【16】仕方のない人
――その夜。
夫婦の共寝室で、背中合わせでベッドに寝転がりながら、ディオンとエミリアはぽつりぽつりと会話をしていた。
「今日は、いきなりの騒ぎで驚いただろう? また今度、ゆっくり出かけよう」
エミリアは返す言葉を選ぶように沈黙していたが、やがて不安げな声を絞り出した。
「……ディオン様」
「ん?」
「竜化病を発病したあのマルクという男の子は、これからどうなってしまうんですか?」
「マルクの身柄はレギト聖皇国に送られて、聖女カサンドラの竜鎮めを受ける」
その流れについては、すでにエミリアも熟知していた。
ログルムント王国の竜化病患者は、聖女の『竜鎮め』を受けるためにレギト聖皇国の皇都へと移送される――暴れ出さないように魔法封じの枷で手足の自由を奪われて、鎮静剤を打たれ、猛獣同然の扱いをされて運ばれてくるのだ。これまで数百人もの竜化病患者を治してきたエミリアは、そんな患者たちの姿を自分の目で見てきた。
「竜鎮めさえ受けられれば、マルクは治る。今まで通りに普通の暮らしができるようになるよ。だから心配はいらない」
「……マルクが竜鎮めを受けるまで、何日くらい掛かるんですか?」
「だいたい3~4か月だ」
「そんなに!?」
エミリアは驚いて、ベッドから身を起こした。
(そんなにかかるの……!? レギト聖皇国内の竜化病患者は、遅くても数週間内に竜鎮めを受けられるのに? 数週間でも長すぎると思っていたけれど、まさか3,4か月だなんて)
ディオンもゆっくり起き上がり、申し訳なさそうな顔でエミリアと視線を交わした。
「国と国とのやりとりだし、レギト側からの許可が下りるのにどうしても時間がかかるんだ。今マルクはこの屋敷の地下牢に収監されているが、準備が整い次第ログルムント王都の主神殿に送られる。そして受け入れ許可をもらったら、レギトに移送されるんだ」
「そんなに長い間、あの子は苦しみ続けなければならないんですね」
「……仕方ない。だが、必ず治る病だ。マルクとその家族は必ず平穏な暮らしを取り戻せるし、俺も支援する」
竜化病は本当に厄介な病だよ。と、ディオンが溜息をついた。
「不安そうだな、メアリ。竜化病が怖いのか?」
ディオンがそっと、エミリアの頬に触れた。
「違います」
「だが、とてもつらそうな顔をしている。……泣いてるじゃないか」
いつのまにか、目に涙が滲んでいたらしい。ディオンの指が、エミリアの涙を優しく拭った。
エミリアは心を見透かされるのが怖くなって、彼から目を逸らした。
(私は竜化病が怖いんじゃない。本当は今すぐ治してあげられるのに、聖女の力を隠さなきゃいけないから……。マルクのつらさを思うと、苦しくて堪らない)
「……メアリ。俺は明日からまた仕事で屋敷を留守にするが、牢の見張りは万全にしておくから心配いらない。マルクが暴れ出したり、牢屋から逃げ出したりする危険はないから安心してくれ」
ディオンは再び横たわった。エミリアに背を向けていたが、一度だけ振り返って微笑みかける。
「メアリ、君が思い悩むことはなにもない。だから安心してお休み」
*
翌朝。ディオンは早くに屋敷を立った。視察の都合で、1週間は戻らないという。
ディオンを送り出したエミリアは、暗い顔をして自分の部屋に戻っていった。
引き出しにしまっておいたルカのイヤリングを、そっと取り出す。手に取って、イヤリングに語りかけた。
「……ルカ。本当は私、マルクを治してあげられるのに。見て見ぬ振りをするなんて、最低だよね」
8年前に出会ったルカは、黒髪のほっそりとした少年だった。
ログルムント人のルカは、竜化病患者としてレギト聖皇国に移送され、
エミリアの竜鎮めによって、ルカは正気を取り戻した。
――「ずっと暗闇の中にいた、とても苦しかった」と言ってルカは泣いていた。「自分のような出来損ないは父母に見捨てられるに違いない」と、ルカは怯えていた。
竜化病患者に出会うたび、エミリアはルカを思い出す。
ルカを救ったあの日のように、すべての人を救いたい。
それを生き甲斐にして、エミリアは偽聖女ながらも務めを果たし続けてきたのだ。
(なのに私は今、自分の務めを果たせていない)
体がふるえる。
記憶のなかのルカに救いを求めるように、イヤリングを握りしめて彼の名を呼ぶ。
「……ルカ」
こん、こんというノックの音が響き、侍女のサラが入室してきた。
「奥様。お茶の準備が整いました。……奥様?」
エミリアは、目に涙を溜めてうつむいている。
そんなエミリアを見て、不審そうにサラが眉を顰める。エミリアがなにかを握りしめているのに気づき、さらに怪訝な表情になった。
「ありがとう、サラ。でも今日は、お茶はいらないわ」
「……そうですか」
「悪いけれど、ダフネを呼んできてくれる? ちょっと、話がしたくて」
*
呼び出されたダフネは、エミリアの話を聞いて眉をひそめた。
「……竜鎮めを行う!? エミリア様、何をおっしゃっているのですか!」
押し殺した声で、ダフネはエミリアを問い詰めた。
「私は本気よ。マルクの竜化病を治したいの。お願い、協力してダフネ。牢屋番の目を盗んで、なんとか時間を作ってほしいの」
「なにを馬鹿なことを……」
耳打ちするような距離で、ふたりは話を続けていた。
「あなたはもはや『聖女カサンドラ』ではありません。聖女の力など二度と使う必要はありませんし、使ってはならないのです。誰かにバレたらどうするんですか」
