の法衣を纏った赤髪の『
「苦しかったでしょう。でも、もう大丈夫。心配はいりません」
薄絹のヴェールの下で、木漏れ日のような笑顔が輝いている。ヴェール越しの顔は十歳前後と幼いのに、聖女の物腰は大人びていた。
「………………ここは、どこだ」
磨き抜かれた大理石を切り出して作ったような小部屋に、自分とカサンドラは二人きり。
カサンドラから竜化病のことを聞かされて、ディオンは激しく動揺した。
――父上も母上も、こんな自分を見放すに違いない。
取り乱していたディオンに、聖女カサンドラは優しく寄り添い続けてくれた。
「竜化病は、誰もが発病しうる病です。この大陸の人間には【竜の因子】が眠っていて、なにかの弾みでバランスが崩れてしまうことがあります。でも、一度治せばもう二度と発病しません。これからは、あなたはあなたの竜と仲良しになれるはずですよ?」
彼女の声に耳を傾けていたら、徐々に気持ちが落ち着いてきた。
「……ありがとう、少し、気持ちが楽になったよ」
にこりと優しく微笑んでから、聖女カサンドラは扉のほうへと向かっていった。
「お付きの方々。竜鎮めは、無事に終了しましたよ」
彼女が小部屋の扉を開くと、喜色を浮かべて二人の男が入ってきた。
「おぉ! ルカ様、お気を取り戻されましたか!」
「ルカ様、ご無事でなによりです!!」
(――ルカ?)
ルカというのは、ディオン=ファルサス・ログルムントの幼名だ。――5歳頃まで、ディオンは王宮内では『ルカ』と呼ばれていた。
目の前の男二名はディオンの護衛騎士で、幼少時からディオンに付き従っている者たちだ。普段は王国騎士団の騎士服を纏っているのに、今の二人は使用人のような身なりをしている。
「おまえたち、なんで今さら私をルカと――」
言いかけたディオンを、護衛騎士たちが黙らせる。
聖女カサンドラに聞こえないように、声を殺して彼らは言った。
「この国にいる間、あなたをルカ様とお呼びします。お名前を変え、変装をして、あなたが王家の者だという事実を伏せました」
(……名前と姿?)
ディオンはふと、壁に嵌まっていた大鏡に目を馳せる――自分の金髪が、カラスのような黒に染められていた。
「王家から竜化病が出たとなれば、ログルムントの醜聞となります。レギト聖皇国に知られれば政治的優位を取られかねないため、このようにせよと国王陛下が命じられました」
(醜聞……? やはり、父上は私を……)
血の気が引いて、身体がふらつく。
「ルカ様!?」
「ルカ様、どうかお気を確かに……!」
「触れるな。どうせお前たちも、私を見下しているんだろう!?」
「そのような事は……」
言い合う彼らを見て、聖女カサンドラが心配そうに声を掛けた。
「ルカ様の心が乱れているのも無理はありません。回復魔法をかけて差し上げたいのですが、よろしいですか? お二人は席を外してください」
「……聖女様」
「是非よろしくお願いします」
護衛騎士達はディオンに「それでは、ルカ様。くれぐれも身分を明かしませんように」と囁いてから部屋の外へと出ていった。
ぱたん、と扉を閉めてから、カサンドラは力の抜けた笑顔を浮かべてディオンを振り返った。
「回復魔法をかけますから、気持ちをラクにしてくださいね」
ディオンをソファに座らせて、その横に彼女がひざまずく。掌から白い光を発して、ディオンの腕に触れていく。
「……世間は残酷ですよね。竜化病は誰でも起こりうる病なのに、なかなか理解が広まりません。あなたが気にすることなんて、本当はなにもないのに」
聖女カサンドラは、ディオンを励まそうとしているようだ。
「世間にはあまり知られていませんが、竜化病を乗り越えた人の身体能力は飛躍的に向上するんです。なかでも超常的な力に目覚めた人は『
「……ありがとう」
「いえいえ」
にっこりと笑う彼女は、年齢相応にあどけない顔をしていた。
聖女としての大人びた振る舞いと子供っぽい笑顔が不釣り合いで、なんだか可愛い。
ディオンは徐々に心に余裕を取り戻し、不意に疑問を感じた。
(この子は……本当にあのカサンドラなのか?)
宮殿で出会ったときの高圧的なカサンドラとは、まるで別人だ。
(二重人格なのか? 雰囲気が違い過ぎる。……今のカサンドラは、とてもきれいだ)
勝手に高鳴っていく鼓動に、ディオンは戸惑っていた。気恥ずかしくて、カサンドラを直視できない。うろうろと視線をさまよわせてしまう。
(カサンドラが、こんなに清らかな子だったなんて……)
そのとき。不意にカサンドラのほうから、「すぅ、すぅ」という寝息のような音が聞こえてきた。
「………………ん?」
ディオンは彼女のほうを見た。そしてソファにもたれて熟睡している彼女を見て、びっくり仰天した。
(おい!? 寝ているのか!? 聖女の仕事中なのに!??)
ほんの数分前まで、カサンドラは穏やかに微笑みながら回復魔法を掛けてくれていたのに。
一体いつの間に寝ていたのだろうか? よほど疲れていたのだろうか?
(………………本物のカサンドラ……だよな?)
ディオンはじっと彼女を見つめた。
薄絹のヴェールの向こうにある顔は、確かにカサンドラのように見える。上等なワインのような赤髪も、まさにカサンドラの色だ。……だが、なにか違う気がする。
薄絹越しの寝顔が、とてもかわいい。
ヴェールを取り去って、直接顔を見てみたい――。
ディオンの手が、勝手にヴェールへ伸びていく。
(いや、ダメだ。こんなことをするのは野蛮だ。でも……)
ヴェールを、めくってしまった。
ヴェール越しよりもさらに愛らしく、無邪気な寝顔がそこにはあった。
(カサンドラじゃあない! この子は何者だ……?)
引き寄せられるように、彼女の頬に触れていた。
とても温かくて、柔らかい。
高鳴る鼓動を落ち着けるすべが分からない――。
そのとき、ぱちりと少女が目を開けた。
「ひょわわわわっ!!?」
という珍妙な声を出してうろたえながら、少女は咄嗟に後ずさった。
ディオンから最大限の距離をとろうとした結果、足を滑らせて部屋のなかに置いてあった聖水入りの大盤をひっくり返してしまう――不運にも彼女は、大量の聖水を頭からかぶってしまった。
ばっしゃぁ…………という水音を聞きながら、ディオンは自分がとんでもないことを仕出かしたと思って青ざめた。
だが、ディオンよりむしろ彼女のほうが真っ青になっていた。
びしょ濡れになった彼女の髪から、赤い染料が流れ落ちる。
赤と亜麻色がまだらになって、彼女の髪は異様な色合いになってしまった。
「は、はわわ、はわわわわ……」
彼女はパニックに陥って、泣きべそをかいている。
「……わ、悪かった。その……悪気はなかったんだ、ごめん。だから……」
彼女は水しぶきを上げながら、ディオンに掴みかかっていた。
「誰にも言わないで! お願いだから、私がニセモノなのは内緒にして!! バレたら私、殺されちゃう」
「……殺される? どういうことだ?」
彼女は教えてくれた。
本当の名前はエミリアで、「聖女の力」を持っているが法王の承認がないので聖女を名乗れないのだという。
エミリアは、聖女カサンドラの替え玉として働いていた。
「信じられない……なんて理不尽なんだ。エミリア、こんな国は捨てて、今すぐ逃げたほうが良い!」
密入国でもいいからログルムントに逃げて来い――ディオンは彼女にそう言った。
ところがエミリアは、逃げる気はないと答えたのである。彼女は言った――「偽聖女でも聖女でも、誰かを助けられるならどっちでもいい」と。
話しているうちに、エミリアは落ち着いてきた。
火と風の魔法で器用に自分の法衣を乾かし、予備の染め粉で髪を直すと、
「ルカも元気になったみたいだし、そろそろ終わりの時間にしよっか。それじゃあ元気でね、ルカ。私の正体は、絶対内緒にしてね!」
と別れを告げてきた。
「……待ってくれ」
もう二度と会えないなんて、嫌だ。
なにか彼女との繋がりを残したい。
ディオンはふと、自分の耳に飾られていたイヤリングに気が付いた。姉から贈られた海青石のイヤリングだ。
耳から外して、エミリアに握らせた。
「これを受け取ってくれないか?」
「え!? でも、どうしてくれるの?」
「ええと……治してくれたお礼だ」
「お礼なんていらないよ。見返りなんてこれまで貰ったことないもん」
「……君に受け取ってほしいんだ。いらなかったら売ってもいい。それなりに高く売れると思うから、いざいうときの資金にしてくれ」
「売る!? 何言ってるの、こんなにきれいなものを……」
目を丸くして戸惑っていたエミリアは、ふと良いアイデアを思い付いたようでにっこりと笑った。
「それじゃあ、ルカと半分こにしよう」
「半分こ?」
「そう。半分こだったら仲良しの