「わかってるわ、でも……」
「いいえ、全く分かっていません。せっかく逃げ出せて、新しい人生を生き直せるのに。なぜわざわざ危険な真似をするのです? 行きすぎた善行は、ただの愚行です!」
ダフネの言うことは、おそらく正しい。
ダフネはすべてをかなぐり捨てて、命がけで助け出してくれたのだ。なのに自分は、わざわざ正体がばれるような愚行を働こうとしている。
このまま、ただの女を演じてのんびりと暮らすのが正解だ。きっとそうなのだろう。
でも……。
「ごめんね、ダフネ。でも私、どうしてもマルクを今すぐ助けたくて溜まらないの」
エミリアの目から涙があふれた。
「理屈ではないの……。私の我が儘だって、よく分かってるつもり。でも……」
絞り出すような声で呟き、ダフネの腕をぎゅっと握る。
「見て見ぬフリが、できないの。早くマルクを楽にしてあげて、少しでも早く普通の暮らしに戻してあげたい」
「ですが……仮に看守の目を盗んで竜鎮めを成功させたとして、その後はどうするのです? 竜化病患者が自然に正気を取り戻すことはあり得ませんから、「なぜ治ったんだ?」と大騒ぎになりますよ?」
エミリアは返事に詰まった。良い答えが見つからないからだ。
うつむくエミリアを、ダフネは険しい表情で見つめていた。二人の沈黙は、どれほどの長さだっただろうか。
――だが、やがて。
「仕方のない人ですね、あなたは」
溜息をつきながら、ダフネが優しく目を細めていた。
「ダフネ……?」
「要するに、あなたの関与を誰にも気取られないように、完璧な潜入・脱出をやり遂げればいいということですね? 牢屋の少年の竜化病がなぜか急に治ったとしても、治した者がメアリ様だと誰にも疑わせなければよい――と。そういうことでしょう?」
恭しく礼をして、ダフネは言った。
「ならば、このダフネがお手伝い致します」
「ダフネ……! ありがとう」
涙ぐんでいるエミリアに、淡々とした調子でダフネは話を続けた。
「メアリ様。ペンと紙をお借りします」
エミリアの文机を借りて、ダフネが羽ペンを走らせる――白い紙の上には、あっという間に地図が描き出されていった。
「ダフネ。その地図は?」
「領主邸内の地下に張り巡らされている、下水路のルートです。地下牢にも下水路は通じているので、使えるかと」
「下水路って……なんでダフネが知ってるの?」
「万が一の逃亡路として利用できると思ったので、すでに調査を済ませておりました。屋敷の厨房と浴室、洗濯室と温室の4カ所は、下水路にぎりぎり進入可能な隙間があります。そちらから進入しましょう。地下牢の見張りは私が行動不能にいたします。……殺しませんので、ご安心を」
ダフネの瞳は怜悧な刃物のようだった――それは護衛や侍女の目つきではなく、暗殺者の眼光だ。
「メアリ様は竜鎮めを速やかに完了させ、終わり次第お部屋に戻っていただきます。決行はいつになさいますか?」
「今日にしましょう。ディオン様が視察で帰ってこないから、今夜はひとりなの」
「承知いたしました。それでは私は『準備』をして参ります」
本当にありがとう……とエミリアが声を震わせていると、ダフネの鋭い美貌にほんの少しだけ朱が差した。
「……私の主人は、本当に仕方のない人だ」
ダフネの唇は、わずかに綻んでいるように見えた。
*
その日の深夜、ダフネとエミリアは作戦を決行した。
エミリアはダフネの手を借りながら、領主邸の敷地内にある温室へと忍び込んだ。排水設備室の奥から下水路に侵入し、地下牢へと潜入する。
地下牢には見張り番の仮眠室や休憩室などがあり、休憩室が下水路と繋がっていた。休憩室に誰もいないのを確認してから、ダフネが先に忍び込む。エミリアも、なんとか無事に潜入を果たした。
「地下牢内の監獄室には、耐攻撃魔法処理が施された独房が5つあります。今はマルクだけが収容されており、マルクの独房は一番奥です。鎮静剤を投与されているため、マルクが騒ぎ出す可能性は低いかと」
薄暗い通路を進んでいると、道の途中に一人の兵士が倒れており、エミリアは喉の奥で悲鳴を噛み殺した。
「ご安心ください、眠らせただけです。――本日の見張り番は二名。彼らにはあらかじめ時限性の睡眠毒を盛っておきました」
そう言いながら、ダフネは通りすがりに仮眠室の戸を薄く開いた。仮眠室では、もう一人の兵士がベッドで寝息を立てている。
道の途中で寝ている兵士の脇をすり抜け、ダフネとエミリアは通路の先にある監獄室を目指した。
「こちらです、エミリア様。竜鎮めはできるだけ速やかにお願いしま――」
ダフネは声を途切れさせ、いきなり手首を翻して何かを投擲した。ナイフを隠し持っていたらしい。
次の瞬間、ダフネの身体が横殴りに弾き飛ばされた。
エミリアは、何が起こったか理解できずに唖然とする。
「……貴様ッ、く、ぁ」
「手荒な真似をするが、許せよ。先に仕掛けてきたのはお前だ」
エミリアは言葉を失っていた。
屈強な長身の男が、ダフネの身体を床に押し付けていたからだ――その男は。
(……ディオン様!?)
「メアリ。こんなところに何をしにきたんだ?」
ディオンはダフネを押し付けて腕をひねり上げながら、険しい顔でエミリアを見つめていた。
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