エミリアは片耳のイヤリングだけ受け取って、反対側のをディオンに返した。
「ありがとう、ルカ。私、プレゼントなんて初めて! ずっと大事にするね」
*
その後ディオンは、ログルムント王国へと戻った。
だが、ディオンにとって父母の評価など、すでにどうでも良くなっていた。
竜化病になった息子を蔑む両親よりも、病に理解を示してくれて、幸せを願ってくれたエミリアのほうが尊い。エミリアに誇れるような、強い人間になりたい。
だから、欲しくもない王位を目指すフリもやめた。
「次期王位には、姉上こそが相応しいと存じます。法の原則に従うべきですし、私は王の器ではありません」
くだらない王位継承争いから身を引き、姉ヴィオラーテが女王に即位したのちは全力でそれを支えた。
国内の貴族には「自分の娘を王弟妃にして、ディオンを王位に押し上げ自身の権力を高めよう」と目論む輩も多かったが、ディオンはそれらに目もくれなかった。
ディオンは政治の中枢に身を置くことを好まず、退廃地区である王家直轄領ヴァラハの領主となることを望んだ――従来ならば領地を持たない宮中伯が、任期付きで嫌々領主を務めるような役職なのだが。
ディオンは、他人の思惑に振り回されない人間になっていた。
この生き方で良いし、むしろこうやって生きていきたい。
『偽聖女』という不名誉な役回りを真摯に引き受けていたエミリアの姿を、ディオンはいつも胸に抱いていた――
***
そして今。
あのエミリアが、ディオンの『妻』になっている。
人生というのは、本当に分からないものだ。
ベッドで横になりながら、ディオンはエミリアの頬に触れていた。
(……知らないフリを貫いて、エミリアには普通の暮らしをさせてやりたいと思ってたんだが。マルクの竜化病を治すために、力を借りてしまった)
何も問いたださないのに聖女の力を使ってほしいだなんて、本当に無茶な要求をしてしまった――と、ディオンは反省をしていた。
だが、マルクを一刻も早く助けるためには、ああするしかなかったとも思う。
(俺はエミリアを失いたくない。ずっと、そばにいてほしい――)
いつの間にか、夜が明けようとしていた。レースカーテンから、朝の気配が差し込んでくる。
安らぎを求めるように、ディオンはエミリアの髪を撫で続けていた。――そのとき。
エミリアが、ぱちりと目を開けた。8年前のあの日と同じように。
「ひっ!? ひゃぁああ」
奇声を上げて真っ赤な顔でベッドから飛び起きるエミリアの姿に、ディオンは思わず笑ってしまった。
「お、おはようございます、ディオン様……」
「おはよう。昨晩はありがとう」
「昨晩……」
エミリアは息を呑んでから、深刻な表情で尋ねてきた。
「ディオン様は私が『聖女の力』を持っていることを、知っていたんですね?」
「それは聞かない約束だ」
「でも……気になります。私の正体は、レギト聖皇国のなかでもほとんど知られていなかったなのに。ましてや、隣国のログルムントでは……たった一人しか、私の秘密を知らないはずです」
――たった一人?
ディオンの心臓が、とくりと跳ねた。
エミリアはじっとディオンを見ていたが、やがてハッとした顔で口元を覆った。
「ま、まさか、ディオン様は……!」
ディオンは、彼女の言葉を待っていた。
(……もしかしてエミリアは、
そんな期待に、胸が膨らむ。
「ディオン様は、ディオン様は………………ルカの、知り合いだったんですね!?」
「は??」
思わず間抜けな声が漏れた。
「ディオン様は、ルカから
エミリアは頭を抱えながら、
「もう、ルカったら、絶対内緒にするって約束してたのに!!」
などと叫んで怒っている。
「し、知り合い……?」
「そうでしょう?」
エミリアがあまりに自信たっぷりだったから、ディオンは曖昧にうなずいてしまった。
「ほら、やっぱり! ルカったら意外と口が軽い子だったのね……もう!!」
「参考までに聞きたいんだが……君にとって『ルカ』はどういう奴だったんだ?」
「友達です」
「友達……」
「はい。でもルカったら、私がうたた寝してたら勝手にヴェールをめくって顔を触って来たんですよ? あの子、何考えてたんだろう……かなり謎ですよね。そのせいで色々バレちゃったし! もう……ルカのバカ!」
ところで……、とエミリアが首をかしげる。
「ディオン様。ルカは今、どこにいるんです?」
「……教えねぇ」
「え!? なんでですか!?」
ディオンはそっぽを向いて黙り込んだ。――「ルカは俺だよ」などと、今さら言えるはずがなかった。
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